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和をもって貴しとする

2024.05.12 06:35

https://religion-news.net/2022/05/18/op787/  【聖徳太子における神仏習合】より

 神仏習合について考えていたら、神道国際学会の三宅善信理事長から、『聖徳太子思想の中心にあった神道』(神道国際学会鼎談シリーズ1、2017年)が送られてきた。開いて目に飛び込んできたのは、法隆寺管長(当時)大野玄妙師の「聖徳太子という人は仏教徒…と認識している日本人がほとんどですが、…それ以前に聖徳太子は皇太子であるという大前提を皆さん飛ばしている」との発言。その通りで、王家の歴史として当然すぎるので、つい見落としていた。

皇太子として祭祀を

 太子は日常的に、皇太子として祭祀を行っておられたのである。その生活感覚から、渡来の仏教を受容した。普遍宗教である仏教の、日本人の心性に合う部分だけを選択的に受容した、というのが一般的な理解だが、実際には、日本人の心性を仏教に触発され、豊富な仏教用語を使って表現したのが神仏習合だったのではないか、と思う。貴重なものは海の向こうからやって来るという島国の経験から、仏もより強力な神としてとらえ、受け入れたのだろう。排除の思想はごく一部だった。

 大野師は「皇太子の仕事は…皇祖神を敬い祀り、あるいは山や川、土地の神々(天神地祇)を敬い祀って、世の中がうまく調和の取れた世界になってほしい。その願い以外に天皇家の仕事はないと言っても過言ではない」と話を続ける。

 そもそも共同体の調和・協力のツールとして生まれたのが自然宗教としての神道であるから、それ以外の選択肢はない。崇神天皇の御代に疫病が流行り、その原因が皇祖神の天照大神と土着の神の大物主神を一緒に祀っていることだと分かると、皇祖神のほうを伊勢に遷し、大物主を三輪山に祀ることで鎮めたほどで、これは仏教渡来以前の話である。宗教の変化に疫病がかかわるのは以後も続き、仏教立国の概成者とされる聖武天皇の大仏造立も、疫病の大流行が大きなきっかけだった。だとすれば、今のコロナ禍に宗教者たちは大いなる期待で向かうべきだろう。

 死をめぐる思索が宗教発生の主因であることは、柳田国男の『先祖の話』にある通りで、先祖観は宗教心の核心にある。大野師は「仏教の説く浄土観と日本人の感じる先祖観とが、聖徳太子という一人の人格を通じて、結び合っている。それが、日本の宗教観となって、現在に至るまで連綿と続いています」と述べる。インドでは遠い西方浄土だが、日本では裏山のように近い浄土観に変わったくらいで、それを結び付けたのは、まさに太子の人格、感性である。その恩恵に、今の私たちも浴している。

 では、法隆寺に神仏習合のしるしはあるのか。大野師の「実は、鳥居はお寺(法隆寺)の中に何か所も祀っております」との言葉に驚かされる。大野師は「神仏霊場会」にも2008年の発足当初から加わっていた。それが太子の心だからだろう。

 明治初めの神仏分離令については、「早く欧米に追いつかないと大変なことになると、…そのために生み出されたのが、いわゆる国家神道で、天照大神を中心とした信仰対象の一元化でした。それを進める際、最大の強敵は国津神を祀っている各地の神社なので、…神仏分離令の一番の被害者は神社そのものだった」と解説する。崇神天皇の御代とは逆で、南方熊楠が嘆いたように、八百万の神々の多くが失われたのである。さらに、空海をはじめ日本人の精神性の形成に大きな役割を果たした山岳宗教を担ってきた修験道が禁止され、18万人もの山伏が辞めさせられた。

人格において

 インドの上座部仏教には厳しい戒律があったが、それが中国の遊牧民族に伝わって、戒律を「心の問題」としてとらえるようになり、その大乗仏教が日本に渡来したのも幸いだった。それゆえ、聖徳太子の「人格において」、従来の神道と無理なく融合されたのである。仏教の最終ランナーである密教の教理が空海によってまとめられたように、仏教は日本という風土で、初めてその理想を実現させたのではないか。

 バビロン捕囚という民族滅亡の危機の時代にイスラエルに生じた黙示思想に源流を発する排他的な思想が、理不尽な他国への軍事侵略として世界を混乱させている今だからこそ、先人たちの叡智と経験に学びたいと思う。


http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2013/01/post-9537.html 【「神仏習合」の歴史】(2)~聖徳太子の功績~

一昨年の12月31日に、およそ次のように書いた。

 神様と仏様の違い・神社と寺院(神社・仏閣)の違いは結構難しい。

 初詣は神社だけではない。寺院でも、初詣は行われる。

 神社は2礼2拍手1礼で参拝する。

 寺院は祈祷(加持祈祷)。寺院は「護摩木」を焚いたりするでしょ。除夜の鐘も寺院のみ。

  元来、日本は「八百万の神」が存在する「多神教」の国だが、天皇家(天つ神)がすべてを古来の神(国つ神・出雲系の神々)を統率する形で日本の神話が形成されていった。

 日本の神話体系は、天皇家が天孫降臨した神の子孫であることを示し権力誇示に利用されている。

 かつて天皇は「神」であったのだ。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2011/12/post-77b2.html  

 

 さて、今年は、この続き。少し違う角度から。 

 

 堺屋太一著の『日本を創った12人』(PHP新書)の「聖徳太子」の項で「神仏習合」について述べられている。

 抜粋引用し、再構成する。p30~33

◆クリスマス・パーテイーや教会での結婚式だけは取り入れる。けれどもお葬式は仏寺で行う。

 盆踊りにも行けば、初詣にも行く。座禅も組めば御輿も担ぐ。

 これに何の矛盾も感じることなくわれわれは行っている。

◆仏教と神道が併存することは、本当はかなり無理がある。

◆宗教的にいうと、一つを信仰することは他を排することでもある。

 だから、複数の宗教を同じ人間が同時にしてもよいというほどの堕落はない。

◆天皇家から天皇が出るのは、天皇家が天照大御神の子孫であり神武天皇の後裔である、という神道神話に基づいてのことだ。 その神道を否定してしまったのでは、なぜ天皇家だけから天皇が出るのか、その必然性が失われてしまう。

◆(中国から入ってきた文化の1つである)易姓革命というのは、天は有徳の者を皇帝に選ぶ。これを天命という。

◆いわば万世一系は大事ではなく、有徳な者が天皇になるべきなのだというのだから、天皇家にとっては累卵の危うきである。太子は個人としては仏教徒だったが、政治家としては天皇家の一員であり、神道神話の保護者でなければならなかった。この矛盾を理論的倫理的に解決するものとして、「神・仏・儒の習合思想」なるものを考え出したのである。

◆これを考えついたのは、世界広しといえども聖徳太子ただ一人だ。日本以外の国で、多数の宗教を同時に同一人が信じてもよいといった宗教者は、まずいないであろう。

◆聖徳太子は仏教を信仰し普及させたが、神道を弾圧した気配はまったくない。むしろ神道にも理解を示し、援助を与えた。ここに日本人の宗教観を決定する要素があった。

◆聖徳太子の発想と実績は、宗教的には堕落である。けれども政治的には飛躍である。

◆かくして、仏教が入ってきても、伊勢神宮は信者をまったく失わなかった。そして連綿と今日に至るも御遷宮が行われ、お伊勢参りの人は絶えない。

◆日本で宗教対立を主因とする戦争がなくなったのは、聖徳太子という天才が現れ、理論構成の巧みさと訴求力の強さによって習合思想をはじめたからだ。

◆聖徳太子は世界でただ一人、習合の思想を発案した偉大な思想家である。そして今日に至るも日本人の骨身にまで浸みこんでいる。

 斉藤武夫氏のウェブに次のような解説がある。

 斉藤氏も、上の堺屋太一氏の本に学んだことを明記している。

 http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

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(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。

これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。

今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた

 十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。

 これを敬神の詔という。推古十五年は西暦六〇七年のことだ。

 推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。この詔の起草者が聖徳太子であることはいうまでもない。

それを受けて、太子と蘇我馬子という仏教推進派の二大巨頭が、わざわざ朝廷の全役人を集めて、日本の神々を祀る行事を盛大に行ったのである。

 朝廷は新たに外来の仏さまを祀るが、それは日本の神々への信仰を捨てることではない。ともに大切にしていくのだという大方針を内外に明らかにしたのである。

 こうして、およそ半世紀の抗争は決着した。わが国は仏教も神ながらの道も共に尊重して、国づくりを進めることになったのである。

 異質な宗教の衝突は、洋の東西を問わず「あれかこれか」問題になるほかはない。仏さまを信じるのなら、国つ神には去ってもらうほかないというのが世界の常識である。

前述した蘇我氏や物部氏の物言い見ても、彼らがそれを二者択一問題としてとらえていることがわかる。キリスト教はオリンポスの神々やゲルマンの神々を滅ぼした。

イスラム教が広まるときも同様であった。それら新時代の理念宗教に席巻された地域では、土着の自然宗教はことごとく滅びていったのである。

 もしそうなっていたら、わが国の国柄は大きく変わっていたと思われる。大和朝廷は、神々を祖先にもつ王家であることに王権の正統性を見いだしていた。

もし、その神々を追放すれば、天皇家は大和の国に君臨する正統性を失っていたはずである。そうなれば、次の天皇がその皇太子である必然性はない。

国を治める真の実力があるかないかだけが問題を決定するだろう。結果的に、日本も中国のように姓の異なる王朝が交替し続ける国になっていたと思われる。

武力抗争で王朝交替をくり返す不連続の国柄になっていたかも知れないのである。

 聖徳太子の天才は、宗教の衝突を「あれもこれも」という日本らしい解決法で乗り切った。仏教派の先覚者として導入の先頭に立った聖徳太子が、同時に日本の国柄を構想する政治家として「敬神の詔」を発し、仏教導入後も、従来通り伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。

 この文明戦略は、以後わが国が外来文明を導入する際の自覚的な方法となって継承されていく。外来文化と日本の伝統文化を統合しながら、日本の伝統を再構成し続けるという道である。

宗教でそれができるなら、他の技術や知識でできないことはない。外来のものであれ、日本古来のものであれ、「良いものは良い」「ダメなものはダメだ」という、偏見を持たない、時代に即応した取捨選択が可能になったのである。

 ここに記した仏教伝来の教材観は、堺屋太一『日本を創った十二人』(PHP新書)に依拠している。私はこの本の「第一章、聖徳太子」から激しい衝撃を受け、日本という宿命の原型を見た思いがした。

この授業は、本書に触発されて生まれたものである。

 「あれもこれも」という構えは、ときに私たちを縛る足かせのように見えることがある。しかし、その大方針がなければ日本の歴史はなかったのである。

私には、それがよかったか悪かったかといったような他人事の議論はできない。私たちは今もなお、聖徳太子が直面したのと同様の宿命を生きているのだと思えるからである。

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 斉藤氏は、自分の言葉で、この文章を創り出しているのだろう(むろん堺屋氏も)。

 自分は、引用紹介が精一杯である。

 興味ある話題について、自分の言葉でまとめ語ってみたいとつくづく思う。


https://www.youtube.com/watch?v=2qF-jwSik8U

https://www.youtube.com/watch?v=M7lchVsoN2s