誰も何もしていない
誰も何もしていない。物や自然もなにもしていない。
状況や環境もあなたには影響していない。
あなたの心を傷つけるようなことや苦しめるようなことはしていない。
私達の思考は、何かが「ある」というプログラムになっていて。
あなたが苦痛を感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。
あなたが楽しさを感じているのは、あなたが誰かや何かに「された」と思っているから。そうした状況が「あった」と思っているから。
でも本当は、思考しなければ、
「何もない」「何もされていない」「何も起こっていない」。
何のために、外の世界があるのか?
それは、攻撃対象をつくるためです。
「私は正しい」と言える材料。
私は悪くないと責任転嫁できる対象。
外の世界に、比較、区別、優越を見る為に、それらが「ある」という認識が起こる。
これが葛藤の原因で、これが苦しみの元になる。
そんな苦しみの中で、いくら愛を求めても、それは単に一時しのぎの誤魔化しで。
全てを解放したいなら、「何もない」に着地するしかない。
何もないから、心は穏やかでいられる。
苦痛がないから、悦びを感じられる。
外では何も起きてなくて、誰にも罪がない。
罪悪感というフィルターが取れた時、世界は全てはそのままで、全てあるがままで、最強の状態。
原因があって結果があるのではなく、
原因がないから、結果はひとつ。
原因=結果の世界は平和そのもの。
私達が赦すのは、攻撃対象として見ているものを赦すのではなくて、
何も起きていない、何も無かった、攻撃対象なんて最初からいなかったということを受け容れることを赦すのではないかと思う。
原因探しは、罪を見るという事。罪悪感を握りしめるという事。
原因を探して、それについて納得するのではなく、そもそも原因なんてものも無かったと知ると、罪という概念そのものがなくなる。
人に罪を見なければ、自分にも罪はない。
この世界全体が罪の概念を土台に動く。
世界全体が「闇」
でもその闇の中で、希望の光が見えてくる。
だから目を背けることができない。
ゴールは、「愛」を思い出すこと。
自分で作り出す愛ではなく、ただそこにある愛。
全てが一つでワンネスなら、
神=愛=私=愛=他者=愛。。。
愛そのものであることが、愛。
これは愛で、これは愛ではないと区別なんでできない。
いつか、愛というゴールにたどり着くことを心から信じて、この人生の旅路を歩めばいいのだと思う。その為には「自我」を手放していく事しかない。
自分の考え、自分の判断、自分の決断、そうした「自分」を脇に置いて、委ねて待つことを訓練しないといけない。
自分で思っていたようなものは何もなかった。
これが腑に落ちたら、もう悦びしかないんだろうな。