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自然(特に比叡山)と鎮魂とセルフケア」

2024.05.14 04:20

https://www.shinrei.or.jp/2023/09/27/kamata/ 【10月講演会 鎌田東二「自然(特に比叡山)と鎮魂とセルフケア」】より

「自然(特に比叡山)と鎮魂とセルフケア」

講師:鎌田東二  宗教学者、哲学者、京都大学名誉教授

講師からの一言

比叡山に登り始めたのは、2006年10月です。以来、2023年6月28日現在で859回登拝しました。「東山修験道」と称しています。ここには「天台千日回峰行」という比叡山独自の修験道が発達し、「諸法実相」とか、「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」とかと説く天台本覚思想が展開されます。まちがいなく、山野を「歩行(ほぎょう)」し、神仏を礼拝するところに、そうした本覚思想が深化したと思います。そして、それは鎮魂であり、歩く瞑想であり、祈りであり、セルフケアであり、修行でもありました。

2007年12月に「京都伝統文化の森推進協議会」という国・市・寺社・商店街・京都市民が連携する京都三山を維持し、その文化価値を再発掘していく団体が山折哲雄氏を会長として発足しました。

わたしがその2代目の会長を務めています。そのようなこともあり、比叡山に登ったり、瓜生山や大文字山や稲荷山など、東山三十六峰を「歩行」しています。また、鞍馬山は貴船などの北山、愛宕山や松尾山や嵐山などの西山も登拝してきました。そして、全国の修験の山々を歩行する中から見えてきた「自然が醸すおのづからのケア」の深さを感じるようになりました。

昨年12月以降、ステージⅣの大腸がんが発覚し、入院手術をしたこともあり、今回は、そのあたりの話を具体的な経験に即して話をしてみたいと思います。手術前に「遺言」としてまとめた本が『悲嘆とケアの神話論ー須佐之男・大国主』(春秋社)で、入院中と退院後に書いた詩篇30篇をまとめたのが詩集『いのちの帰趨』(港の人)です。ぜひ読んでいただけると幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=pKI6eB5V4PI

https://www.engakuji.or.jp/blog/36639/ 【泥をかぶった仏】より

天台の教えには、「本覚」ということがあります。本覚とはどういう意味か、『広辞苑』には、「衆生に本来そなわっている清浄な心のこと」と説かれています。

岩波書店の『仏教辞典』を参照しますと、「本来の覚性ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(覚)の智慧を意味する。」というものです。

またそれは「如来蔵とか仏性を覚という面からいったもの」でもあります。

しかし、その原語は、インドの原典に見出すことはできないそうです。

真諦訳の『大乗起信論』に用例が見られます。どういう思想かというと、「そこでは、現実における迷いの状態である<不覚>と、修行の進展によって諸種の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的に当事者にあらわになる<始覚>と相関して説かれている。

すなわち、本覚は始覚によって到達される目標であるとともに、始覚の運動が可能となる内在的な根拠でもある。」ということなのです。

整理しますと、私たちはふだん、仏性などについては全く気がついていない状態にあります。

これを不覚と言います。その状態から様々な経典を学び、修行をして、本来具えている仏性に目覚めます。これが始覚であります。

初めて悟ることが出来るのは、本来悟りの心を持っているからであると言えます。

本来悟りの心を具えているというのが「本覚」なのであります。

後に本覚思想とも呼ばれるようになりました。

それは「その思想の特徴は、あるがままの現象世界をそのまま仏の悟りの世界と見るところにある。

そこから、極端になると凡夫は凡夫のままでよく、修行の必要もないとされる。

そのために、一方でその高度な理論的達成が高く評価される反面、堕落思想としてしばしば批判の対象ともされる」という一面も見られました。

あるがままの現象世界をそのまま仏の悟りの世界とみるのは素晴らしい思想なのですが、これは気をつけないと、修行し、努力をするということがなくなり、堕落してしまう一面もあります。『仏教辞典』には、本覚は「如来蔵・仏性などと近いが、次第に絶対化されるようになり、また、内在的可能性ではなく、顕現し実現したものと考えられるようになった。

天台本覚思想はその極端化したものであるが、他にも華厳・密教・禅などの思想にかなり広く見られる」とも解説されています。

如来蔵というのは、「すべての衆生に具わっているとされる悟りの可能性」であり、仏性というのも同じです。如来を胎に宿すものというのがもとの意味です。

堀澤祖門先生の『枠を破る』には、「波と水」の喩えが説かれています。

堀澤先生は、ティック・ナット・ハン師の本から教わったと書かれています。

波は迷いの中にある私たちであり、水は悟りを開いた仏であります。

お互いは、迷える存在としてひとつの個を生きていますが、波は水であるように仏のいのちも生きています。

私たちは、個別の存在でありながら、同時に仏でもあるという喩えなのです。

波が自らに向き直り、自身に触れてみるならば、自分が水であることに気がつくというのです。

波と水は同体そのものであり、波として意識する時の自分は凡夫であり、水として自覚する時の自分は仏なのだと堀澤先生は仰せになっています。

この波と水の喩えから更に堀澤先生は、分りやすく泥をかぶった仏ということを説いてくださっています。『枠を破る』には、次のように書かれています。引用させていただきます。

「人間は誰しも「泥を被った仏」なのだ、ということです。」この一語につきます。

泥をかぶった仏だというと、「私たちは、その泥を落とさなければ仏になれないと思ってしまいますが、そうではないのです。」と堀澤先生は仰います。

「泥を落とそうとすれば、修行に向かうことになります。じつは私も六十年以上、その考えでやってきました。さまざまな修行もやってきました。」というのです。

「けれども、泥は落としきれるものではないのです。」とも仰せになっています。

しかし、大事なことは、「泥を被ったままで、仏だったのです。」ということです。

そう言われても、私たちにはなかなか素直に受け取りにくいものです。

そこで堀澤先生は、「十五夜の名月を見てみましょう。煌々と照りわたって、まことに荘厳というよりほかありません。ところがそこへ巨大な叢雲がやって来て、名月をすっぽりと包んでしまったとしましょう。すると、さすがの名月も暗くなり、光を失ってしまいます。いわば私たちの泥仏は、こうした状態にあるのです。金色燦然とした仏(名月)を内蔵しながら、煩悩の泥で覆われてしまっているのです。」ということなのです。

「けれども、無理に泥を落とそうとする必要はありません。

そうすると、また二元相対の世界に陥って、にっちもさっちもいかなくなりましょう。

そうではなく、大事なのは、自分の内にある「仏 (水)」こそをしっかりと掴んでいることです。

泥は気にしなくていいのです。「泥を被った仏」のままでいいのです。ですから、余計な努力は要らないのです。私たちは、いままでの長年月、十分すぎる努力をして生きてきたではありませんか。今こそ、自分を認めて、褒めてあげましょう。

そして、自分の内なる「仏」をしっかりと抱きしめるべき時です。それでよかったのです。

「いま、ここ」で、すべてが完璧なのです。本当に安心していいのです。

安心して、自分の「仏」をしっかりと抱きしめていきましょう。

これが泥仏として生きる道なのです。」と力強く説いて下さっています。

実に六十年にもわたる求道の結果のお言葉であります。

やはり私たちもそれぞれの努力をして、この泥をかぶった仏を自覚すべきであります。