温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第125回】 野中郁次郎、紺野登『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法―』(東洋経済新報社,2003年)
90年代半ばに、経営学者の野中郁次郎氏と竹内弘高氏の共著『知識創造企業』が出版されたとき、ある経済学者がとても好意的な書評を述べており、その言に誘われるかのように当時読むことになった。日本の企業がイノベーションを生み出していく際に、目にはみえにくく、言葉や数字であらわしきれない「暗黙知」を、誰にでもわかる言葉や数字によって示される「形式知」へと変換していく過程に特徴があるとした内容は充分に読み応えがあった。西洋の学者やマネジメント層に対して、日本の独自の「知識創造理論」を示すとの目的を冒頭部分に掲げたこの本は、知識とは何かから始まり、そして、知るとは何かを探求していく。西洋の哲学の歩みを論じ、プラトン、デカルトなどが登場し、そして日本独自の哲学を引き合いに出してくるなかで西田幾多郎が登壇してくる。
この本が示す「知識創造理論」は、企業内にある暗黙知が形式知として、徐々に「形」をなして実用化されていく流れを「知識のスパイラル」(モデル)と名付け、共同化、表出化、連結化、内面化といった用語でその過程を整理する。組織のメンバー間でバラバラに使われている「暗黙知」(たとえばベテランワーカーたちの持つノウハウ)を、相互作用させて「共同化」するための「場」を設け、今度はこれに対話を行って言語化していくなかで「表出化」させる。それをさらに他部署などとも繋げて「連結化」を試みることで形式知が一つの節目を迎え、この経験を重ねていくことで新たに深く「内面化」していき、再度の暗黙知へとなっていくという理論である。これらが軸となって企業の比較などが展開されている同書は、平易なマネジメント本が数多あるなかで、決して読みやすいとは言えないが、間違いなく知的な迫力とインパクトはあった。
今回取り上げる『知識創造の方法論』は、『知識創造企業』の続編とも姉妹編ともいえる内容なのだが、大きな違いは共同執筆者が竹内弘高氏から紺野登氏へと変わり、以前よりも哲学的な深みが増している点だ。前著においては知識創造理論に説得力を持たせるためにどこか実証的な部分に重きを置いて論じていたが、本書ではビジネスや事業に活かせる知識を生み出してくための思考方法により深く入り込んでいる。なお、本書は哲学書ではなく、経営書であると断り書きがあり、同時に教科書的なノウハウを示すものではなくて、読者が知の鍛錬(ディシプリン)を実践してもらう目的で書いたという。本書の冒頭の「序」では手厳しい文章が目に飛び込んでくる。
「・・・日本の課長や部長が考えることというのはA4用紙にすると2、3枚くらいで終わってしまう、といわれることがあります。ところが海外の場合、実践がともなうかは別としても、それが1冊の本になるぐらいの思考を交えて語られることが多いなどともいわれます。欧州のビジネスでも、事が進み親しくなるにつれ哲学・文学・歴史の話が出てきて、相手との会話での深さがないと密な仕事ができないとこぼす日本のビジネスマンもいます。これは日本の部・課長職が欧米に比べて集団的に調整業務を行う、という組織慣習にも起因していますが、少なくとも日本のビジネスマンに求められてきたのは平均的には実務処理や段取りの能力であって、概念構築や思考の深さではなかったのではないでしょうか」(『知識創造の方法』序 知の方法を身にまとう)
時代の変わり目で企業がイノベーションを起こしてその価値を高めていくために、企業内で知識創造を行い続けることが重要だという結論は前著とさほど変わらない。前著が「知識創造理論」の全体を見せたとすれば、本書では知識創造のための哲学がまずその手段として有効であり、それをいかに活用できるかを深く追求するところに特徴がある。前著に引き続き西田幾多郎を再登壇させているが、以前は、西田が説いた哲学の断片的知識を、西洋の哲学の歩みを論じるなかでわずかに対置させる程度の扱いであった。しかし、本書では西田の「純粋経験」をより深く掘り下げて、先の「知識のスパイラル」(本書では共同化(Socialization)、表出化(Externalization)、連結化(Combination)、内面化(Internalization)の頭文字をとって「SECIモデル」(セキモデル)と呼称している)のなかにしっかりと取り込んでいる。
他にも、前著でも登場したプラトンやデカルト、そしてデューイといった哲学者たちを登場させて、やはりこの「SECIモデル」のなかに適用している。それは、暗黙知から暗黙知(共同化)を創造する過程で西田幾多郎「身体的経験からの本質直観」、暗黙知から形式知(表出化)を創造する過程でプラトン「現象の彼方にある概念の追及」、形式知から形式知(連結化)を創造する過程でデカルト「知識の客体化、分析、総合」、形式知から暗黙知(内面化)を創造する過程でデューイ「知識の実証、実用検証」といったものになる。
前著で示されていた理論がより洗練されたともいえるが、本書はそれだけでは終わらずに、あくまでも個人の知の鍛錬としての方法を、演繹論理(deduction)、帰納論理(induction)、仮説推論(abduction)、遡行推論(retroduction)などの考えも持ち出し、さらには社会科学や哲学からマックス・ヴェーバー、フッサール、マルクスなども思考の類型として使い倒しながら進めていく。それはかなりの振れ幅を持ち、ときにメカニズムを表すためにメタファーなどを活用して形式知化していく方法を示すなど、知識創造のあらゆる方法を示そうしていく。読み手にはページを進めていくにつれて、息継ぎの暇もなく概念の海を泳ぐように感じられるかもしれないが、中盤になって一旦の結論へと至り折り返し地点となる。
「これまで私たちが社会科学の事例から学んだ知の方法をエッセンスとして抽出すれば、行為の現場・現象を立ち現れるままに受け入れ、そこから仮説を創出し(アブダクション)、メタファーを用いつつ背後にある構造や因果関係を発見していく、というプロセスとなるといえます・・・」(同 第二部 社会科学にみる知識創造の知)
「それは机上のアイデア発想や意思決定ノウハウではなく、私たちの生きている時と場所で(あるいは企業であれば、組織とともに)実存的に知を生み出していくための本質的な「知のディシプリン」(Knowledge Dynamics)でもあります」(同)
この後、第3部へと入り「アイデア」から「コンセプト」をいかにして作っていくかという細部へと入るが、前半で示されてきた知の方法を道具として使いながら進みゆき、その上で「コンセプト」から「モデル化」(理論化)へと入っていく。そして、最後に個人として求められる「知の鍛錬」(ディスシプリン)が 組織全体の知のプロセスとの兼ね合いでどのような意味があるのかを展開して本書はゴールとなる。
本書は哲学書ではなく経営書であると謳っているが、いずれにしてもかなり濃厚なものを提供してくれていることは間違いない。これらの全てを使いこなせるかどうかは個人の資質と努力の両方に負う所が大きいだろうが、本書が示す知の方法を本気で身に着けようと思えば、やはり登場してきた哲学者たちのオリジナルに挑戦してみることが必要となるだろう。本書は知の方法について十分に示してくれているとは思うが、これを一読したことで方法が使いこなせるかはまったく別の話なのだ。『知識創造の方法論』の副題は「―ナレッジワーカーの作法―」となっているが、作法なるものをマスターしていくのはいつだって時間と努力を必要とする。
なお、本書が示してくれる知の方法のうち幾許かでも使いこなすようになれば、たしかに個人として仕事の捉え方、進め方にかなりの変化が生まれるのはその通りだと思う。ただし、それが組織や周囲の理解や共感を得られるとは限らないし、ときに面倒で迷惑な人間という扱いを不条理にも受けてしまうかもしれない。それでも、オーソドックスな哲学を踏まえての歩みが鍛えてくれるのは知ばかりではなく、心もまた然りである。ようするに周囲からの理解や共感を得られなくとも、不条理に耐え、心を支える教養としても働いてくれるはずであり、その意味では「知の鍛錬」は「心の鍛錬」でもあるはずなのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。