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古代シャーマニズム

2024.05.13 11:32

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-08610318/ 【九州南部離島における神楽とシャーマニズムの研究-北西部との比較を通じて】より

本研究は九州北部離島(対馬、壱岐、五島)と南部離島(甑島、トカラ列島口の島)のシャーマニズムと神楽(巫女舞い)を比較し、その共通する伝統を指摘しようとしたものである。従来の研究が比較的地域を限定していたことに対し、対象とする範囲を広げることにより、九州全体に広がっていた巫女の伝統を明らかにすることができる。まず、神楽において、巫女舞いの動きに共通点が見られることである。九州西岸の五島、甑島では、巫女は神前で大きく回って舞うと言う動作をする。衣装に関して言えば、甑島、トカラ列島口の島では先輩ネーシの髪の毛を頭に着けている。また、すべての巫女が左手で袖をつかみ右手に鈴を持って舞っている。次に、組織に関してのべると、神楽においては巫女は対馬、壱岐、においては法者と口の島ではホンボーイ、ジホーイなどの男性神職とペアになって舞いを舞ったことである。男性神職が太鼓を叩き、命婦、市、内侍が舞うと言う形である。法者は神楽保佐職つまり、神官を補佐する陰陽師であった形跡が見られる。また、巫女も大きな神社に関しては惣の市(一の内侍)、二の市(二の内侍)、三の市(三の内侍)など神社の女官としての地位があたえられていたことがわかっている。最後に信仰に関して、神霊が風として生き霊、死霊、山ノモン、イソノモン、ガラッパなどが考えられ、それを祓ったり、託宣をさせて、その言葉を伝えるなどのシャーマン的な行為を行っていた。これらは巫女と同じに法者もそうした行為を行っていた。また、比較的古い形をのこしているとみられる対馬やトカラ列島口の島では巫女自身が神歌を歌ったり、祝詞をあげたりする神官としての役割も果たしていたことである。


http://www.9sei-fusui.com/ekigaku-hassei.html 【易学の発生】より

 占い・易占と呼んでいる所謂易学は、いつ頃発生しまた発達してきたのでしょうか。

 「占い」と呼ばれ「占卜(せんぼく)」「亀卜(きぼく)」「占筮(せんぜい)」といわれているものは、中国古代史に求めることができるが、「占い」は古代文化発祥地の各地で行われていたようである。

 しかし、それらは極めて原始的シャーマン的・霊媒的であり、それにたずさわる人達は絶対的な権威と権力をもって人民に臨んでいました。

 古代中国においても、この役割を担った人達は「巫」(神託を告げる人)であり「祝」(のりとを奉る人)であり、彼らは主として「亀卜(きぼく)」と「蓍筮(しぜい)」によって神意を媒介していたとされる。

 「亀卜(きぼく)」は紀元前十三世紀頃、黄河の中流域を支配した殷王朝に盛んに行われた占法でした。

 殷王朝は神政国家としての性格が濃く、朝廷行事、王の日常生活に至るまで「亀卜(きぼく)」によって神託をうかがうという状態であった。

 「蓍筮(しぜい)」とは現在の易のことであり、筮竹が作られる以前は蓍(めどはぎ)の茎を操作して「卦」を出し、占なっていた。蓍筮(しぜい)の起源もかなり古いとされているが、大きな発展を見せるようになったのは、周王朝の時代になってからとされている。

 亀卜(きぼく)も蓍筮(しぜい)も、原始的シャーマニズムから生まれたものであるが、亀卜を蓍筮(しぜい)の間には大きな違いがある。

 亀卜(きぼく)が巫や祝の霊性に依存する度合いが大きく、神話的性格が濃厚であるのに対し、蓍筮(しぜい)は数理を基礎としている点で、理知的・理論的なものに発展する傾向をもっていた。それは農業技術の進歩発展と、人間のも土からへの確信によるものではないか。

 人間は自然界の持つ力にひれ伏すだけの存在ではなく、農耕生活に最も重大な季節・気候・天文・暦数についての知識と技術が高まった結果、人々は自然界の中に一定の法則があることを知るようになりました。その法則に準ずることによって、運命の開拓が出来ると言う自信が次第に強くなり、自然哲学と実践道徳を含む「易」独自の考え方、性格が形成されたと考えられます。


https://pub.jmam.co.jp/book/b560937.html 【身心変容と医療/表現 ~近代と伝統

先端科学と古代シャーマニズムを結ぶ身体と心の全体性】より

身心変容技法研究は、京都大学名誉教授の鎌田東二氏を研究代表者として、「心の荒廃」が社会問題となり、未来のグランドデザインは描けない現代に向けて、2011年にはじめられた科研費による研究である。

身心変容技法とは、「身体と心の状態を当事者にとって望ましいと考えられる理想的な状態に切り替え、変容・転換させる知と技法」であり、古来、宗教や芸術、武道、芸能など諸領域で編み出されてきた。

研究は、この時代状況から抜け出ていくための宗教的リソースないしワザ(技術と知恵)として、この「身心変容技法」に着目。

具体的には、・神秘思想における観想・仏教における止観や禅や密教の瞑想・修験道の奥駆けや峰入り、滝行・合気道や気功や太極拳などの各種武道・芸道等々があり、それらさまざまな「身心変容技法」の諸相(特色)と構造(文法)と可能性(応用性)を、文献研究・フィールド研究・実験研究・臨床研究の手法により総合的に解明する。

そして現代を生きる個人が、自分に合ったワザを見出し、活力を掘り起こしながら、リアルな社会的現実を生き抜いていくことに資する研究成果を社会発信することを目的としている。

この「身心変容技法シリーズ」は、それら研究の成果を、専門家、研究者の枠を超えて、より多くの読者に届けるべく、企画された。

 ●心と身体の変容の伝統、技術、価値を現在の私たちの生き方に生かしていくこと。

 ●身心変容技法というものが、個人の在り方を根本的に変容する可能性を持つもので、

  新しい生き方を考える現在に必要な学びであること。

 ●現在が、新しい生き方の要請される人類史的な転換点にあることにあり、そのヒントとなること。

これらの問題意識が、身心変容技法シリーズにまとめられた学問研究には通底している。

本巻では、新型コロナウィルスの感染拡大で苦しんでいるさなか、医療や癒し、臨床にかかわるさまざまなヒントを提供する論考を集めた。

瞑想の科学と、身心変容技法の事例研究の両面を含み、それらを臨床的に統合、総合しようという試みである。

本書を通して、生きる力の源泉に触れ、生の指針を得ていただければ幸いである。


https://shins2m.hatenadiary.jp/entry/20110424/1303588816 【『憑霊の人間学』】より

一条真也です。東京に来ています。『憑霊の人間学』佐々木宏幹・鎌田東二著(青弓社)を再読しました。

NPO法人東京自由大学2011年度特別企画シンポジウム「シャーマニズムの未来〜見えないモノの声を聴くワザ」に参加するにあたって読み返したのです。

本書の刊行は1991年ですから、もう20年も前になります。

著者の佐々木氏は宗教人類学者で、わが国「シャーマ二ズム」研究の第一人者。シンポジウムの基調講演が予定されていましたが、体調不良のため実現しませんでした。

そのメッセージを代読した宗教哲学者の鎌田氏は、現在、京都大学こころの未来研究センター教授であり、シンポジウムを主催した東京自由大学の理事長でもあります。

本書の目次は、以下のような構成になっています。

はじめに:憑霊とシャーマ二ズムの現在(佐々木宏幹)

第一講:シャーマ二ズムとは何か(佐々木宏幹)

第二講:「憑霊」体験とシャーマ二ズム文化(佐々木宏幹)

第三講:神話とシャーマ二ズム(鎌田東二)

第四講:シャーマンとしての賢治・熊楠・折口(鎌田東二)

第五講:「憑霊」の人間学(佐々木宏幹×鎌田東二)

おわりに:憑霊と脱魂を超えて(鎌田東二)

サブタイトルにもあるように、本書では「シャーマニズム」を「根源的な宗教体験」として扱っています。一般に「シャーマニズム」とは、「シャーマン」と呼ばれる呪術者・祈祷師の能力によって成立している宗教や宗教現象のことです。

ずばり、シャーマニズムは「巫術」と呼ばれることもあります。

「シャーマン」は「忘我」のトランス状態に入って、神霊・精霊・死霊などの「霊」すなわち超自然的存在と交信する人物です。

日本におけるシャーマ二ズム研究の第一人者である佐々木氏は、このたびの東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県気仙沼市の出身です。

生家は曹洞宗のお寺だったそうですが、佐々木氏は幼い頃から「オガミサン」と称する女性シャーマンのことを経験的に知っていたとか。

というのも、東北のあの周辺では、葬儀は寺の僧侶とオガミサンの2人が関わらないと完成しなかったというのです。

現在に至るまでこの傾向は変わらず、佐々木氏は「宗教文化というものは根強いものです」と言いつつ、次のように述べています。

「檀家の人が死ぬとお葬式が行なわれます。お通夜にお経を読み、次の日葬式で死者に引導を渡し、亡くなった人の霊魂に対して仏戒を授ける。ホトケに化すために、十六の戒を授け、釈迦の弟子であることを自覚させるわけです。死者に授戒することによって肉身を仏身にする。そして回向文を唱え、『衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じうし終わる。まことにこれ諸仏の子也』と『ホトケ』にします」

では、あの世に霊魂を送ったからといって供養は必要ないのでしょうか。

そうではありません。佐々木氏の地方では、およそ1週間目から四十九日の間に、「オガミサン」に口寄せを頼むのです。

ちなみに、「オガミサン」という言葉には、2つの説があるそうです。

「神さん」が「オガミサン」に変化したという説と、「おがむ人」が「オガミサン」に変化したという説です。いずれにせよ、気仙沼での葬儀は僧侶とオガミサン、つまり「おくりびと」と「おがみびと」のコラボだということです。

これは、葬儀の本質、そして葬儀の未来を考える上で、大きなヒントになります。

さて、シャーマンが起こす宗教現象とは、いわゆる「霊が憑く」という現象です。

この現象もさまざまに展開しており、第二講で佐々木氏は次のように述べています。

「たとえば新宗教の教祖の多くは神に憑かれて、自分が神の子であり、神自身だと自覚することによって宗教教団を設立している。これは大本教、天理教、霊友会、立正佼成会など、皆同じです。教祖は不思議にも皆、女性でして、神が憑くことにより、自らを普通の人間ではなく、他の弱者を救済するために神から遣わされた存在であると意識することにより活動している。こうした『霊が憑く』という現象は、なにも日本のように多神教で八百万神がいるところにだけあるのではありません。アニミズムを宗教者や予言者がでて強いものにすると多神教になり、多神教を克服してたった一つの全能の神をつくりあげると、これはキリスト教、イスラム教などの一神教になります。聖書でも『神は霊なれば』といっていますように、ホーリー・スピリット、オールマイティ・ゴッドも中身は『霊』ということになる。このように考えると、シャーマニズムの基礎になっているアニミズムもまた、すべての宗教がアニマを中心にしてできているという意味で幅広い概念です。アニミズムには絶対神としての一神教のアニマもあれば、多神教のアニマもある。シャーマニズムにも一神教もあれば多神教もありますし、またアニミスティックなのもある。このように概念を広げていかないと、この現象は理解不可能なものになるのではないでしょうか」

また、シャーマンの最大の特徴となるのが「トランス」状態です。

これについて、佐々木氏は第二講で次のように述べています。

「このトランスというものについて特にいうなら、要するに忘我の時間と空間を体験することによって、その時間・空間では彼らはこの世を超えているわけです。つまりその間、超常的体験をしているわけです。最近の精神医学の領域ではこれが神経症などの病気治しなどにも非常に効くと考えているようです。いつでも目が覚めたらイライラして自分のことが心配になる、あるいは人間関係が心配になるということで心身症に悩むような人は、良いシャーマンの指導によって、自分を忘れてしまうような時間、そういうトランス状態とかエクスタティックな状態に入ることが必要であるというわけです。この場合には前にいいました、ネオ・シャーマニズムでいわれているようにあの世まででかけていって、体験をしてくることも含まれます」

いっぽう、鎌田氏は第四講で次のように述べています。

「新しいシャーマニズムのあり方を模索する動きが欧米から始まっています。そうしたものに刺激を与えたのは、チベット密教やヒンドゥー教であったり、また禅であったり、イスラム神秘主義のスーフィズムであったり、広い意味でのオリエントや東洋の宗教ですね。特に、それはカリフォルニア一帯を中心に花開いた。それが逆に日本の方に入ってきて日本の動向を刺激した。そういう複雑な関係、ネットワークがでてきつつある。そういう意味では、世界中はさまざまなものがもう一度複雑なジグソーパズルのように、断片だけをもっている人には全体像は見えませんから、断片が集まって組み合わされてくると別の模様ができ始めている。それがネオ・シャーマニズム、ネオ・ブッティズム、ネオ・シントーイズムというものの新しい潮流をつくっている。それは古い環太平洋祭祀文化の再生かもしれない。そういう模様はさまざまなところからそれを読み取っていくことができるし、我々は多かれ少なかれ現時点で行なって生きているんだと思うんです」

非常に興味深いのは、鎌田氏が、宮沢賢治・南方熊楠・折口信夫という3人の天才の中に「シャーマン」的資質を発見していることです。

シャーマンとしての賢治については、わたしもブログ「KENjIの春」で詳しく述べました。

さらに、鎌田氏は自身の「魔」の体験を通して、ソクラテスやブッダや孔子やイエスといった偉大な人類の教師たちもシャーマンであることに気づきました。鎌田氏は述べます。

「私はこの『魔』の体験をとおして、あらためて、ソクラテスやブッダや孔子やイエスといった人類の教師たちの偉大さを知った。彼らはみな『魔』を体験した人たちだったということを思い知ったのである。そしてみずから『魔』を断ち切り、ほぐし、祓いやるすべを身につけた人たちであったことを。そしてそれこそが『審神』の核心でもあったことを」

「審神」とは、神の正体や真意を審査する者です。

シャーマンであった人類の教師たちは、「審神」でもあった。彼らは「神」や「神々」や「魔」を審神し、さらには彼ら自身を自己審神したのではないかというのです。

続いて、鎌田氏は次のように語っています。

「そこで私は何よりもバランスと徳の大切なことを学んだ。とりわけ、ソクラテスの『無知の知』やブッダのいう『中道』の重要さに思いいたった。一部のわずかな能力を怪物的に肥大させることは、自我のいびつなインフレーションやスタグフレーションをもたらし、自他を破壊する。こうした自我の破壊的変容をくいとめるものは、『物事をありのままに見ようとする態度』と神仏や自然や他者への畏敬と感謝、そして神仏や自然や他者の恩恵以外にないと思う」

そして鎌田氏は、ついに次のように語るのです。

「あえていえば、『霊能者』の道とはシャーマニズムや神道や密教に該当し、『零能者』の道とは釈迦仏教に相当し、『礼能者』の道とは大乗仏教の菩薩道や孔子の道に該当するといえるであろう」

これは「レイ能者の三位一体」を唱えたものであり、若き日のわたしに大きな影響を与えた考えです。この「レイ能者の三位一体」は、鎌田氏のご長男である龍明さんが幼少の頃に発見したものだそうです。

わたしは、鎌田氏は間違いなくシャーマン的資質を備えた一種の「霊能者」であると思います。そして、もちろん「礼能者」でもあることは言うまでもありません。

人にはそれぞれに与えられた能力と使命があります。

わたしは「礼能者」だけをめざした道を歩むしかありません。

20年ぶりに本書を読み返して、そんなことを考えました。

今日は、日比谷で鎌田東二氏と、現在は横浜市立大学の医学部に通われている龍明さんの「レイ能者」親子とランチを御一緒してから、北九州に帰ります。空いた時間を利用して、いま話題の映画「ザ・ライト〜エクソシストの真実」を観たいと考えています。