明日、5月9日(木)は【ご縁の間の会】です。それと、5月の間の会スケジュール。【からだを見合う実験室】の所見などを掲載します。
こんにちは。
驚くほど美しい5月がまたやってきました。
今年は特に自主公演は行いませんが、
まず、5月の間の会のスケジュールをお知らせします。
◆【ご縁の間の会】
日時:2024年5月9日(木)13:30〜16:30
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
◆【スタジオピアさんで間の会】非公開
日時:2024年5月10日(金)
◆【からだを見合う実験室】(東京開催・間の会主催ではない推奨の催し)
日時:2024年5月18日(土)13:00〜18:00
場所:東京都世田谷区:六所橋区民集会所・第1会議室
世話人:大崎晃伸・古川友紀・西脇秀典
参加費:500円(会場代と運営費含む)
定員:10人(世話人含む)
◆【月々の間の会】
日時:2024年5月26日(日)13:30〜16:30
場所が取れない場合を除き、基本、第四日曜日になります。
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター
◆【ごちゃまぜ 人間の会】(6月)
日時:2024年6月2日(日)13:30〜16:30
場所:津センターパレス 津市市民活動センター地下一階研修室
呼びかけ人:西脇秀典・松田愼二・佐藤竜
先日は、直前になって【月々の間の会】を中止することになって、大変申しわけありませんでした。その後、日曜もやっている、わたしのかかりつけ医に母を連れて行って、母も感染していることが分かりました。母は感染が初めてで肺の持病もあるので、やはり、わたしよりは症状も重かったです。その後、二人とも回復しておりますが、母は、嗅覚障害の後遺症が残っています。また、持病から来る咳が以前よりも目立ちます。母も感染したらしたで仕方ないと思っているので、それはよいのですが、やはり、あの段階で【月々の間の会】は実施しなくてよかったです。
もちろん、コロナに感染するのは一向に構わないという方もおられるでしょうけれど、これはインフルエンザでも一緒ですが、感染力の高い、リスクも高い感染症を、わざわざ多くの人に感染させる必然性を感じません。
時期的に、輪島市にボランティアに行ってきた時に感染した可能性が高いですが、一緒に行った人たちには症状はなかったそうです。まあ、今もどこで感染するか分からないですね。
それで行動を闇雲に制限する必要はありませんが、わたし自身は、感染した時に、わざわざ広げないというくらいの感じです。
ボランティアに行けたのは、ありがたいことでした。比較的予定が詰まっていなくて、体調もそれほど悪くなく、気になっているところに行けることは、とても恵まれたことです。
ともあれ、わたしとしては、じかにこの目で見てみたいというのが、何より一番でした。
三年前くらいに、日雇い労働に行っていた時に、解体の現場も多々行っておりましたし、その際、怪我をして、破傷風のワクチンも打っていましたので、被災現場の危険性については、からだが覚えている面もあり、そういう現場に入るのが、現地を知るきっかけとしては、最適に思えました。
現地の現状だけでなく、色々と交わされている会話や議論にも耳を澄ませました。
わたしにとっては、じかに、この目で、この耳で見聞きし、その土地に身を重ねるということが、何より大事です。想像力や思いを馳せることも大事ですが、単なる情報や、誰か分からない人が発信していることに、今、振り回されている時間はありません。
ここ数ヶ月は、あれこれ、本を読んでいる時間も多かったです。
しかしながら、やはり戻ってくるのは、じかの世界です。
今、目の前の人と、どう対峙するか、それが帰ってゆくところなのでしょう。
4月の【ご縁の間の会】の際、参加者の一人が、
「頭の中にアイデアや思考が湧いてくる時が楽しい。
けれど、それが人に伝わるかどうかが怖い。」と発言されました。
わたしは、
「楽しい時と、怖い時と、その間の時はないのかな?」
もう一人の参加者が、
「フラットな時は?」
と聞きました。
しばし、沈黙がありました。
「こうして、聞いていてもらえて、何も話さなくていい時、フラットです。」
と、仰られました。
確かに、この時、楽しくも怖くもない、非常に密度の濃い、充実した、静かな時間があったように思います。
それは、ある意味、楽しい時間と、怖い時間があってこそ、なのかもしれません。
人と人の軋轢の時間も、とても大切だと思います。
それがなければ、虚しい人生です。
もちろん、それは、わたしにとっては、です。
人の人生の中には、傷ついて死んでいくことだってあります。そうした人生を否定するのは、とても失礼なことだと思います。
しかし、わたしだけの人生というものがあるのだろうか、とも思います。
人との関わり合いの中で、そこに人生という一筋の道が出来ていくようにも思います。
孤独とは、まさに、人との関わりのことではないかと思います。
そして、相変わらず、人に何かをやらせること、何かをやめさせることは、本当に、本当に出来るのだろうか。それは如何にして?ということを考えています。
あるいは、人から何かをさせられる、やめさせられるとはどういうことでしょうか?
たくさん、書きたいことがあるのですが、収まりません。とてつもなく長くなりそうです。
ここで死んだら後悔するかもしれませんが、それも人生でしょう。
一つ、昨年末に上映会を行った小森はるか監督の最新作、映画『ラジオ下神⽩ーあのとき あのまちの⾳楽から いまここへ』が現在、東京のポレポレ東中野で公開中です。また、新たに、わくわくするような世界が展開されています。お近くの方はぜひご覧ください。
映画『ラジオ下神⽩ーあのとき あのまちの⾳楽から いまここへ』公式サイトhttps://www.radioshimokajiromovie.com
また、今年も、恐らく7月ごろに、津久井やまゆり園事件についての集会を行うことを考えています。集会の実施主体となる意志のある人と、5月中くらいから、打ち合わせを行っていく方向で進めています。この集会を実施主体として一緒に作っていきたい方がおられましたら、ぜひ、ご連絡ください。昨年は実行委員会形式で行いましたが、実施形態についても話し合っていきたいと思います。
最後に今回の【からだを見合う実験室】について、世話人のそれぞれの所見を載せておきます。大崎、西脇、古川の順です。
わたしは、この会、黙っていても、じっとしていても、日常においてすら表現していない人は誰もいないことが現れる非日常ではないかと思っています。
「からだを見合う実験室」について
所見 ... 大崎晃伸
人と話すとき、人と一緒にいるとき、相手に反応してこちらが相づちを打ったり、話し方や居ずまいを変えるということは、それ自体を意識することは少ないかもしれないけれど、ごく当たり前に行われていることです。例えば、相手がただ沈黙していたとしても、それによってこちらのあり方は変わってきます(相手のほうをチラチラ見たりとか、心配になって声をかけたりとか、相手の存在に耳を澄ませたりとか)。
相手が何らかのアクションをしても、しなくても、私たちは相手の存在を感じ取り、影響を受けています。
そう考えると、人に見られる側に立つとき、見る人の行動やあり方の変化を、積極的に誘発させようという意識を持って、自分がアクションをしたり、居ずまいを変化させたりすることもあり得ます。演劇やダンス、音楽のコンサートやライブといった舞台芸術は、観客の心や知覚に、積極的に変化を起こそうとして行われているものなのかもしれません。
同時に、見る人の視線も、見られる人の身体や心、存在の仕方に当然影響を与えています。いま、「影響」と書きましたが、この「影響」は、長いスパンでの影響もあり得ますが、一瞬一瞬の影響でもあります。そして、一方通行の影響ではなくて、短い間のなかでも、相手の反応を見合い、影響され合い、自分も相手もその都度変化していく、マイクロな相互作用です。それは、日常では当たり前に起きていることなのです。(友達や恋人とのコミュニケーション、会計の際の店員とのやりとり、道ですれ違う際に相手との間に起きていることなど、想像してみてください)
人に見られる、と考えると、緊張しますが、人を見て見られて影響を与え合うというのは、普段当たり前にやっていること、起きていることですし、自分のアクションや存在自体が、相手に影響を与えていると考えると、楽しくなってきませんか。何かやっちゃおう、と思ってきませんか。再度になりますが、見る側も見られる側に影響を与えています。それは、視線だけでなく、見る側の小さなアクション(居ずまいを変える、別のほうを見る、咳払いをする)や存在の仕方自体が影響しています。見られる側の存在やアクションが、見る側の身体と心や知覚に影響し、そこで変わった見る側の存在や行動の仕方が、見られる側に影響する。細かいフィードバックが、その都度起き続けています。
舞台芸術でも、観客から演者への影響は確実にあるし、フィードバックのループも起きているはずなのに、そこに焦点が当たることは少ないように思われます。そういったマイクロな現象を見ていくよりも、「作品」や「演奏」、「テクニック」という単位で見ていくことが多いように思います。舞台芸術では、見られる側と見る側があまりにもはっきり区切られていて、その間に結界のようなものが存在していることが大きな理由かもしれません。(そして、観客の多くは、細かな影響関係自体を楽しみに来ているのではない)
人と人のあいだ、そして場に起きているマイクロなフィードバックループ(普段から起きているけれど)に焦点を合わせ、見ていきたいと思います。そして、そのことによって、場全体が動いていくような、空間が変容していくような、そんな時間を望んでいます。なんとも名付けがたいけれど、その存在自体が迫ってくる、そんな時間が経験できるのではないかと予想しています。
所見 ... 西脇秀典
皮膚同士が触れ合わなくとも、まなざしを交わすだけで、既に人同士は触れています。
あるいは、声をかけることでも、触れることがあります。
同じ部屋に人同士がいて、その人同士は無関係でしょうか。
多くの場合、人同士は視野に入っていても、その存在をはっきり感じていても、
それを意識しないことで人同士の生活を保っている部分があります。
この実験室では、目に入っていること、耳に入っていることを、
無視せず、少し意識的になってみたいと思います。
それは居心地がいいのか、悪いのか。
自分は人によってどんな影響を受けているのか、あるいは、人にどんな影響を与えているのか。
見ると見られるという間柄には、何らかの権力関係が生じるでしょうか。
あるいは、もし、生じているのだとしたら、どうして生じているのでしょうか。
どちらがどちらを支配しているのか、されているのか。
見ること、見られることで、傷つけたり、傷ついたりするのでしょうか。
そして、それは、あってはならないことでしょうか。
また、見たことを、見られたことを、言葉にしてみたり、あるいは言葉に出来なかったりすることで、そこに何が変化するのでしょうか。
この場所に来られる人は、どういう人で、また、来られない人はどういう人でしょうか。
あまり無思慮に、感じたことを無視して、ただなりゆきに任せて進めて行くのではなく、
それぞれの感じることを互いに大事にしながら、この時間を過ごしてみたいです。
所見 ... 古川友紀
見る/見られることで体がほぐされるようなことがあった、
という実感を持ってこの場をひらいているけれど、
世の中には圧倒的に抑圧された状況や、
そこまででなくとも口内にいつだかの魚の骨が刺さってるみたいな感じで生きていることが少なくないのだから、
その実感の真正を言うだけでは届かないのかもしれない。
自分のやっていることが一体どの位置からの発信なのかと分からなくなるのだけれど、何か良さそうだと思って続けています。
「からだを見合う実験室」っていう所に来てみたい方、どうぞいらしてください!
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典 です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2024年5月8日 間の会 西脇秀典
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