信じる
2018年12月2日
伊藤大輔牧師
ルカによる福音書1章39-45節
待降節が始まった。
今年もクリスマスの記事から私たちの備えを始めてきたいと考える。
今日の聖書はエリザベトとマリアが出会う場面。
この二人には共通した問題がある。
自分の意図と違うタイミングで子供を宿している。
エリザベト、ザカリア夫婦。
この夫婦の紹介の文章は読者にもう一つの家族を連想させる。
アブラハムの家族。
アブラハムは12部族の先祖。
アブラハムを連想させるザカリア、エリサベトは
イスラエルを、旧約聖書、これまでの歴史を象徴している者なのかもしれない。
自分たちの希望、未来
すでにあきらめていた。
何も期待をしていなかった。
エリサベトは妊娠が分かると五か月も身を隠した。
喜んではいない。
戸惑っている。受け入れられないでいる。
現実が受け入れらない。
目の前のものが喜びとは信じられない。
それはイスラエルの歴史がそうだったのではないか。
私たちの日常もそうなのではないか。
イスラエルは神の言葉を携えた預言者を拒絶し、神の子を殺した。
私たちも自分の直面している現実が幸せとは程遠いものと感じられている。
なんでこんものが私の前にあるのか。
結婚をしていないのに子供を宿してします。
なんでこんなものが私の前にあるのか。
マリアとて思いはエリサベトと同じ。
ところがマリアは、その現実を神の御心として受け入れる、という。
そのマリアがエリサベト訪問するのが本日の聖書。
マリアの訪問を受けたときエリサベトに思いもよらないことが起こった。
マリアの声を聞くと胎の子が喜び踊る。
なんでこんなものがわたしの前にあるのか。
私たちには立ちはだかる分厚い壁、
深い闇に覆われているかのように思える現実がある。
戸惑い、怒り、隠そうと、捨てようとする。
それも闇への対処の一つかもしれない。
マリアのとった行動はそれを受け入れる。
それを神の計画だとする。
そのマリアと出会ったとき「なんでこんなもの」が喜び踊る。
闇は拒絶するものなのか。
闇は神がかかわれない、
神よりも偉大なものなのか。
聖書の語る世界は違う。
闇は人が思い込んでいるもの。
闇にも神の恵みが隠されている。
神の喜びが宿っている。
「なんでこんなものが」。
それを受け入れて主イエスは世に来た。
教会が生まれた。
今日のキリスト教がある。
「なんでこんなものが」
それを信じ受け入れる
未来への大きな一歩が始まる。