自分の足で歩いて行って喋(しゃべ)る
Facebook相田 公弘さん投稿記事【現象そのものには色はついていない】
小林正観さんの心に響く言葉より…
ある日あなたが、自転車に乗って転んで大怪我をしたとしましょう。
全治一週間のケガを負ってしまって大変だと思うかもしれませんが、それはあなた自身がシナリオに書いてきたこと、すでに決まっていたことなので、特別なことではありません。
その転んでしまったという現象に対して、落ち込むことも、笑って過ごすこともできますし、ただ何も感じず淡々と過ごすこともできます。
その現象をどう受け止めるかは、自分次第ということです。
ほとんどの人は、現象と自分の感情が一体だと思っているかもしれません。
よく、「上司に怒られたので、とても落ち込んでいる」という人がいますが、上司が怒ったことと、自分が落ち込むことは別です。
「上司が怒った」という現象と、悲しい、辛いという感情が別々に存在しています。
もともと、現象そのものに、色はついていません。
私たちが勝手にその現象に感想をつけて、「嬉しい」「悲しい」という色をつけているにすぎません。
目の前の現象に一喜一憂せず、ニコニコと、淡々と、そうなりましたかと捉えていくと、自分が楽になります。
一喜一憂する人には共通点があります。
辛いことがあったからといって、すぐ落ち込んでしまう人がいますが、面白いことに、そのような人は誉められると、すぐに有頂天になるようです。
すぐ落ち込む人は、すぐに有頂天になる。
これはどういうことでしょう。
それは自分自身を人と比べて、他人の評価に一喜一憂しているということ。
つまり、自分自身の考え方や、思想を持っていないということです。これは幼児性の表れと言えます。
自分自身の生き方や考え方をきちんと持っている人は、人の評価に左右されません。人と比べることに意味はありません。私たちは淡々と生きていけばいい。
大事なことは、一喜一憂せずに、ただ受け入れていくということ。
目の前の現象に、「嬉しい」「悲しい」という色をつけるのは自分なのです。
『無敵の生きかた』廣済堂出版
目の前の現象を、「幸せだ」とか「不幸せだ」という色をつけるのも自分。
現象そのものに色がついているわけではない。
だからある人は、それがあったからこそ「幸せだ」と思い、別のある人は「不幸せだ」と思う。万人が「悲惨だ」、「辛い」と思うようなことでさえ、「そのことがあったおかげで今の自分がある。幸せだ」と思う人もいる。
また、幼児性について小林正観さんは次のように語っている。(楽しい人生を生きる宇宙法則)より
『家庭のことで言いますと、同じ言葉を他人から言われたときに、怒らないで踏み留まることができるにもかかわらず、同じ言葉を妻から言われるとものすごく腹を立てて爆発してしまう夫がいます。
また、同じ言葉を他人から言われても怒らないけれども、夫から言われるとキレてしまう妻がいます。
それは、どういうことかと言うと、外では踏み留まる能力があるにもかかわらず、家庭では踏み留まらないということなんですね。
《踏み留まれない》のではなくて、《踏み留まらない》んです。
これを一言で言うと“幼児性”です。
実は、“幼児性の克服”のためにも結婚というものが存在します。
家庭を持って、妻に対して夫に対して、あるいは子供に対して、「私」が気に入らなくて爆発する、その「私」の“幼児性”を是正するために結婚というものがあり、家庭というものが存在します。
家庭というものは、ただ自分の思いを通すための甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもありません。
幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、結婚があり、家庭が存在するということです。』
「幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、結婚があり、家庭が存在する」
日々、幼児性を削る努力を重ねたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより
https://www.facebook.com/hitonokokoro
Facebook相田 公弘さん投稿記事
あの二宮尊徳さんが困り果てたあげく、成田山にこもり21日間の断食と一日数回の水行をしていたということを、知っていましたでしょうか?
ある村の立て直しを一所懸命おこなっていた尊徳さんでしたが、村人の中には快く思わない人達もいて、尊徳さんのことを目の敵にし、周りを巻き込んで反対し、妨害されるという目にあいました。そんな中、成田の不動さんのお堂にこもったのです。
そのとき尊徳さんが開眼し気付いたこととは一体何か・・・以下をどうぞ。
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尊徳の歌に、「見渡せば 遠き近きはなかりけり 己れおのれの住みかにぞある」
東京の人から見れば大阪は遠いし、大阪の人から見れば東京は遠い。商店に買い物に行く時、遠くて不便だとなげき、その商店が火事だと聞けば、遠くてよかったという。このように遠いとか近いとかいうのは、自分の立っているところを基準にしてのことであり、一円全体から見れば、遠い近いの区別はありません。
このように吉凶・好悪とか、是非・善悪、優劣・美醜とかいうものは、円の半分であり、相対的なものです。いわゆる較べる世界での相対的価値観によるものです。
どうも私どもは、こうして相対的にとらわれがちなものです。
それ故に、心おだやかならず、不平不満や嘆き悲しみがたえないわけです。
ところが、ひとたび相対観から全体観の立場に立てば、風景が変わってまいります。
寛大、おちつき、やすらぎの境地がひらかれるわけです。
これが尊徳のいう全円観であり、相対をこえるという意味から言えば、絶対観ともいえるものです。
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「ものがたり伝記シリーズ6 二宮尊徳」文・もろひとめぐみ 画・さいわい徹
寺田一清 著明徳出版社より
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※このものがたりシリーズの伝記は、お子様がいらっしゃる方には特におススメですよ♪本文は寝る前の読み聞かせで読めるぐらい優しいです!
妨害する人と、よくしてくれる人、今まではものごとの半分、つまりよくしてくれる人しか見ていなかったけど、全体を見るようにしよう!と悟ったのです。
善悪もそうですね、
ショッカーがいなかったら、仮面ライダーもいらないのです。
ライバルチームがなかったら試合もせずに優勝、いや、大会も開催されません。
剣道や柔道などの武道も、相手がいるお蔭で試合ができる。だから、勝っても負けてもお互いに礼をし相手に敬意を払う。
ライバル店や、繁盛店があって、そうじゃないお店があったとしても、そこに優劣を見るのは半円の考え方です。
それよりも、全体としてとか、町として、国として、業界として、という見方になったとき、違うものに見えると思います。
よく岡村浪漫の岡村さんが言うんですが、「何十店舗もやっている居酒屋さんも凄いけど、一店舗でもこだわりもって焼き鳥焼いてる居酒屋さんも凄いんだよ」
物事を、半円(自分サイド・相手サイド)だけで見るのではなく、全円(一つとして)見ることが、いろんな問題を解決するヒントになりそうですね♪
優しい人もいいけど、怒っている人もいい!行列のお店もいいけど、空いてる店もいい!
勉強するのもいいけど、遊ぶのもいい!真面目な人もいいけど、適当な人もいい!
そう考えると、最大の短所は、最大の長所にもなり得ますね(*^_^*)
僕は相当なバカなんですが、そのおかげで学び続けているんだと思います!
学べば学ぶほど、自分がバカだということに気付いてしまうんですね~(笑)
それはともかく、ものごとを一つの「円」として見ていくようにしていきますっ!
※魂が震える話より
Facebook相田 公弘さん投稿記事 【稽古するよりしょうがない】
自分が好きで入った道ですからね、人に勧められてやっているわけじゃない。
そりゃあ波乱万丈(はらんばんじょう)の人生ではあったんです。
でも、やっぱり周りの人たちに支えられた面がずいぶんあるんですよ。
今、77歳ですが、高座まで自分の足で歩いて行って喋(しゃべ)れる体力と気力さえあれば生涯現役でいたいと思っています。
だって私たちに終点、到達点っていうのはないんですもん。私たちが到達する時はいつか、目を瞑(つむ)った時ですよね。これはあらゆる人に言えることじゃないでしょうか。
だから「もう俺は頂上へ登っちゃったんだ」と思っているやつは絶対にダメだと思う。転がる一方ですよ。
中学三年の11月に、卒業を待ちきれなくて、古今亭今輔師匠のもとに飛び込んじゃったんです。その頃、今輔師匠からこう言われたことがあるんです。
「苦労しなさい。ただ、何年かして振り返ってみた時に、その苦労を笑い話にできるように努力しなさい」苦労の壁をどう乗り越えるか、どう突き破るか、それも一つの勉強だと。
若い時には師匠の言葉の真意は分かりませんでしたけど、いまになってみると大変有り難い言葉だと思います。
私が大切にしている言葉に「芸は人なり」というのがあります。
薄情な人間には薄情な芸、嫌らしい人間には嫌らしい芸しかできないんです。
だから、なるたけ清楚(せいそ)な、正直な人間にならなきゃダメだって。それが芸に出てくる。そのためには、稽古するよりしょうがないですね。
我われはもう稽古以外には何もない。「噺百篇」という昔からの教えがありますよ。
一つの噺は百回やらないと自分のものにならないと。私はいまでも最低一日一回は稽古します。他の用事がない日は、お昼の12時半から夕方の5~6時までは稽古の時間と決めているんです。その間、自分の部屋へ籠(こも)っちゃう。
カミさんに言いうんです。「いても、いないよ」と。電話が掛かってきても、「いません」って断ってもらう。稽古の最中に電話を取り次がれたりなんかしたら稽古にならないですからね。人間の人生っていうのは短いもんですよ。だからこそ自分で選んだ道は一途(いちず)に進めと。それ以外には何にもないな。
ですから、ただただ落語をやるよりしょうがない。“落語の道に終わりなし。目を瞑る時まで磨き続ける”
出典元:(月刊致知 2014年4月号 致知出版社)