偉人『平賀源内』
今から260年余り前に本草学を学んだ和製レオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる人物がいた。その人物とは江戸時代に活躍したエレキテルで有名な平賀源内である。
1728年12月18日香川県高松藩の足軽をしていた父白石茂左衛門の三男として誕生する。幼き頃から利発で好奇心旺盛な性格は、新しいものを見聞きするとそのことを事細かに書き綴る少年であった。平賀源内の利発さを解体新書を記した蘭学医杉田玄白はこのように綴っている。「平賀源内という人がおり、本職は植物学者であるが生まれながらにして頭が良く才能があり、時代を先取りするような人間である」と褒めちぎっている。また第10代将軍徳川家治の右腕として活躍した家老田沼意次にも気に入られ長崎への遊学を後押しをしてもらってもいる。彼の人生は重要人物らが認めた彼の利発さとは裏腹に源内自身が思い描いた成功を何一つ手にすることはできず仕舞いだった。今回は当時の博学者や政治家が口を揃えて彼の才能を認めていながら、当の本人は国のために何一つ形にすることができなかったと吐出している。実はこの仕事をしていると磨けばかなり光り輝くものを持っているのにも拘わらず、その光を十二分に引き出そうとしてもなかなか難しいと感じることがある。今回は平賀源内を通して自分の才能を活かすこととはどういうことなのかを子育てと絡めながら話を進めていこう。
身分が低い方であった源内であるが、その利発さが評判を呼び13歳で高松藩藩医のもとで本草学を学び、本草学者田村元雄の門下生となり実証的な本草学を極めていった。本草学とはという話をし忘れていたためここで軽く触れておこう。元々は中国から伝わってきた医薬学に関する学びである。薬用とする植物・動物・鉱物そなどの形態や産地及び効用などを研究する学問であり、江戸時代では更にジャンルが増えて博物学の域まで及んだ学問でもある。実はこの江戸時代の本草学を学んだ偉人たちは多く、その博学さは目を見張るほどのものがあり現代人が太刀打ちできないであろうと感じている。源内の博学の所以は本草学にありと言える。
源内は本草学を学んだのちに全国各地の産物を集め品評し合う小規模な博覧会尾を開催している。現代においては博覧会や特産物を一挙に集めた催し物は全国各地で行われているが、当時はそれぞれの藩が藩内の特産物を機密として扱うほど重要なものであることから、いかに平賀源内が社会概念が一般人からかけ離れ行動力があったことがわかる。本草学はものの描写ということを追求しているため源内はオランダ画法も学んでおり、その技術は写真かと見紛うほどでそのテクニックが並外れていることがわかる。マルチな才能が調べれば調べるほど出てくる面白い人物でもある。
杉田玄白らが解体新書の挿絵を描くことにおいても杉田玄白らは鎖国時代に西洋画として人体を描くことは咎めを受けるのではないかと心配したのであるが、源内はキセルを手に出版すべきと言い放ったそうである。鎖国という大きな規制の枠の中でこの西洋画を世に出す事が命に直結することを恐れるのが当然の時代、源内は何も恐れず杉田玄白には内緒で家老田沼意次に打診をしていた異端児的であったことが窺い知れる。源内の明け透けないお調子者の性格が人を惹きつけていたことは有名な話であるが、本草学で学んだことを術として使用すればその性格に輪をかけて人を惹きつけたに違いない。
そして彼の特出していた性格の一つが負けん気である。当時外国との貿易の窓口が長崎の出島で世界の中心として活躍していたのがオランダであり、オランダ人が集う長崎屋という宿に赴いては西洋に対しての対抗意識を隠すことなく言葉にした。「そんなの日本にだって作れるよ」「こんなの俺にだってできるよ」「これなら俺も持ってるよ」と次々とオランダ人が持ち出して見せるものに対抗意識をメラメラと燃やしたのである。将軍に謁見するために江戸に登ってきたオランダ人に一目会おう、新しい学びを得ようとしていた博学者の中でこのような対抗意識を燃やしていたとはやはり一筋縄ではいかない人物である。
ではなぜそのような発言を始終したのか。その理由は源内24歳の頃外国に門戸を開いていた長崎に遊学し、外国製品の売買で使用されていたのが日本の金銀銅であった。源内はその貴重なものが日本国外へどんどんと持ち出されることに危機感を覚えたのである。『これではいかん。日本の国力低下に繋がる、国力増進のために産業を起こさなければならぬ』と考えた。彼のその負けん気は愛国心から発したもので生涯に渡り考え続けたテーマなのだ。
このような相手に絶対に負けぬと頑なになると目先のことに囚われ、本来求めるべきものを見失うことがある。実はこの誰にも負けたくないという対抗意識は4〜6歳の男児に顕著に現れる。大人しく見える男児であっても内に秘めた闘争心が育っているのだ。できればその幼児期に芽生える他者に対する対抗心や闘争心を対人ではなく自分自身に向け、自分自身を向上させる方向にベクトルを向けて欲しいと考える。しかし源内はそのベクトルの矛先が外国ということに目が向き過ぎた。あれもこれもと対抗意識や闘争心を燃やしているうちに目移りしまい、日本に必要なことを分析して強みを生み出す方向へ舵を切る事ができなかったのであろう。だから人生を振り返ったことに何もなし得ていないという驚愕の事実に気付いてしまったのである。
彼の着眼点は素晴らしいものがあるが、残念ながら一つのことに情熱を傾けることができず自分自身が追い求めていた国のために産業を起こすことが成就できなかったのである。たとえば長崎に運ばれる途中に壊れた医療用のエレキテルを修理したものの、電流が弱すぎて医療用としての役目を果たせず、大名のところへ行きそのエレキテルの微弱電流を流しパチッとすることを見せるだけのものいわゆる見世物止まりとなったのである。また現在の温度計を意味する寒暖計はオランダ人に負けじと「作れるよ」と豪語して作ったものの、その商品化の準備を程々に人に任せてしまったため商品化されることはなく日本製の寒暖計輸出の夢は儚く散ったのである。また今でいうアスベストである石綿を発見し火莞布(かかんふ)としてオランダ人や中国人に得意げに見せていたものも技術的に織る事が難しく成功する事ができなかった。
源内には発想力、実行力、好奇心というもの全てが瞬間湯沸かし器的な瞬発系であり、情熱を持って本腰を入れ持続性を持ってことにあたる事ができず、ある程度道筋がたったと感じたらすぐに人に任せてしまい、任された人物は源内ほどの知識がないことで全ての発明が立ち消えてしまったのだ。発明はできるがエジソンのようにさらに一歩踏み込んで研究実験を繰り返したり、スティーブ・ヴォズニアックのように監修という立場でことの成り行きを見ていたら日本初の製品は世に出す事ができていたのではないだろうか。鎖国時代が終わりを告げて開国し日本の未来は変化していたかもしれない。
成功しない事実がある反面成功したものある。大業を成そうとする意思は強烈に持っている源内であるからその資金を生み出すために彼は作家として談義本(滑稽な作品)『根南志具佐』や狂文集放屁論『風来六部集』、そして分浄瑠璃作家としての執筆を行い資金を稼ぐ事ができた。この作家的立場で彼はある程度支持されたのである。彼が偉業を成すために必要な資金を稼ぐことだけが数少ない成功となってしまったことは彼の意図しないことだったといえよう。
彼は52歳で亡くなったがその前年にこのよう言葉を残している。
「功ならず 名ばかり遂げて年暮れぬ」
彼は自分自身の才能を認めていたに違いないく、手応えのあることを幾つも見つけたにも拘らずなぜ本業と考えていた国の発展のための偉業を成すことが出来ないのかと悩んで先の言葉を残したと思われる。
当時の本草学という進歩的な学びを行い本草学者・蘭学者・医者・殖産事業者(金の発掘)・地質学者・戯作家・浄瑠璃作家・発明家・俳人・蘭画家など多くの肩書を持つマルチな才能を発揮した特殊な人物である。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチのように多くのものを見出す才能があっても自分自身の最大の術である武器が何であるのかを理解していれば、自分自身の代名詞となるものを後世に残すことができたであろう。しかし平賀源内には自分自身の持つクリエイティブな部分を形にする最大の術を持っていなかったのである。表現方法をもてていなかったからこそ全てが宙ぶらりんの根なし草になったのではないだろうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチは自分自身の強みである描くという最大の術を持って多くのものを成し、ミケランジェロは描くことと同時に実際に手で石に触れ掘るという自分の原点を彷彿とさせる道で多くの彫刻と絵画を残し、ラファエロは自分自身が一番美しく描けるという聖母子像を得意とした。ショパンは体力のない自分に合った演奏方法や体力をあまり必要としないピアノを使用し人々の心を掴み、リストはナルシストの自分を活かすように演奏テクニックで人々を魅了し、ゲーテは幼い頃から積み上げ鍛えた言語力を最大限にいかし多くの文学作品を生み出した。前回の牧野富太郎も植物が好きすぎて追求するために実践していたことが身を結び、日本の植物学をかなりのスピードで進化させたのである。このように偉業を成し遂げる人々は自分自身の最高の武器とも言える術を持ち、自分の能力を活かし切ったのが偉人たちである。よって才能や能力がいくら高くともその力を生み出すだけの努力を実践し、表現する方法を持たなければ時代を代表する偉人にはなり得ないのである。
偉人と呼ばれる先人たちはギフトをもらって誕生をしている人も多いが、やはり好きなことを情熱を持ちとことん突き詰める努力をしたからこその結果を得ている偉人もいるのだ。そう考えると平賀源内は才能や能力には溢れていたが、情熱を持って自分にしかできない術というものを意識することができずに人生が終わったのではないだろうか。オランダなどの外国に対抗する発想を国を豊かにすることに一歩踏み込んで日本の強みとは何かを考える余裕があれば、彼が生涯テーマとして思い描いてきた日本の産業を起こすという夢が叶ったかもしれぬ。
それではまとめに入ろう。
唐突な始まりではあるが・・・私はなるべく自分自身の直感というものを大事にしている。ふと生徒さんを思い浮かべると『あの子の才能はこのことかなとか、もしかするとこの子の強みはここかもしれない』と不意に頭の中に浮かぶことがある。その点に注目してレッスン時に様子を見ていると的外れではないと感じることがある。自分自身の子供であればその強みを最大限に活かそうとするのだが、親御さんにはやんわりとそしてあっさりとその情報だけを伝えるようにしている。直感の優れたお母様方であれば通じたと感じることもあるが、多くのお母様は聞き逃しているようにも思うことも少なくはない。親御さんのお子さんを熟視することを奪いたくないためにそれ以上突っ込まないようにしてもいるが、この子にしかないものを見極め育てる親の目を養ってほいと強く願っている。平賀源内のようなマルチな能力があるにも拘わらず親がその才能に気付かないことでその才能を埋もれさせてしまわないように心掛けてほしい。そのためには子供が好きでたまらないものに熱中させることや情熱を持って行っていることをとことん経験させて欲しいと考える。
私は子供の頃から良くも悪くも大人の世界を垣間見る経験が多かった。その人を見るということが現在の仕事のベースになっている。とるに足らない人間ではあるがこの分析力を持って多面的に思考できることは自分自身の中に多くの満足感をもたらし、知らない世界を覗き込もうとする気力に満ちてはいる。ただ老体に鞭打つことが増えてきて今日も首が痛いだの肩が凝る単行本の活字が見えない老化と格闘中である。お子さんをお持ちのお母様はまだまだ若い、馬力を出そうと思えば出せる状況にあるのだから今を大事に子供を熟視して欲しいと願うばかりである。