灰かぶり姫たち
「はあっ……はあっ……」
物陰に身を潜め息を整える。追っ手は撒けただろうか。いや、やつらの目は多い。遅からず勘付かれるだろう。俺は無意識に握りしめていた左手に気づき、右手で指を一本ずつ開いていく。震える手を開いたり閉じたりして平常心を取り戻そうと試みる。ここからは一瞬の判断ミスがが命取りだ。冷静に判断し大胆に行動しなければならない。
俺は意を決して物陰から飛びだし、無我夢中で走り始めた。首筋に冷たい死の予感が触れる。形振り構わず倒れ込み、左手のC元素を解放する。瞬く間に展開する黒い粒子は騎士の形状となり左腕の盾で不可視の角度からの攻撃を防ぐ。よく見ればそれは黒い弓矢だった。俺の騎士と同じ、体内のC元素により顕現する殺戮の意思だ。
「いつまで鼠のようにこそこそ逃げ回るつもりだ?」
振り返ると漆黒のローブを纏った白い仮面の男がいた。機関の構成員だ。矢継ぎ早に射かけられる矢は、全て騎士の盾により防がれる。黒い騎士が行動するたびに、俺の身体の奥からは命が漏れ出ていくようだ。
「驚いたな、まだ子どもじゃないか。だがその様子では上手く使いこなせていないと見える」
余裕たっぷりに男は言う。だがそれは油断だ。そして俺はその油断を見逃さない。伊達に今まで生き延びてきた訳じゃない。俺の意思に従い騎士は槍を構え男に突進していく。
「愚かな」
男が右手を前に突き出すと、付き従うように弓兵が弓を構え、瞬時に面展開した無数の矢が一斉に放たれた。俺は咄嗟に騎士を黒い粒子へと霧散させる。斉射された矢はおよそその見た目からは似つかわしくない軌道と破壊力で俺の居た空間を破壊し尽くした。
「……ちっ、逃げられたか」
男は忌々しそうに呟く。
ある日、人類の中に奇妙な能力を持つ者が現れた。彼らはC元素と呼ばれる黒い粒子を用いて異形の存在を現出した。それは霧状になり何処へでも入り込み、要人をことごとく暗殺していった。彼らが単なるテロリスト集団から選民思想に基づく狂信者共となるのに、そう時間はかからなかった。
彼らに対抗できる人々は少ない。通常兵器では歯が立たない上にどこにでも現れる。俺がC元素を操れるのは偶々だ。本当に偶々、幼少期に親から虐待を受けていたため、鉛筆の芯が体内に残っていたのだ。C元素は体内に残された鉛筆の芯が長い期間を経て人体と癒合することにより生成される。彼ら「鉛筆機関」の構成員は、それを聖痕(スティグマ)と呼んでいる。
俺は遥か上空から眼下の仮面の男に狙いを定める。あの服装、弓兵を顕現させたこと、併せて考えると、奴はおそらく幹部の一人だ。ここで確実に仕留めたい。俺は軋む体に鞭打ち再び騎士を召還する。今度は騎馬も一緒に。これが俺の奥の手。俺の中にある大量のC元素は、騎士と騎馬、二体の異形を召還を可能にする。先程は騎士を囮にして、その隙に騎馬の力を用いて上空に跳躍したのだ。
ようやく間抜けが自分めがけて猛スピードで落下してくる騎士の存在に気づいたらしい。だがもう遅い。王手(チェックメイト)だ。騎士の槍が、騎馬の突進力を加えた必殺の一撃が、仮面の男の心臓を貫く。
「くっ……馬鹿な。……この、化物め」
忌々しそうな断末魔が聞こえた気がした。
「……やった……か」
どうやらまだ俺は生きているらしい。尋常ではない倦怠感を感じる。命が漏れ出すどころではない。刃物で削られているようだ。朦朧とする意識で現状を確認しようとするが、上手く体が動かない。まるで全身が鉛になったようだ。
「貴方は……誰?」
震える声にふと顔をあげる。そこには青い髪をした少女が立っていた。俺はその透き通るような美しさに、思わず息をのんだ。まるで天使のようだと思った。俺が何も言えずにいると少女は、再び問いかける。
「貴方も私を殺しにきたの?」
「いや……」
咄嗟に俺はそう答える。少女は目に涙を浮かべたまま、その透き通るような声で続ける。
「……あなた、怪我をしてないのに今にも命の火が燃え尽きそう……」
彼女は細い指先で俺の頬を撫でた。触れた指先から暖かな何かが流れ込んでくるのを感じる。彼女の手に描かれた不思議な文様が輝いていた。
……そういえば聞いたことがある。かつてコンパスの針と墨汁を用いて自ら刺青を入れる文化が流行した地域の話を。そしてそんな人々が集まり作り上げた、「鉛筆機関」とは異なるC元素を操る組織の名が確か……。
「……黒歴史」
俺が呟いた言葉を聞いた少女が恐怖に震え始める。俺はその瞬間、彼女に同情し共感した。そうだ、彼女の年齢を考えれば解るじゃないか。彼女は俺と同じだ。数奇な運命の末に自らが望まぬC元素を体内に埋め込まれた子どもだ。
上空を不吉な影が飛翔する。C元素の弾頭を備えたロケットペンシルだ。震える少女を急かすのは気が引けるが、おそらく彼女も追われる身だろう。早くここから離れた方がいい。迷った末に俺は彼女に手を差し出した。
「ここは危険だ。一緒に行こう」
俺の手を不思議そうに見ていた少女は、やがて意思を宿した瞳で俺の手をしっかりと握り返した。
「ありがとう」
そう言った彼女の目には、もう涙はなかった。
「私の名前は、ディアナ・灰原。あなたは?」
「俺の名は……」
こうして俺達は運命に出会った。この出会いがやがて世界に……いや人類に何をもたらすのか、そのときの俺たちは知る由もなかった。