磐井の乱
https://www.asahi.com/articles/ASN9J756XN6VTIPE02D.html 【外交巡る争い?「磐井の乱」の真実とは 日本書紀と九州】より
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720年の完成から、今年でちょうど1300年を迎える日本最初の歴史書「日本書紀」。その本に九州は、天皇家の祖先の出身地として、また、大和政権に対して度々反乱が起きた土地として登場します。しかしこれらの記述は、本当にあったことなのでしょうか。最新の古代史や考古学の研究成果から考えていきます。今回のテーマは6世紀、九州の首長が大王に反旗を翻した「磐井(いわい)の乱」です。
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「日本書紀」によると、継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国(つくしのくに)(現・福岡県)の首長・磐井が、継体の命で朝鮮半島南部の任那(みまな)(加耶(かや))の救援に向かっていた近江毛野(おうみのけな)率いる大和政権軍の行く手を阻んだ。当時、倭(日本の旧称)との関係が深い任那は半島東部の新羅(しらぎ)に攻撃されており、新羅は磐井に賄賂を贈って味方につけていた。継体は物部麁鹿火(もののべのあらかい)が率いる軍を九州に派遣し、戦いは翌年11月に磐井が討たれるまで続いた。「磐井の乱」と呼ばれる事件だ。
磐井の墓は福岡県八女市にある北部九州最大の前方後円墳、岩戸山古墳(墳丘長約135メートル)とみられる。小田富士雄・福岡大名誉教授(考古学)は、福岡県や熊本県の古墳の石室や石棺、墳丘に立てられた「石人石馬」の共通性から、「当時、九州北中部の首長らは『筑紫連合政権』を形成しており、磐井はその盟主だった」と推定する。
https://dokusho-chayarokurokuro.hatenablog.com/entry/2020/05/19/234348 【蘇我氏の正体。筑紫君と継体/メモ】より
蘇我氏は、527年の筑紫君磐井の乱の後に突如として現れる。
(追記 : 日本書紀の雄略9年に蘇我韓子が新羅遠征の将軍として登場。勉強不足+いい加減で困る😓)
メモ。
「天皇」の称号は、倭国が滅亡した白村江の戦い(663年)の後に登場する大海人(天武天皇)が最初に使い始めたと言われている。従って、それ以前には「天皇」という称号の人物は存在していない。
663年の白村江の戦いにより倭国が滅亡したので、倭国と別種のヤマト王権が国号を「日本国」として新興ジャパンを建国する。
そして天武天皇は日本史を作るよう命じる。それで出来たのが『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)です。
712年~720年の間に天皇をやっていたのは女帝「元明天皇」。諱を「阿閇」または「阿倍」という。阿倍氏は従って、白村江の戦いの「倭国」と、このあとの新興「日本国」の両方に関わっています。
元明天皇の側近が藤原不比等。記紀を読む際は、阿倍氏と藤原氏が歴史を操作している可能性を十分に考慮しておく必要があるかと思う。
ところで、天武天皇のバックに居たのが九州の海人族宗像君でした。
宗像大社は福岡県の宗像地方にある。宗像は博多の北に位置します。博多湾は西にある糸島半島と「海の中道海浜公園」のある半島とその先にある志賀島が囲む形になっている。志賀島は古くからの海人族=安曇族の本拠地などとされる。「安曇」に関わる地名「安曇野」「熱海」「渥美」や伝承などが全国にあることがその活動範囲の広さと古さを物語っています。
海の中道海浜公園の半島の付け根に「ししぶ」という地名があります。最寄り駅はJR鹿児島本線の「ししぶ駅」。住所は福岡県古賀市「美明」。
磐井の乱で、磐井の息子の葛子がヤマト王権(そんなもの存在しないだろう?)に命乞いに差し出したとされる糟屋の屯倉が、ここの場所「美明」ではないかとされ、「鹿部田渕遺跡(ししぶ・たぶち・いせき)」として調査されている。
日本書紀に継体天皇のセリフで「長門から東は朕が制するので、西は物部麁鹿火(アラカイ)の好きにしてよいぞ」というようなものがあるが、このセリフによってししぶも、長門より西つまり九州も物部麁鹿火に所有権がある事にされた。
麁鹿火の「麁」は「シシ」とも読みます。その他に「ソ」とも読む。「麁鹿火」は「ソカヒ」と読める‼️蘇我氏はここから出てくるのだ‼️
興奮を抑えつつ。
ししぶのちょっと北は住所が福岡県福津市。津屋崎古墳群や宮地嶽神社があるのですが、これらは筑紫君磐井の先祖や末裔に関係するといいます。
宮地嶽神社が奉っているのが神功皇后、宮地嶽大明神=阿倍丞相と、勝村大神・勝頼大神の兄弟。丞相という大した称号とともに阿倍氏が登場する。
記紀ではたいてい、阿倍氏は安曇氏とセットで登場する気がしますが、安曇部のことを阿倍(安倍、安部等)という説があります。
阿倍氏の本拠地や出自が分かりにくいのは、彼らが海人族なので日本各地あっちこっち遠征や交易しまくっていたからだろうと思われる。
そして、津屋崎古墳群や宮地嶽神社の北に、福岡県宗像市の宗像大社があります。
宗像三女神やアマテラスで古さを醸しているが、実はかなり新興勢力なのではなかろうかと個人的に思う。
次、重要なポイント。
筑紫君磐井は『福岡県神社誌概論』という資料に「阿倍磐井」と書かれているという。驚きです。筑紫君磐井は阿倍氏でもあるのです。みんな安曇の海神一族。筑紫君磐井は博多湾から有明海、大分県の臼杵にも石人があるし豊国も抑えていたと記紀にありますので、筑前筑後、肥前肥後、豊前豊後の広大なテリトリーを治める大権力者でした。関東東北にも九州式の装飾古墳がある。九州王朝倭国説の研究者が筑紫君を最重要視するわけです。
筑紫君磐井が楯突いたことにされているヤマト王権(存在しない)の天皇は継体天皇で、越国の出身という。
白村江の戦いで登場する阿倍比羅夫は越国守だとされていますが、継体の出身地である越国を支配するのが阿倍氏で、筑紫君も阿倍氏。阿倍氏同士という事です。
琵琶湖に注ぐ安曇川。これも継体の拠点に繋がっているだろう。
磐井の乱は同族内での揉め事だったのだろうか。
更に、継体天皇の真の古墳とされる大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺は、熊本県宇土の阿蘇ピンク石を使っていると言います。筑紫君の八女古墳群や熊本県の古墳は石人石馬と呼ばれる石の彫刻を古墳に配置させる変わった特徴があり、また筑紫君と火君は兄弟とも言います。こちらも同族。
アイヌ語で「火」のことを「ape アペ」というそうだ。
アヘ、アエ、アベは「火の君」をも指しているか?
物部「麁鹿火」を「ソカヒ」と読むと「蘇我火」。蘇我氏の正体は火君の一族という事がこじつけられる。熊本には阿蘇君も居る。大変古い家系とされています。「蘇我」の「蘇」は、阿蘇の「蘇」か。蘇我を宗我と書く場合もある。この場合は宗像の「宗」と被る。
筑紫君磐井の末裔は、乱後も八女古墳群でそれまで通りに石人の彫刻を備えた古墳を作り続けている。日本書紀で筑紫君は大悪党のように書かれてあるが、糟屋屯倉を差し出しただけのショボい処置。
本当に磐井の乱があったのかは怪しい。少なくともヤマト王権は存在しないので、全然関係無いと思う。甚だしい創作。
そろそろメモまとめ
どうやら「磐井の乱」の関係者がみんな安曇族・阿倍氏・福岡熊本の同族同士。
磐井の乱後に登場する蘇我氏と宗像君の正体を、物部麁鹿火と「蘇」繋がりでこじつけられる。以下。
継体の古墳石棺と阿蘇ピンク石の越国と肥後国の関係。
阿倍氏(比羅夫)と越国。
筑紫君と火君は兄弟、または一族。
麁鹿火はソカヒと読める。蘇我火。宗我火。
アイヌ語でアペは火の意味により、阿倍氏と火君の関係。
蘇我氏と宗像君の正体は、火君。
そういう事になりました。誠にありがとうございました。
追記
戦国時代ですが、草刈氏が宗像氏を相続する。草壁氏や日下部氏は筑紫君が本拠地としていたとされる筑後の高良大社の神職。草野氏も筑後の有力氏族。
宗像氏が草を刈る。そういう意味を含んでるだろう。
追記2
兼川晋『百済の王統と日本の古代』で物部麁鹿火=蘇我説を述べられているらしい。2009年初版本。
追記3
Twitterにてトンデモ認定人藤浪某氏より「火君」と「あへ、あべ」をアイヌ語をヒントに接続する妄想に対してトンデモ認定頂いたようです。物部世真古氏がこの投稿を引用したことに対する認定。ありがとうございます。
カムヤマトイワレビコやカムヤイミミの「カム、カミ」は漢字で「神」と書き、アイヌ語の「カムイ」と意味や音で共通しています。「アイヌ語の痕跡すらない九州」出身のそれら神々の名前にアイヌ語との共通性があることも気づかないほどの知性ではないでしょう。オタンチン呼ばわりするぐらいですから。
古代日本語を探る手段の一つとしてアイヌ語にあたるのはそこまで筋違いではなかろう。
Facebook古代史の真実…大野克浩 · さん投稿記事
国宝・漢委奴国王印捏造と満州事変
志賀島から発見されたと言われる国宝・漢委奴国王印の真贋論争の概要はここにあります、
https://www.ozoz.jp/kabeyama/koki/kininnonazo.pdf
省略しますが、私は偽印派として、ここにある「偽印派が回答していない」とする見解に反論します。
「1994 年の蛍光X線分析によると、金 95.1%、銀 4.5%、銅 0.5%、
その他不純物として水銀などが含まれ、
出土している後漢時代の他の金製品とも概ね一致している。
金の純度は 9 0% 以上と古代中国の印とほぼ同 じだと指摘 。
「 江戸時代に 金の純 度をまねてまで作る こと はできず 、
後漢のものだとして何ら問題がない 」と主張している 。
( 明治大学文学部 石川日出志教授)」
「以下私の反論」
江戸時代に金の純度をまねてまで作ることはできない という事ですが、
江戸時代にも普通に金箔などは23k近くで作られてます。
例えば金印発見の約100年前の日光東照宮の金箔は、金含有率が96%なので、
志賀島の金印が江戸時代に作られた偽印だとしても何ら問題がない。
また水銀が少量あるということはアマルガムでの残存水銀の可能性が高く、
それなら、建造当時の奈良の大仏や、今もある奈良県桜井市の長谷寺のご本尊などもアマルガム製法なので、
それらは江戸時代のはるか以前から日本にあった技術であり、
小判のような流通させることが目的のものは硬さが求められるので金含有率を下げるであろうし、
この金印のような実用品ではなく美術品としての美しさを求められる物は金含有率を上げるのは当たり前だから、
石川日出志教授の言われることは真印である事の何の証明にもならない。
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この志賀島の金印は、一部には知られていたものの、世間にはほとんど知られておらず、
昭和6年に国宝になってから広く国民に知られるようになったようです。
私が気になるのは昭和6年という時代です。
満州事変があった年です。
中国と戦った満州事変の年に、かつて中国の冊封を受け朝貢していた象徴である金印が国宝になったのには、
軍部による何か政治的な強い意図、目的があったとしか思えません。
その強い意図、目的とは、
「大和朝廷及び天皇は朝貢などしていない、朝貢していたのは九州にある小国である」
という国家としてのプライドではないでしょうか。
そして何よりも私が金印真印派にお聞きしたいことは、
この志賀島の金印とほぼ同じ時期に、同じように百姓の誰々が発見し、
ところが金印と同じく正確な発見場所が不明という、
宮崎県串間市の玉壁というものがあります。(画像)
この玉壁がもし本物ならば、王族しか持ちえないほど豪奢な権威の象徴であり、
宮崎の串間に、中国と通行していた王朝が存在し、邪馬台国南九州串間説が成り立つとも思えますが、
志賀島の金印が本物だと言われる方は、この串間の玉壁はどう思われるのでしょうか。
志賀島金印は本物だが串間の玉壁は偽物だとお思いでしょうか。
それならその根拠をお願いします。
それとも両方本物として邪馬台国南九州串間説を唱えられますか。
しかしそんなことを言ってる人を見た事がない。
ちなみに私は両方とも偽物という意見です。
両方とも偽物だとして、では誰がこんなことをやったんだと考えました。
するとあの時代に、実に不思議なことを言ってた一人の人物が浮かび上がります。
それは本居宣長であり、本居は「卑弥呼とは九州の熊襲の女酋長が卑弥呼(=神功皇后)に成りすまして朝貢していた」という、
「偽僣説」を唱えています。
その本居の説の通り、熊襲の本拠・南九州の串間から王族しか持ちえない玉壁が出た。
そして不思議なことに本居宣長は、志賀島の金印発見の一報を聞いても、驚くほど冷静で興奮しなかったようです。
私は黒幕は本居宣長ではないかと考えるに至りました。
とはいえ町医者だった本居宣長にこんな大掛かりなことが出来たか、という疑問があります。
そこで分かり易く映画に例えますと、
主演 亀井南冥
監督脚本 本居宣長
後援 江戸幕府
こんな感じで考えてます。
では私の説が正しいとして(まぁ正しいわけですが)、なぜ本居宣長がこんな事を行ったのか。
これは前回の投稿にも書きましたが、
本居宣長や新井白石などは、すぐに卑弥呼が誰なのかを見抜いていたはずです。
107年の倭国王帥升に名前の似た人物、そして日本の古代王で唯一外国に渡海した王と言えばスサノオです。
帥升=スサノオと仮定して、その100年後に卑弥呼がいるわけだから、卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛だとすぐに分かったでしょう。
つまりスサノオの土下座という屈辱から始まる日本古代史、これを公にすることは当時の日本人また未来の日本人に対して忍びない、ゆえ、一芝居うったのではないかと考えてます。
普通、捏造の黒幕といえば巨悪というのかもしれませんが、本居の場合は巨善というべきかもしれません。
巨善なんて日本語は、今、私が創作したわけですが、別に創作したとて構わないと思います。
https://iwasarintaro.hatenablog.com/entry/2021/07/26/211435 【古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑲磐井の乱の裏の本質とは】より
■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ⑲磐井の乱の裏の本質とは■
継体が大和入りした時に、間髪をおかずに豪族へ発したのは、筑紫の磐井(いわい)の討伐命令だった。籠絡してやろうと手ぐすね引いて待っていた筈の、大和の豪族たちの甘い夢は打ち破られた。豪族たちは競わされ、有無を言う余地も無く、遠い九州の戦争に駆りたてられる羽目になる。国の統一と権力の強化のためにも継体は、戦争を必要としたのだ。当時、天皇は軍隊を持っていたのか、豪族も保有を許されていたのか、実はよくわからない。僕が想像するならば、豪族も軍隊を保有していて戦争命令が出れば、自前の軍を率いて天皇軍と協調しつつ戦う。自軍を動員するリスクを負う代わりに、軍功を挙げたら応分の地位や領土の利権を得る、そんな取引的な関係ではなかったかと思う。
さて、「磐井の乱」(527~528年)だが、実際に「乱」と言われるような反乱行為を磐井が引き起こした形跡はない。古事記によれば、「筑紫君磐井、天皇の命に従はずして礼なきこと多し。故、物部荒甲(あらかひ)の大連、大伴金村の連二人を遣わして、石井(いわい)を殺したまひき」とある。「礼なきこと」、とは何か。おそらく大和政権の度重なる服属命令に従わず、税を納めることを拒絶したのだろう。一国に二王は要らない。膨張する内圧を放出するため、必然的に戦争となる。
福岡県八女市にある北九州で最大の前方後円墳。墳丘長135メートル
結果的に、磐井との戦いは、継体側の勝利で終わる。このことの日本史上の意義は極めて大きい。なぜなら磐井の乱の平定をもって大和政権の力は九州にも及び、ほぼ全国統一がなされ、中央集権体制の基盤が出来たからである。継体の積年のビジョンはここに実現した。また磐井の子からは助命と引き換えに屯倉も得ている。寛大過ぎる措置とも思えるが、「屯倉の拡大」という第1ドクトリンに照らせば合理性があり、次代の律令国家はこのあたりから準備された、と評することもできるだろう。
石人は石でできた埴輪。石馬の埴輪もある
しかしながら豪族の物部氏らの側から戦争の結果を見ると、兵員の損耗や遠征による領地の疲弊は甚大だったに違いなく、実はそれこそが継体の起こした戦争の裏のねらいではなかったか。一石二鳥の人の悪い作戦だ。その辺の意図が窺える日本書紀の記述がある。継体はこの戦いの始めは、近江の豪族、近江毛野臣(おうみのけぬおみ)に新羅の討伐命令を下し、6万(!)にも上る軍を出させたが、磐井の妨害で失敗した、と言うのである。うがち過ぎかもしれないが、これは大伴金村ら中央豪族を引っ張り出すため、身内の近江勢に手抜きの戦いをさせたと考えられないか。その後、「中央豪族たちが協議して、ついに物部麁鹿火を大将にして磐井氏征討に向かう」(日本書記)。恐らく継体の計画通りなのだろう。戦いに勝ったならば、関門以西は好きなように切り取って良い、との餌の約束手形も巧みにぶら下げられていた。
継体の発想は、のちの徳川家が参勤交代などで諸大名の財力を削ぎ、政権安定を図ったことと酷似している。有名な今城塚古墳から出たピンク石も、僕が思うに継体が戦勝記念として7トンもの重さの自分用の石棺をつくらせ、参勤交代よろしく九州から1千キロを運ばせ、地方豪族の忠誠度を試すとともに、中央豪族の弱体化を狙ったもの、と見ている(つづく、次回で終わる予定)。
美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎