「最後の勝利者は誰?」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十五)
庭造りは、草取りに始まって草取りに終わると言ってもいいでしょう。
それが基本中の基本という地味な作業の連続なのです。けっしてチャラチャラした趣味ではありません。地道な努力の積み重ねが必要とされるのは、他の趣味と同じです。
ところが、どうでしょう、ガーデニングも文学もなぜかそうした目で見られることが間々あります。周囲の視線がそうであっても、携わっている当人の認識が冷静で正確であれば問題はないのですが、えてして当事者たちの感触もまた浮ついている場合が多く、それが原因で長続きせず、通り一遍の、それらしき形が出来上がった段階で満足してしまうか、あるいは、飽きて手を引いてしまうかのいずれかなのです。
文学も作庭も真剣にやろうとすればするほど、見かけ上の華やかさから遠のいてゆきます。そして、際限なき進化と深化の道を辿る真の醍醐味を知ることになり、併せて、時間の恐ろしさをつくづく思い知らされることになります。
そうです、歳月の力をどう上手に取りこんでゆくかに人生の鍵が隠されているのです。言い古されたその真理に改めて気づくきっかけになったのが、庭造りでした。偶然とはいえ、いい勉強になったときっぱり断言できます。
自分で書いた文章ではあるのですが、しかし、庭の雑草に当たる、夾雑物としての表現が、どんなに注意を払っても次から次へと生えてきます。その都度、それを根気よく丁寧に排除しなければなりません。本物の雑草だとひと目でわかるのですが、文章の場合は、書いてしばらく経過してから気づくことが往々にしてあります。従って、少々厄介でも、ただ書き上げて満足するのは禁物なのです。
さほど凝った庭でなくても、雑草をきれいに抜き取ってあればそれなりの美を醸し、文章の場合も同様の効果を発揮してくれます。
そんなわけで、春の初めから秋の終わりまで雑草との闘いが延々とくり返されるのです。炎天下に汗だくになって地面を這いずり回る私の姿を見て、いったいどこが面白いのかと部外者によく訊かれます。そこで、面白い結果を出すためにやる事の面白さを満喫しているのだ、とそう胸を張って答えます。その際の、誰にも理解されない優越感がまた堪らなくいいのです。
深く根が張って抜き取りに苦労するスギナが言いました。
「最後に勝つのはこっちだ」
悔し紛れにこう言い返してやりました。
「勝とうなどとはゆめゆめ思わんよ」