國分功一郎著 『暇と退屈の倫理学』を読む
人はなぜ退屈するのだろうか?人は何もすることがないとき退屈する。本書はハイデッガーの退屈論を援用しながら、『暇と退屈の倫理学』について考えた哲学書である。ハイデッガーによれば、退屈はだれもが知っていると同時に、だれもよく知らない現象だということである。退屈は苦しいものと言える。退屈だから人は気晴らしを求める。しかし、その気晴らしも退屈とない交ぜになっているのである。
人は習慣の生き物である。習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することである。つまり、生物は、ある一定の状態にとどまることを快と受け止める。また、習慣はダイナミックなものでもある。
退屈とは何か?人はサリエンシー「突出物」「目立つこと」を避けて生きるのだから、サリエンシーのない、安定した、安静な状態、つまり、何も起こらない状態は理想的な生活環境に思える。ところが、実際にそうした状態が訪れると、何もやることがないので覚醒の度合いが低下して脳の中のDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)が起動する。すると、確かに、周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶(記憶は全て痛む)がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体と言える。
哲学は長らく「人間本性human nature」から考えてきた。しかし、著者は哲学は「人間の運命human fate」から考える必要があると唱える。
ルソーが描く自然人は傷を負っていない。記憶ももっていない。だからこそ誰とも一緒にいたいなどとは思わない。しかし、記憶をもつ、すなわち傷を負っている具体的な人間は誰かと一緒にいたいと願う。人間の本質と人間の運命を区別しなければ、いったいどちらが本当の人間の欲望なのかという不毛な議論が生まれてしまう。そして、運命と本性を区別すれば、それを避けることができる。人間を巡る哲学上の学説の対立はしばしば起こるが、もしかすると、それらの中には、運命と本性の区別によって解決できるものも少なくないかもしれない。この意味で、運命の概念には一定の有効性があるように思われるのである。
往年の哲学者たちの論考を縦横無尽に横断して本質的な人間論を述べた良質な哲学の入門書だと言えよう。
新潮文庫 800円+税