アニミズム俳句の意義
file:///C:/Users/minam/Downloads/p030-035%20(9).pdf 【アニミズム俳句の意義――芭蕉から夏石番矢『巨石巨木学』までを読みつつの考察】より
The Significance of Animism in Haiku Poetry: from Matsuo Basho to Natsuishi Ban’ya
菅原 浩 SUGAHARA, Hiroshi
キーワード:アニミズム 俳句 詩的言語
Keywords :animism, haiku, poetic language Here we discussed the significance of animism in haiku poetry. We focused the “monistic animism” suggested by Nakazawa Shin’ichi, which states that animism can capture the invisible realm that the modern Western culture have failed to think about. We argue that haiku poems aim to become “the thing itself,” thereby creating poetic language to open the “communication”
to something fundamental beyond human perception. From this perspective we read animistic haiku poetry by various poets, arguing that animist haiku culminated in
Natsuishi Ban’ya’s Science of Giant Rocks and Trees.
1.アニミズム解釈の現在
俳句と言えば、お年寄りたちの余暇におこなう趣味だというイメージを持つ人も多いだろう。その俳句が、詩的表現の最前線であり、また、現在の思想の最先端に立つ可能性を持つと聞いたら、驚くであろうか。そのようなことが語られている書物が、2016 年に出版されている。思想家の中沢新一と、俳人の小澤實の共著による『俳句の海に潜る』である 1
。もちろん、これまで俳句の世界においても、金子兜太など、自覚的にアニミズムを意識して作句してきた俳句作家もある。だが、この書において、俳句アニミズム論は思想の平面に登場することとなった 2。
その主張の根本は、俳句はアニミズムの精神が浸透している文芸であり、アニミズムは日本文化の深いところに持続している。アニミズムには新しい人類の思考の可能性がある、というものである。
こう聞くと、「西洋の行き詰まりを、日本の土着(あるいは東洋)で乗り越えるという、例の思考パターンか」と警戒の念を持つ人も少なくないかもしれない。しかし、ことは決してそれほど簡単ではない。そもそもそのような批判をなそうとする人の多くは、「東洋」を深く自己の問題として理解しようとする努力もなく、「西洋」が自分の外にある「対象」として認識した「東洋」しか知らないことも多いのである。
少なくとも、中沢新一は『カイエ・ソバージュ』五部作 3 で展開した「対称性」の思考や、最近の「レンマ学」の思索 4 に基づいてアニミズム的詩的言語の可能性を考えており、まずそこからの吟味が必要である。さらに、そもそもアニミズムの概念を提示したのはタイラーであるが、それから百年たち、人類学においてはアニミズム見直しの機運が再興している。それはしばしば「人類学の存在論的転回」などとも言われることがある。さらに、日本におい
て独自のアニミズムにまつわる思考を続けてきた岩田慶治の残したものは何であったかという問いも残されている。
タイラー的な理解では、アニミズムとは人間以外の存在にも霊魂や意識の存在を認めるとされている。言うまでもなくアニミズムの語源はラテン語の「アニマ」であり、魂あるいは生命原理と意味している。
しかし中沢はこうした定義を、西洋人的な発想だとして退ける。まず魂のないモノがあって、そこに魂や霊が宿るというのは二元論的であるという。
ところが古代人らは、一元論で思考します。大いなる「動くもの=スピリット」があって、それが立ち止まるところに存在があらわれ、あまりにどっしりと立ち止まってしまうと、そこには生命のない物体が存在するようになるが、それら存在者は生物も非生物も、もともと
は一体です。このような一元論的アニミズムこそが、ほんとうのアニミズムだと、私は考えます 5。
つまりあらゆる事物の背後に、大いなる生命エネルギーの流動があることを直観していたということである。このような古代的感性がアヴァンギャルドにつながると中沢は言う。というのも、「組織化されないものを全身に受けながら、それを転換していく決死の作業」がアヴァンギャルドなので、五感には感じられない、途方もない世界とつながりをつくることが俳句のやろうとしていることだからである。そうしたアヴァンギャルド性が飯田蛇笏から金子兜太に至るアニミズム俳句のラインにはあると彼は言う 6。
さきほど引用した説明は、タオイズムにおける「気の宇宙観」にも非常に近いものがある(ここでいうタオイズムは道教のことではなく、中国思想全体に見られる基本的な思考法を指している)。実際タオイズムの気の宇宙観は、原始社会からある思考形式をそのまま維持しながら洗練させていったものであろう 7。
この中沢のアニミズム観では、宇宙の根源にエネルギーが満ちているという生気論的な視点が強調されている。これは純粋な自然の生成力、ギリシア語でピュシスと表現されるものである。中沢は、詩的言語によってそのピュシスの感覚を奪回する可能性を俳句に見ているのである。
箭内匡は、こうした生命エネルギー的な感覚のことを、「ディナミスム」と名付け、アニミズムとは区別して論じている 8。これはもちろん「力」を意味する「デュナミス」から来ている。また箭内は、アニミズムとディナミスムの区別は、絶対的な差異というよりも、「力を捉える観点の違い」かもしれない、とも示唆している。ギリシア語の神、「テオス」とは、はじめに神があって、その神がどうこうであると属性を述べるようなものではなくて、何か強く感
動し畏怖したとき「これは神である」「あれは神である」と言ったのだという 9
。本稿でもこうした視点に立って、アニミズムは別な角度から見るとディナミスムとなりうるものとして考察する 10。
人類学者のデスコラはアニミズムの復権において重要な存在であるが、「内面性」と「身体性」という軸において人類の自然認識を四つに分類している 11。それを彼は四つの存在論として説く。
内面性の類似・身体性の差異 ―アニミズム 内面性の類似・身体性の類似 ―トーテミズム
内面性の差異・身体性の類似 ―ナチュラリズム 内面性の差異・身体性の差異―アナロジズム ここでいうアニミズムは、類似した内面性、つまり精神においては同じものを持ちながら、身体性によって分かれている。というのは、たとえば様々な動物たちは、実際は人と同じ精神性を持つ存在なのであるが、人と動物は身体が異なっているので異なる風に世界を知覚し、異なる種として共存することになる。つまり世界には様々な異なる身体性を持つ「人」ばかりが住んでいる。このためこうした社会では動物は搾取の対象ではなく、人間と対等な存在として敬意を持った関係性を取り結ぶことになる。アイヌにおける「熊送り」の儀礼などは、熊からその肉が人間に贈与されたという考えの下に、返礼を行って熊の種族との関係を維持していくためのものである 12。
これを、ヴェヴェイロス・デ・カストロの「パースペクティヴィズム」13 も参照して捉え直してみると、ある民族、そして異なる民族、さまざまな動物種は、ただ一つのみある全体流動からあるパースペクティブによって世界を切り取っていることになる。箭内匡はこのように説明している。「アニミズム的世界とは、このように様々な衣装=身体=視野を持っ「人々」が、それぞれの位置から自然を眺めているような世界である。」14
これはハイデガーの言う「世界内存在」と捉え直すこともできよう 15。動物・植物はその身体性の差異によって異なる世界を持つ。その様々な世界は「図」であり、その起源となっている「地」としての隠れた次元がある。まさにそこがハイデガーの思考の集中するところであった。ハイデガーは動物学者のユクスキュルによる「異なる動物は異なる世界を知覚する」という説にヒントを得ていたのは知られている話である。また今西錦司の『生物の世界』は、種ごとに異なる世界内存在が展開し棲み分けているものとして自然を描いていた 16。デスコラの言うような内面性・身体性は世界内存在の二つのアスペクトであり、本来は統合されたものである。そしてもちろん、文化の異なる民族集団もまた固有の世界内存在をもつのである。
本当にここで考究しなければならないのは、様々な世界内存在のあり方がそこから開き出されている「地」である。それが岩田慶治やハイデガーの思考の中心であった。
岩田慶治のアニミズム論 17 は、人間とそれ以外の存在者との真の交通が成り立つためには、その全てに共通する場があるはずだという直観に貫かれていた。それを岩田はしばしば道元禅師を引き合いに出して語ろうともしていた 18。中沢はその場を、全てが全てとつながっている途方もない全体的流動の場として理解する。その流動を理解する能力は人類に与えられており、彼はそれをロゴスではなく「レンマ」として描くのである。それは仏教の華厳思想
をモデルとして理解可能だというのが彼の『レンマ学』の思想である。
このような「地」とここで仮に表現している、私たち自身の世界の原郷でもある地平、それを私たちの社会・文化では感じにくくなっている。チャールズ・テイラーは、もともと近代以前の社会では、自己のあり方が「穴がいくつもあいている自己」(porous self)であり、自分の慣れ親しんである世界の「外部」との交流が行われたと言う。一方近代になるとその自己の殻が固くなり、外部との交通が起こりにくい「殻付きの自己」(buffered self)に変化した 19。近代になってデスコラの言うナチュラリズム、つまり「客観的自然」が唯一実在する世界だという世界観が台頭したのはこういう自己における世界感覚の変化が背景にある 20。
人類学者の奥野克巳は、こうした「向こう」との「相互交通」がアニミズムの重要な要素であることを、岩田慶治やウィスラーエフを引きつつ論じている。それは「主客の高速交換」が行われる動的過程である 21。アニミズムとは「主客が対置され、言語が用いられる公共的空間と、主客未分で言語化以前の私的な空間との高速交換」であり、「二つの世界の行きつ戻りつの運動」である奥野 22 は言う。重要な指摘であるが、ここでの「私的な空間」とはより根源をなす地平にほかならないのである。多くの神話がこの世と他界との「行って帰る」物語であるのはこうした世界の二重構造そのものに由来している。
それでは、俳句がアニミズム的思考の最良の媒体となり得るのはなぜなのだろうか。その鍵は「もの」ということにある。「ものと通じること」とは「言語化以前の世界への接近あるいは交通」ということである。
俳句は「もの」への接近をおこなってきた。「もの」とは、「もののけ」や「ものさびしい」という語からも感じられるように、決して「物質」を意味するわけではない。存在の界
面に浮かぶ微妙なものという含意を持っている。「もの」とは言語のロゴス的な作用により構造化された意味世界が生成する以前の世界にあるものだ。逆に、現代人の言う「物質」
とは思考によって生み出されるものである。「物質なるもの」は抽象概念である。では本当に「もの」に行き当たるとはどういうことか。それは概念的思考とは異なる道筋を行き、日常的現実の背後にある地平に入らなければならない。
従って、「ものをよく見る」と言われるときも、それは主体・客体の図式でそのものを観察することではもちろんなく、むしろその両者の内奥どうしにある通路が生じ、自分とそれが同一であるという地平まで行くことである。対象的認識ではなく(それは中沢の言う非対称性の認識だが)、そのものと一つになる、一つになり得る世界を探すということであろう。たぶんこれが宋学で言っていた「格物致知」の本質だったのかもしれない。そして「松のことは松に習え」の世界かもしれない。この「通路が生じる」ということがアニミズムにほかならない。
それが、中沢が言うところのレンマ的知性の働きであるが、それは詩的言語が担うものである。そもそも言語にも二面性がある。ロゴスとレンマ、その二元性は人類の宿命であるが、意識と同様また言語にもその二面性はある。言語によって世界は分節化されるが、逆に言語の異なる使用によりその分節化以前に遡行することも可能性としては開かれている。
井筒俊彦も、英文で発表された著書『言語と呪術』23 において、「言語はもともと呪術的な機能から始まった」と論じている。そこには現象界の「手前」にある流動としての「言語アーラヤ識」への関心がある(井筒のデリダへの関心もそのポイントをめぐってであった)。つまり言語とは呪術的な機能が一次的なもので、理性的な機能はそこから生まれた二次的なものなのである。また吉本隆明もこの言語の二重性を指摘していたことも忘れてはならない 24。
詩的言語は文字通り世界をより原初の状態へと変えることができる。そもそも客体的な自然の世界とは、言語の分別機能をもって分節化された世界であり、その限りにおいて仮構のものである。言語が変身するとき、文字通り世界も変身するのである。そのとき私たちは、絶対だと思っていた日常世界の実在性が括弧に入れられ、それとは異なる地平を垣間見ることになるだろう。
ドイツロマン派のノヴァーリスは、詩的言語が完全な「形象言語 (Figurenworte)」のようになることを夢見たという 25。それはヒエログリフのようなものであり、それ自身のみを意味する象徴的記号なのだという。その意味で数のようなものだとも言う。これはつまり、言語のもつ、ある対象を指示して日常的現実を作るという機能を可能な限りなくして、言語を「もの」に近づけていくことだと思われる。確かな存在感をもつ「もの」になるためには対象指示性は限りなくゼロに近づけるのだ。神聖文字を音の面からとらえれば「呪文」あるいは「真言」となるだろう。
俳句の形式はその断片性を特質としている。これは俳句自体が「もの」になりやすいということであり、前後の文脈から「意味のネットワーク」に参加するのを拒絶することにもなりうる。すなわち俳句は神聖文字や呪文・真言に近づく。それは言語の指示的意味ではなくマテリアルな感触にフォーカスすることでもたらされるのである。「言語のもの化」これが最も容易に行える文芸ジャンルが俳句なのかもしれない。ドイツロマン派で、絶対的なるものへの
探求は永遠に未完であるとして「断片」の形式が好まれたことも、ここで思い出すことができる。体系性ではなく断片。俳句の「あまりにも短い」ことが言語の「もの化」には好条件となる。
2.アニミズム俳句の実例
理論編をひとまず終え、ここから実践編に入ることにしよう。実際の作品に即して考えていきたい。 まずあまりにも有名な芭蕉の古池の句をあげてみよう。
古池や蛙とびこむ水の音
予備知識として必要なことを述べておくと、「古池や」の語は、何を持ってくるのがよいのか考えて最終的にこれにしたのであり、芭蕉は古池に蛙が飛び込むのを実際に見たわけではない。また和歌の伝統では蛙とはカジカのことであって、それはよい声を鳴くのを愛でるものであった。つまりここで芭蕉が声ではなく、池にぼちゃんと飛び込むと変えたのは、俳諧のもつ「ずらし」の習慣によるものである 26。
この句の成功は、「無限に広がる静寂」を詩作し得たところにあるだろう。描かれている「図」のイメージ的な照応によって、そこにある不可視の「地」を感じさせることができるか、そこに成否がかかっていたわけである。俳句を英語圏に紹介したブライスや、鈴木大拙以来、芭蕉を禅と結びつけて理解することが海外ではよくある。それはもちろん俳句の紹介としては偏っているものと言えるが、一方、完全な的外れとも言えないところはある。この芭蕉が表現した空間の広がりは、確かに禅が目指していたものでもあるのだ。ただ、芭蕉は仏教のみならず、老荘思想(タオイズム)に通じていたし、現にこの「ピュシス」的な自然、natura naturans のようなものを、「造化」という老荘の用語で語っているのである。
またこの句では、芭蕉の眼前にはなかった「古池」のイメージが重要な役割を果たしていると思われる。俳句は「もの」を詠むといっても、その「もの」が物質的に眼前にな
ければならないというわけではないのである。この古池はほかのいかなる語とも交換不可能である。「古」から連想されるその太古性、そしてその水の界面は、世界の界面にも見える。蛙はその界面を一瞬で飛び越え、不可視の世界へ移行する。この微妙なインターフェイス、その界面のゆらぎが表現されている 27。
決して、蛙が人と同じようにふるまっているわけでなく、蛙の魂や精霊が出てくるわけでもない。しかしながら、巧緻な照応関係の構築によって、すべてがつながっている空虚なる空間が詩作にもたらされたことが、アニミズム的と言いうるのである。このようにアニミズム俳句を考えると、魂や霊のような明確な指標がないので、何をもってアニミズムとするか、合理的思考(非対称性の思考)からは完全には決定不可能となる。それは、そこに「全体直観」が生
じているか、自らの「レンマ的知性」で感じ取るしかないということになる。しかしこれは仕方がない。詩の評価とはそういうものである。
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子
『俳句の海に潜る』では、「蝶とその魂の二つが分かれているのは本来のアニミズムではなく、西洋人的なアニミズム観ではないか」と中沢は指摘している。これはタイラーを意識していると思われるが、単純に「動物にも魂がある」と見るのがアニミズムだとしたらこれもアニミズムになるはずである 28。蝶とそれを見ている自分との間に「自他未分」の空間が開かれているかというのがポイントとなりそうである。
小澤實はそれに対して虚子の別の俳句をあげる。 爛々と昼の星見え菌きのこ生え
たしかに小澤の言うようにこれにはアニミズム的感性が感じられる。まずこの句を読んだときに何らかの「異常性」が感じられるはずである。強い言葉で言えば一種の狂気である。プラトンなどギリシア哲学では「マニー」という精神の異常な高揚状態で真実が見えると考えられてきた。プラトンはディオニュソスの密儀宗教の影響も受けていたのかもしれない。虚子のこの句は、シャーマン的な高揚であって、一瞬異なる時空を見てしまった感覚に溢れている。「凍蝶」の句は違うかもしれないが、虚子自身にはアニミズム的感覚は確かにあったと思われる。中沢の虚子評価はやや性急であった。
帚木に影といふものありにけり この句にも虚子の「マニー」は横溢していると考えられ
る。ここには存在のミステリーの感覚がある。他にも、 遠山に日の当たりたる枯野かな
というような有名な句もまた、全体に対して「私」が溶解していく感覚が確かにある。このように意識がふと違うモードに入ってしまうことが古代人的な心性であるのかもしれない。
こうした句は「もの」の本性へと入り込んでいくものである。たとえば帚木のエッセンス(そこにいろんな伝承の意味づけがついていたとしても)、それは何かおぼろな、あたかも精霊的な存在感覚をもたらすものである。こうした句においては、ふだんは隠されている「存在」の根源を明るみにもたらすこと、というハイデガーの芸術観がよくあてはまると思われる。
白日はわが霊たまなりし落葉かな 渡辺水巴
中沢・小澤対談 29 でもあげられているが、「私」と太陽の間に交通が開かれている。きわめて霊的な感覚をもたらす句である。神秘主義の世界に接近すると言ってもよい。「白日はわが霊なりし」という霊的な言明のあとに、「落葉かな」が続けられる。前半の霊的なエネルギーを着地させるような感覚である。落葉が現実世界を連想させるとすれば、この句はこちらとむこう側に通路を作っているとも言うことができる。
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
この句はまさに限りなく「もの」に接近している。いささかも人為的思考をはさまないかのような世界において、「存在」を感じさせる。蛇笏のこうした句を「存在論的俳句」
と呼ぶことは許されようか。
幽冥へおつる音あり火取虫 飯田蛇笏
この句ではその彼方の地平が「幽冥」と名ざされている。存在の界面に発する音として、芭蕉の古池の句にも対比されよう。古池の句と異なり、この句の世界はわずかな火だけがある圧倒的な闇である。風鈴の句もそうであるが、音の存在が意識の深部に入り、普段は見えない世界の感覚を開くのである。
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
あまりにも有名な句であり、万緑はここから季語として定着したと言われる。この万緑は力強いエネルギーを持つ語である。おそらく、自然の純粋な生成力、ピュシスとも
言われるものを表現する。そして子供の歯の成長はこのピュシスの運動そのものである。つまり自然界にも人間の内部にも全く同一の生成力が貫いていることへの直観がある。こうした直観はロマン主義にもあり、特にシェリングの同一哲学はそうした直観に基づくものであった。
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
アニミズムを自覚して句作をしていた金子兜太の後期代表作と目されている句である。
この句にも表面的にはおおかみに魂があるなどとは書いていない。そのため、タイラーの定義を絶対視するならばアニミズムではないであろう。もちろん作者は実際にオオカミに蛍がついているのを見たわけではなかろう。蛍は日本文化において「魂」の象徴として詠まれてきた長い歴史があり、それをふまえて「おおかみの本質」を句作しようとしたのである。私はこの句からいつも、ウィリアム・ブレイクの「The Tyger」という詩を連想する。本質の、霊的としか言い様のないものが詩作されている、という意味で。
死を語る貂の毛皮を頭に被り 堀田季何
古代的感覚では、動物の毛皮をまとったり仮面をつけたりするのは「変身」を意味する。人は動物になるのである。この『人類の午後』30 という句集に収められている句は、人と動物の逆転というアニミズム的事態に「死」を見ていることが鋭い想像力である。というのは狩猟社会においては人と動物は狩る・狩られるという「死」をはさんだ関係性を持つからである。アニミズムの世界は、単に人間でないものと仲良くしましょうというだけではなく、生存のた
めに他の生命を奪うという現実の緊張の中で営まれていることに留意すべきである。貂の毛皮で人と動物が逆転し、宮沢賢治の「注文の多い料理店」のようにそこに「死」が浮上する 31。次にあげたいのは、夏石番矢による句集『巨石巨木学』32である。
夏石は句集ごとに明確なコンセプトを持って制作し、『猟常記』以来、旧来の俳句界にとらわれない自由な作風で知られている。この句集の第一章は普通の俳句だが、第二章ではすべて
が「漢字だけで書かれている句」になる。そして第三章では漢字の句と普通の句が交互に出現し「和漢朗詠集」のような体裁をとっている。
第二章「熱砂経」はこんな感じである。
獅ししく子吼第だいいち一東とうかい海火か龍りゅう太たい子し厄やくどし年 段だん段だん壊ね広こう寒かん宮きゆう裏り石せき蓮れん華げ 獼み猴こう王おう堕だ落らく金こん剛ごう山せん時じ妙みょう音おん
「段段壊」「堕落金剛山」等の『観音経』に見える語など、仏教関係の語彙が挿入され、「熱砂経」という章のタイトルにもあるように「お経」のパロディとして書かれていることは明らかである。
第三章「智慧桜」の冒頭はこんな具合である。
智ち慧え桜ざくら黄おう金ごん諸しょ根こん轟ごう轟ごう悦えつ予よ 花の窟に滅相もなき赤ん坊 襷たすき石いし悉しっかい皆雲うんしゅう集極ごくらく楽国こく土ど 榧の木不動わが影武者を消したまえ
原文はもちろん縦書きであるが、そうして見ると漢字の羅列が縦に一直線となり、垂直性を著しく感じさせる。するとその漢字俳句が樹木に見えてきて、句集のページは森となる。その間に挿入される和文の俳句は比較的定型を保ち、また歌うような軽快なリズムを特徴とする。漢字の重厚さに対する「合いの手」のように和文俳句が配置される。これは森の木々のあいだの空間であり、広がりを与える。漢字俳句に付されるルビは、経典のものとは異なり、一部に訓読みを交え、言葉のリズムを多様化している。そもそも、なぜこの形式なのだろうか。それを考えてみよう。そもそもこのルビ付きの経典というものは、日本語のレパートリーの中にありながらも、これまでそのパロディで詩作しようとする人はいなかった。経典とは基本的に神聖言語である。それは儀式の際に詠唱され聖なる時空間を作り出す言語行為である。それは言語の持つより初源的な力を思い出させるものではないだろうか。夏石番矢は経典の言語としての力を感受したからこそ、そのパロディを企図したのであろう 33。それは五七五という狭い意味の定型ではなく、自ら新しい「型」を創造したのである。
夏石番矢は最初の句集『猟常記』から、漢字とルビという二重表記システムの表現可能性を実験しており、『巨石巨木学』ではそれが全面にわたって遂行されている。そうした俳句創作上の方法論的イノベーションという側面もこの句集には大きくある。
この句集は、第一章が「巨樹通信」と題されていることからもわかるが、ともかく巨木と巨石への徹底した共感によって貫かれている。全体に一種の祝祭的な雰囲気が漂う。
つまり近代的構図によって抑圧されていない「自然そのものの生成力」(ピュシス)の完全な感受を目指すものだ。同時にそれは仏教の伝統をも意識して行われている。仏教と言ってもまったく陰々滅々としたものではなく、むしろ生命の爆発的歓喜であるエクスタシーである。そのことが、 智慧桜黄金諸根轟轟悦予 この句に示されている。「智慧」は仏教的な悟りを示しているが、それは巨大な歓喜を解放するものなのである。
その意味でこの仏教はむしろ密教のテイストに近いものとも言えるかもしれない。「根」はこの場合木の根と、仏教で言う知覚器官としての根(六根清浄というときの根)の二重の意味がかけられている。
花の窟に滅相もなき赤ん坊
花の窟とは三重県熊野市にある花の窟神社を連想させる。そこはイザナミノミコトの墓所とも言われ、巨大な岩壁の下部に大きなくぼみがある。これが「巨石」なのだが、これが母胎とも連想され、国生みの女神と結びついていると思われるが、この句では前の句のエスクタシーの生成力(そこには性的な含意も含まれていると思われる)がぽこっと赤ん坊を生み出してしまったわけである。
襷石悉皆雲集極楽国土 榧の木不動わが影武者を消したまえ
そして第三句は「石」で受け、極楽が語られ、第四句では木のお不動様に対して願いを立てる。この文脈でいえば「わが影武者を消したまえ」は、こうした浄土にふさわしくない心の闇を浄化してくれることを言うのであろう。
ここで読んでみたのはごく一部にすぎないが、アニミズム俳句における『巨石巨木学』の意味として言えば、この樹木と巨石との交感に完全に没入していくときの言いがたい生命感覚をこの句集は鮮明にとらえていると思われる。
他にも優れたアニミズム俳句はあるが、『巨石巨木学』においては、句集全体が明確な意図の下にそれを志向しており、その生命感覚のトーンで全篇を押し切っている創作力には驚くべきものがある。そして、アニミズムと生命論的に捉えられた仏教とが本質的に通じ合っているという直観が表現されているのである。
おわりに
私はハイデガーのように、芸術作品の意義を美ではなく真理性において捉えたいと思う。真理性とは「隠されていたものがあらわになること」とハイデガーは言うが、この世界を支えるものでありながら不可視にとどまっている地平を感じさせてくれるものが優れた作品である。
アニミズムは人類史において過ぎ去った思考ではなく、より未来的なものでありうる。アニミズムの根本的な思考法はタオイズムや仏教のような古典文明の思想にも受け継がれているものであり、私たちはその価値をまだ完全には理解していないのだ。
しかし、中沢も指摘するように、アニミズムは無自覚的な感覚のみではなく、思考として行われていくべきものである 34。草田男の万緑の句にもあったように、世界を生成する力は自然にも私たちの内部にも動いているのである。
シュレーゲルは、自然自体を「根源的ポエジー」と呼んでいた。そのポエジーの力を発動すること。このロマン派の理想はなお古びてはいないのである。思考として捉えられアニミズム俳句の意義――芭蕉から夏石番矢『巨石巨木学』までを読みつつの考察 35たアニミズムは、ロマン派の詩論で言われていた、根源的な「構想力」ともなるのである。自覚的なアニミズムは、私たち自身の意識の原初に近づいていく方途ともなりうるに違いない。結局、芸術とは、有限な世界の中に無限を投影する試み以外のものではないのである。
1 中沢新一・小澤實:俳句の海に潜る、KADOKAWA、2016 さらに続編として、中沢新一・小澤實:相即相入の世界 アニミズム俳句を読む、澤 2018 年6月号 pp. 22-53 2 もちろん俳句のアニミズム性については以前から議論にはのぼっていた。坂口昌弘:俳句とアニミズム、坂口昌弘:俳句論史のエッセンス、本阿弥書店、2020、pp. 258-295 また平川祐弘も日本文学全般、また特に芭蕉のアニミズムについて論じている。平川祐弘:東の自生観と西の創造観、勉誠出版、2020、pp. 242-272. 3 中沢新一:カイエ・ソバージュ合本版、講談社、2010 4 中沢新一:レンマ学、講談社、2019 5 俳句の海に潜る、L. 1691(L. は Kindle 版での該当箇所 以下同じ) 6 同書、L. 2597 7 ここでいうタオイズムは、以下の本で述べられているような理解に近い。フィリップ・ローソン、ラズロ・レゲザ(大室幹雄訳):タオ 悠久中国の生と造形、平凡社、1982.および、J. J. M. デ・ホロート(牧尾良海訳):タオ 宇宙の秩序、平河出版社、1987 8 箭内匡:イメージの人類学、せりか書房、2018 9 最近の日本語で何かに強く感動したときに「神」という言葉を使うのは、まさにこの感覚であり、おそらくそれは日本の伝統的な神の感覚もそれだからである。 10 東洋における「気韻生動」という芸術評価基準もディナミスム的観点と言える。 11 フィリップ・デスコラ(小林徹訳):自然と文化を越えて、水声社、2019、第5章 12 またここで注意を向けたいのは、デスコラのこの議論は近代の世界観の相対化という意味があることだ。人類学者を含めほとんどの異文化研究は、異なる人々がそれぞれ異なる「世界の切り取り方」をしている、との理解をしている。だがそこで、多くの近代の学者(あるいは近代人一般)は、自然科学が描いている物理的
世界が「実在」であることを疑わず、そういう基盤に立った上でそれぞれの「解釈」が様々ある、と見なしがちである。だがこれはデスコラの意図するところではない。これは「解釈」ではなくて「存在論」の違いである。つまり近代的な、ナチュラリズムの存在論は、近代社会に特有なものであり、特権化されてはいない。
いわゆる物理的世界が「実在」であることは括弧に入れられている。 13 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(檜垣立哉他訳):食人の形而上学 ポスト構造主義的人類学への旅、洛北出版、2015、第2章 14 前掲、箭内匡:イメージの人類学、p. 150 15 世界内存在という概念に注目した人類学者に、ウィスラーエフがいる。レーン・ウィスラーエフ(奥野克巳
他訳):ソウル・ハンターズ シベリア・ユガギールのアニミズムの人類学、亜紀書房、2018、pp. 42-43 16 今西錦司:生物の世界、講談社、1972 17 岩田慶治:カミの人類学 不思議の場所をめぐって、講談社、2019 その他多数の著書がある。 18 岩田慶治:道元の見た宇宙、青土社、1989 19 James K. A. Smith: How(Not) To Be Secular,Erdmans, 2014 20 他の背景をあげるとすれば、15 世紀くらいから神の超越性が強調される神学が優勢になり始め、それとナチュラリズムの発展は呼応していた。一神教の神の超越性は、世界の地平の彼方にある何かを超越的な一つの概念によって回収してしまう。近代になってこの神は打倒され、「自然法則」が神の座を占めるようになったのかもしれない。 21 奥野克巳:モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと、亜紀書房、2020、L. 2252 22 同書、L. 2257 23 井筒俊彦(安藤礼二監訳、小野純一訳):言語と呪術、慶應義塾大学出版会、2018 24 吉本隆明:言語にとって美とは何か、角川書店、2001 25 Alexander J.B. Hampton: Romanticism and the Reinvention of Modern Religion, Cambridge University
Press, 2019, p. 197 26 長谷川櫂:古池に蛙は飛びこんだか、中央公論社、2013 27 なお、『俳句の海に潜る』の「海」という表現も、不可視の領域の象徴であろう。それは「海の民の文化」から受け継いだものだと説明されている。 28 稲畑汀子はその意味でこの句をアニミズムとみる。
坂口昌弘:俳句論史のエッセンス、p. 274 29 前掲、中沢新一・小澤實:相即相入の世界 アニミズム俳句を読む 30 堀田季何:人類の午後、邑書房、2021 31 まさにそうした捕食関係があるからこそ、肉を贈与してくれる自然に対する倫理が発生することを中沢新一は神話に即して説明している。中沢新一:人類最古の哲学(カイエ・ソバージュ第一巻)、講談社、2002 32 夏石番矢:巨石巨木学、書肆山田、1995 この句集は次の書に収録された。夏石番矢:越境紀行 夏石番矢全句集、沖積舎、2001 33 お経とはわからないから有り難いとの考え方もあるが、この夏石番矢の句に関しては、漢字とルビの並びを見ればおおよその意味は把握できるようになっている。ただし一定の仏教的教養が役立つ部分も少なくはない。実際、「無老死亦無老死尽夫婦岩」という句を見て般若心経の引用であることがすぐにわかれば句を楽しめることは事実である。しかしともあれ作者は、わからないものとして句を作ってはいない。 34 中沢新一:対称性の思考としてのアニミズム、熊を夢見る、角川学芸出版、2017 所収