「死ぬまで振り返らないぞ」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十一)
正直、近頃の天候の高圧的な態度にはいささか押され気味です。
それというのも年々歳々予測不可能な展開が次々にもたらされるからでしょう。
その反面、我が庭の植物たちがこぼす無言の愚痴には、環境に支配されるしかないのだという、半ば諦め気分やら運命の必然性やらも感じられてしまうのです。
そうした後ろ向きの空気が漂うなかで、いつの間にやら視界の外へ消えていった種類も、残念ながら少なくありません。あの花も、この花も、確か数年前には咲いていたはずなのに、今は影も形もなく、思い出のかけらとしても残っていません。
要するに、適応できない生き物は絶えるのみという自然界の普遍的にして冷ややかな原理に則って淘汰されたのです。
物質的な世界においてはやむを得ない現象なのでしょうが、しかし、それを万人にも当てはまる、動かしがたい現象と解釈するには、多少なりとも度胸が必要となります。
自然が命に激しく執拗に要求してくるのは、死です。さまざまな形の死滅が、のべつ生そのものに狙いを定めて、過度な重荷を負わせてきます。
とはいえ、慎み深くて雄々しい草木の魂を訪れる感動の生存権たるや、総じて逞しい生命力に満ちあふれていますから、絨毯爆撃の直後の都市のごとき悲惨な光景を呈することはありません。大方は無事で生存しています。幸いにも生き残ったかれらは、存在の平均値にそって美の結晶体としての花を咲かせつづけてきました。
突然ですが、この場を借りて私は、一方的な美意識を頼りに集めた植物にとって相応しい作庭家になれないまま現在に至っていることを告白し、全面的にその非を認めます。
命を弄ぶつもりはさらさらないのですが、それにしても、もう少し扱いようがあったのではないかと悔やまれます。少なくとも、ある程度の天候の変動には充分耐え得る種類を厳選すべきではなかったでしょうか。
たとえば、得て勝手なイメージのみを先行させてしまい、表面的な美に惹かれてヒマラヤの青いケシを大量に移植し、真夏の暑さによって一株残らず破滅させたことがいたく悔やまれるきょうこの頃です。
今は亡きチョコレートコスモスの亡霊が呟きました。
「そんな後悔の言葉なんぞおくびにも出さないでくれませんか」
今を盛りと咲き誇っているクルマユリの生き霊がうそぶきました。
「命を失っていない者はけっして後ろを振り返ってはいけません」