二十冊目 【脱近代宣言】
脱近代宣言
著者 落合陽一・清水高志・上妻世海
出版社 水声社
紫外線だったり、超音波を取り出して、インターネット上にそういうものが表現されるようになったら、もはや人間のインターネットより広いインターネットになるという話がでましたよね。とはいえ見えないものを単に数字に表すだけでは、まだあまり意味はないと思う。たとえばビックデータ的にまったく見えないもの同士の間に、なんらかの関係性があることがわかり、それが人間的な現象のレベルで表現されるようになった時に、やっと近代が終わる。
普段、文系の本を読んでる自分には、理系のワードが多く、取っ付きにくさはありましたが、横文字を和訳した時に失われる意味や言葉の質感があるので、これはこれで逆に分かりやすいなと思いました。落合さんの言う「デジタルネイチャー」とは、まさに我々世代のことを指しており、おおいに共感するものがあります。上記の引用は上妻さんのお話の部分だけれど、おっしゃる通り、近代が終わるのは、文化相対的な思考での変化はなく、技術の革新によって、まったく未知の身体的衝撃が社会に現れた時です。難しく感じますが、それは、たとえば、インターネット以前・以後や、アイフォン登場以前・以後の暮らしの変化を想像すると分かりやすいと思います。生活の軸が変化することは以外に身近に起こってきましたし、今後その流れは加速することでしょう。アートという世界で、人類がまだ気がついていない視覚や知覚に出会った時、単に新しい!ということを超えて、たとえば身体に関わる痴呆や身体の欠損の問題が解消されたり、未知の価値観が産まれると思います。そして、人間と機械の線引きはより曖昧になっていくことでしょう。
「良き道具」は「手足の延長である」と昔から言いますが、これからの時代では、道具の範囲は遥かに広域になり、人類はより拡張された身体を手に入れることになるでしょう。甲殻機動隊やマトリックスの世界に我々は生きていくのです。
それは、新しい価値感というよりは、仏教でいう「悟り」に近いものになっていくでしょう。落合さんも室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、「一休宗純」の生きかたこそが、デジタルネイチャーの指針となる。というようなことを言われています。それは新しい経験というよりは、過去の人々が様々な儀礼や大麻等を使い、知覚していた世界に、科学で迫っていくということです。生活の中から「神」を追い出すことで近代化した人類は、「神」の座に「科学」を据えました。そして、科学が崇めるもの=畏怖の対象でなく、人間が意のままにコントロールできるものになった時、人間は神になりました。それが現代です。そして、アニミズムの世界において「神」が「熊や狼」であった世界へと、時代は流転していっているように思います。次世代の「神」は個々人の中で、規格化できない神として存在する世界になるでしょう。宗教のようなおおきな矢印の時代にあらない理由は、我々が、かなり平等に情報と機械を操る技能と最低限の知識を有しているからです。
簡単に言えば、近代はバラバラだった物事を極めて高度に統一化したことで成長しましたが、それがインフラという形で高度に広がった故に、均一なスタンダードがなくても個々が生きていけるようになった。ということです。この本で言うところの「脱近代」というのは、既存の社会の概念を捨てる。ということでしょう。
この、わかるけれど、なにかもやもやする感じ、僕はとても楽しいです。同世代に面白い人がたくさんいて僕は幸せだなぁ。と思います。きっと彼らは世界を変えるでしょう。宗教が世界を変えたように、科学が世界を変えたように、OSが書き換えられるように時代は新しいステージへ変化しています。でも、まぁ、そんなことは彼らにまかせて、僕は毎日愛しい人とここで過ごせれば、それでいいと思っているので、彼らの描く新しい時代に対応する形で、自分の思う最小単位の豊かさに立脚した営みを、この山奥で続けられたらいいなぁ。と思うのです。それこそ、落合さんの言うところの「一休」的な処世術だと思うんです。
一休の好きなところは、「わからなくてもいいじゃん」と言っているところとか、二項対立より進んでいるところですね。デジタルネイチャーしつづけていくと、自分の主体のあり方というか、やり口というか、僕は自我を保つ方法が一休くらいしか見当たらないんです。いろんなものをただひたすらバラバラにしていくと、「一休ってなにを言っているかわからないけど、一休の気持ちがとてもよくわかる」