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いろはうたう

赤よりも暗く黒よりも明るく

2024.05.12 09:00

「疲れた……」


 私の足は重く、一歩一歩が永遠に感じられる。

 階段を上るたびに、息が切れ、心臓が激しく打ち始める。

 なぜこんなに階段が多いのだろう? 世界に上り坂と下り坂は同じ数だけあるはずなのに。

 私は上り坂ばかり上っている気がする。


 私はついに耐えられなくなり狭い踊り場に座り込んだ。

 ここから見る景色はいつも変わらない。

 同じ灰色の空。同じ無機質なビルの群れ。同じ方向に流れる人の波。

 風は吹かない。空気は均質で平板だ。予兆も期待もなく、沈滞と諦念がある。


 ふと足元に小さな花が咲いているのに気づいた。どうして今まで見逃していたのだろう。

 小さな命が、この灰色の世界に色を与えている。私はもう一度階段を見上げた。

 道化師が踊りながら階段を降りて来る。彼の尖った革靴が花を踏み潰す。

 私はそれを無表情で見つめていた。


「なぜ、こんなに美しい花を壊すんですか?」

 私は立ち上がり、道化師に向かって問いかけた。本当に解らなかったのだ。

「美しいもの? この花が? それはあまりにも陳腐だ」

 道化師は答えると、奇妙な笑みを浮かべた。


「君は可哀そうだな。

 この世界は美しさを求める場所ではない。

 ときに争い、ときに協力し、ときに出し抜き、媚び売り諂い、後ろから刺す。

 人の皮を被った化物たちが蔓延り争い合っている場所なんだ」


 道化師の言葉には温度がなかった。熱くもないし冷たくもない。

「そんなことはわかっています。それでも、私にはこの世界しかないんです」

 私は叫んだ。しかし道化師は首を振るばかりだ。

「それは違うな。君は騙されてそう思い込んでるだけだ」


 道化師はそう言うと、私の目の前で手をくるりと回し指先に一輪の花を取り出した。

「お嬢さん、この美しい花を君に贈ろう。

 もしそれで階段を上り続ける君の疲れが癒えるのならね。

 でも君には別の選択肢もある。ぼくの言っていることは解るだろう?」


 そう言うと彼は私の横を通り過ぎて行った。

 道化師の革靴が花を踏み潰す。その音がいつまでも耳に残っている。

 でもその音が何を意味するのか私には判断ができない。

 私は迷った末に、手の中で花を握りつぶすと階段を見下ろした。


 ちょうど階段を上ってくる中年男性がいた。

 彼は避けるそぶりを見せない。私が道を譲ると確信しているようだ。

 黙って道を譲り、すれ違いざま彼の襟を引っ張り階段の下へ突き落す。

 でかい図体の割にあっけなく落下したので、私は楽しくなり階段を下ることにした。


「ごちそうさまでした」