「光を浴びてから死のうか」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十四)
家と庭が合体してこその〈家庭〉なのでしょう。
その意味においては私の住処も家庭の仲間に入るのかもしれません。
しかし、半世紀以上もこの地にこうした形で住まっているというのに、その実感が一向に湧いてこないのはなぜでしょう。
子どもがいないからでしょうか。それとも、小説家という、浮いた印象が強めの、特殊な職業のせいでしょうか。さもなければ、先天的にこの世への根付き方が悪いからなのでしょうか。
いずれにしましても、世間から一歩も二歩も引いたこの暮らしがいたく気に入っているのです。少なくとも、他人から尻を蹴っ飛ばされがちな勤め人にならなくてつくづく良かったという思いは微動だにしません。
つまりは、世間と肩を並べることに汲々とするような生活が性格的に適していないのでしょう。とはいえ、惑星に巣くう生き物の一個としての儚い存在としては、完全なる自由など望むべくもありません。入手可能な自由の幅は極めて限られたものです。
命を持たされた者にとって完璧な自由などあろうはずはないのでしょうが、もうひとりの自分はそれを望んで止まないのです。愚かなことです。
さりとて、死がその願いを叶えてくれるとも思えません。寂滅が不自由な立場からほんの数瞬間救ってくれるとしても、だからといって、その先に待ち構えている異次元の世界においてそれを保証してくれるとはどうしても思えないのです。
草取りをしているときに、死んでからいくらも経っていないモグラを見つけました。
そして、毛玉のようにコロッところがっているその姿に強く胸を打たれたのです。
それを手に取ってつくづく眺めているうちに、根拠などまったくないのに、幸福に生きて笑って死んだ生涯が確信されたのです。これこそが本来在るべき命の最期ではないかとしみじみ思いました。
要するに、艱難辛苦の世であっても、その形におけるその命を全うすることに生きる意味のすべてが込められているように感じられたのです。なんだか、そんな気がしました。
「ちゃんと埋めてやった?」と訊いたのは、夫よりも動物を気遣う妻です。
「埋めることは埋めたけど、もしかするとあいつは地中の世界にうんざりして地表で死んだのかもしれんぞ」と言ったのは、なぜかこの世よりもあの世に関心が強い私です。