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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「神のひとり子を信じる」

2024.04.30 13:52
創世記22章1-18節
1. これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2. 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

3. 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

4. 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。

5. それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。

6. アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。

7. イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

8. アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。

9. 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

10. アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

11. そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」

12. 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

13. アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

14. アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

15. 主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、

16. こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う─主のことば─。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、

17. 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。

18. あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ④

2024年4月28日

創世記22章1-18節

「神のひとり子を信じる」


 先週に引き続き創世記のアブラハムが登場するみとこばです。先週、私たちの父なる神は全能のお方であることを教えられました。人間的に見れば、子どもを宿すなど不可能に思われる100歳のアブラハム・90歳のサラ夫婦に男の子の赤ちゃんを与えると神様は約束してくださったのです。

 ずっと待たされ続けたアブラハムとサラは、神様の約束を信じ切ることができず、「そんなことがあるはずがない」とあきらめの笑いをしてしまいますが、それでも全能なる神様は約束された通り、後継ぎとなる大切なイサクを与えてくださいました。この世の常識、私たちの常識からしたら、ありえない、あってはいけないと思われるようなことを、神様は実現してくださったのです。

全能なる神様の御前で、私たちはどう生きるべきか。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と信じて、ゆだねて、飛び込んでいく姿勢を、イエス様の母となったあのマリアの信仰告白からも教えられました。

 そして創世記22章は、アブラハムとイサクの身に起こった人生最大の危機とも言える出来事です。22章2節で神様はアブラハムに信じがたい命令を下されます。

「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

ようやく与えられた大切なひとり息子、待ちに待って奇跡的に生まれて来たこの子を、たったひとりの何にも代えがたい息子イサクを、いけにえとしてささげなさい。しかも全焼のいけにえ=焼き尽くすいけにえとしてささげよ、と神様から迫られたのです。

「そんなことして良いはずありませんよね」、「何かの聞き間違えですよね」、

「生きている子どものいのちをささげろなんて、なんとむごたらしいことを」、

「そんな理不尽な命令には従えません」、「わけが分かりません」、

「愛の神様が、正義の神様が、そんなこと命じるなんて

おかしいじゃないですか!」

「この子から子孫を繁栄させると、この子から国民を起こすと、

神様、あなたは約束してくださったじゃないですか、

それなのに、なぜこの子を殺せとおっしゃるのですか。」

「たとえ神様、あなたの命令でも、それだけは従えません」

私ならきっとそう言うでしょうね。このような神様のことばには従えない。逆らって当然だと思うでしょう。

アブラハムは、どうだったでしょうか? この時のアブラハムの心中、この時の思いを聖書は一言も記していません。苦しみ抜いて眠られぬ夜を明かしたかもしれません。涙し、葛藤し、悩み抜いたかもしれません。

しかし翌朝、アブラハムはイサクと2人のしもべたちと旅立ったのです。22章3節、

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍(くら)をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪(たきぎ)を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

アブラハムは夜が明ける前、斧を取り出します。そして積んであった木を割り始めたのです。このまきは、このたきぎは、息子を燃やすためのものだ・・・。そう覚悟して、たきぎを割ったのです。

3日間、モリヤの山を目指して旅を続け、そして2人のしもべを山のふもとに置いて親子二人だけで山の中に入って行きます。

決められた場所に着いたとき、アブラハムは沢山の石を積み上げ祭壇を築き、その上にたきぎを敷いてイサクを縛って寝かせます。そして鋭利な刀を振り上げてイサクののど元めがけて、刀を振り下そうとしたのです。

その時、神様がストップをかけてくださいます。12節

御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

そしてイサクの身代わりに、やぶにひっかかっていた羊をアブラハムはいけにえとしてささげたのです。

「大切なひとり息子を、愛する息子を父親が殺してしまうかもしれない絶体絶命の状況でした」恐ろしい出来事です。信じがたい出来事です。けれども、神様はここでご自身の愛を表してくださったのです。アブラハムのこの時の行動は、ひとり子のいのちをささげる父なる神様の姿を前もって示していたのです。

先ほど交読したヘブル人への手紙11章19節には、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」と、アブラハムのイサクをささげようとした行為が解説されています。この「比喩」という単語は、イエス様がなさった「たとえ話」とも同じ単語です。神の国の神秘を私たちが分かるようにと、この地上の日常の出来事でたとえて語ってくださったことです。

つまりアブラハムの行為は、父なる神様のなさった御業のたとえ・象徴であった。アブラハムの行為は、ひとり子イエス様をこの地上に遣わし、十字架に死にまで至らせた父なる神様の御業を前もって表していたのです。新改訳聖書のこれまでの翻訳では「比喩的に言えば」というところを「これは型です」と語っています。

アブラハムがイサクをささげたこと、それは「比喩であり型であった」前もって示されたモデルだったのです。創世記22章の出来事が予告しているのはイエス様の十字架です、私たちの罪をすべて背負って身代わりに死んでくださったイエス様の犠牲です。そして、それを計画し実行された父なる神様のお姿が表されています。

 創世記22章6節 アブラハムは全焼のささげ物のための薪(たきぎ)を取り、それを息子イサクに背負わせ、

1. たきぎを背負って行くイサク。自らを死に至らせる木をかついでモリヤの山をひたすら登っていくイサク。その姿は約2,000年後、ゴルゴタの丘へと十字架を背負って歩んでくださったイエス様を暗示しているのではないでしょうか。

2. イサクの身代わりにいけにえとしてささげられた一頭の羊、この羊は頭をやぶにひっかけていました。この羊も私たちのために身代わりとなって死んでくださった神の子羊イエス様を表しているでしょう。羊の頭に突き刺さったやぶのように、十字架上のイエス様の頭には茨の冠がめり込んでいました。

3. アブラハムにとっても父なる神様にとっても、ひとり子は愛してやまない存在です。何にも代えがたい存在です。自分の生き写しのようなこの息子。この子のためなら自分の命をささげても惜しくない。そう思う父が息子をいけにえとしてささげたのです。

4. イサクが死の寸前で守られ、命を得たように。イエス様は死なれましたが、三日目に墓の中からよみがえってくださったのです。

 ただモリヤの山とゴルゴタの丘で出来事の大きな違いは、危機一髪のタイミングで、「ストップ・待った」がかけられたアブラハムに対して、父なる神様はひとり子イエス様の十字架の苦しみに、その死にストップをかけなかったということです。

 

私たちは使徒信条の中で主イエス様に対する信仰を、まずこう告白します。「わたしはそのひとり子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。」

イエス様は神のひとり子なるお方です。イエス様は神様ご自身であられ、父なる神様との関係においては永遠に父とひとり子という関係です。永遠に愛し合い、結び合っている父と子。その父が御子に、私たちの罪とその刑罰をすべて負わせ、十字架で身代わりに罰したのです。

私たちはこの事実:神のひとり子が私たちのためにすべてを捨ててくださったこと。この地上に人として生まれて来てくださり、悩み、苦しみ、仕えてくださったこと。そして私たちを赦し、救い出し、生かすために、神のひとり子が十字架でいのちをささげてくださったことの重みを、素晴らしさを、どれほど心にしっかりと刻んでいるでしょうか。

また大切なひとり子をも惜しまずに私たち=罪深い私たちのためにささげてくださった父なる神様の思いをどこまで真剣に覚えているでしょうか。 ― 人間の親でも、子どもが痛んでいれば一緒に痛み、悲しんでいれば一緒に悲しみます。代わってあげたいと思います。病気が移る、そんなことお構いなく、自らを犠牲にしても子どもを看病します。 ― なおのこと永遠に父である神様は、御子の十字架での苦しみ・孤独・うめきをどのような思いで見ておられたでしょうか。

神のひとり子イエス様がいのちがけで、その尊いいのちを犠牲にしてくださった。そこまでして私たちを赦し救い出してくださる。こんなにも大きな愛を与えて頂いていることを、あなたはどのように受け止めているでしょうか。イエス様の最大の犠牲、父なる神様の最大の犠牲に対して、私たちはどうあるべきでしょうか。

イエス様、あなただけが私の救い主です。そう心から告白し、従い続けて行く者となりたいと思います。いのちまでもささげてくださった主イエス様のために、私自身をおささげして生きましょう、

今日も最後に「ハイデルベルク信仰問答」の問いと答えから、神のひとり子イエス様が私たちの救い主であられることの素晴らしさ・豊かさを味わっていきましょう。

問33 わたしたちも神の子であるのに、
   なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。


答  なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。
   わたしたちはこのお方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。

祈りましょう。