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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 265 (06/07/24) 旧北谷間切 北谷町 (07) 浜川

2024.07.08 01:57

北谷町 字浜川 (ハマガー、はまかわ)

字浜川 平安山ヌ上屋取 (ハンジャヌウィーヤードゥイ)

字浜川 喜友名小屋取 (チュンナーグゥーヤードゥイ)



字伊平の訪問が終わり、続いて伊平の北隣の字浜川に移動して、地域内の史跡巡りを続ける。


北谷町 字浜川 (ハマガー、はまかわ)

字浜川は北谷町域西側、字伊平の北、東シナ海に面した集落になる。1922年 (大正11年) の軽便鉄道が通る前は砂浜が集落の近くまで来ていた。戦前、字浜川本村は戸数21軒が生活する小さな集落で、浜川集落の砂糖屋 (サーターヤー) は一ヶ所しかなく、集落の人たちで共同使用していた。字浜川の管轄下には浜川本村以外に平安山ヌ上屋取 (ハンジャヌウィーヤードゥイ) と喜友名小屋取 (チュンナーグヮーヤードゥイ) があり、学事奨励会などは、この3つの集落で交替で行なっていた。

琉球王国時代には浜川は砂辺に属していたが、後期には平安山ヌ上屋取と喜友名小屋取を含め、砂辺から独立し字浜川となっている。1925年 (大正14年) には浜川と平安山にまたがっていた下勢頭屋取集落 (シチャシドゥー) が字下勢頭として独立している。沖縄戦後に浜川の海岸は米軍に埋め立てられ、1980年 (昭和55年) に埋立地は宮城と港の二つの行政区とされ、現在に至っている。

浜川の特徴は士族の割合が極めて高く、北谷町の中では87%と平安山に次いで二番目に高い地域だった。1903年 (明治36年) では浜川本村には19世帯 (浜川全体の13%) の昔からの平民が生活していたが、残りは平安山ヌ上屋取、喜友名小屋取、下勢頭屋取の一部の帰農士族だった。


浜川集落で行なっていた主な年中行事は

  • シマクサラシ (旧暦2月2日): 豚1頭を潰し、その血を塗ったギキチャー (ゲッキツ) の枝を、道路の角や十字路、各家の門や四隅などに挿していた。豚の骨は、集落の出入口に吊り下げたヒジャイナーにはさんだ。
  • その他、ニングワチャー、ニングワチウマチー、サングワチャー、ルクグワチウマチーなどの行事が御神屋 (ウカミヤー) と呼ばれた屋号蔵根 (クラニー) の家が取り仕切って殿 (トゥン) にて行われていた。


浜川集落の拝所

  • 御嶽: 浜川御願 (ハマガーウガン、ヨリアゲノ御嶽)
  • 殿: 殿 (トゥン、浜川之殿)
  • 拝所: 龍宮神、火ヌ神、孔子廟、御神屋
  • 井泉: 前ヌ井、後ヌ井、西井、蔵根ヌ後ヌ井


浜川御願 (ハマガーウガン、ヨリアゲノ御嶽)

かつての浜川集落の中心地北に御嶽の森がある。御嶽の森は岩山 (シー) にあり、戦前にはあまり木は生えておらず、岩だけが東西南北どこからでも見えていたという。戦後、このあたり一帯は埋め立てられ、国道58号線と国体道路の合流地点から北西側に位置にあり、現在では岩が見えないほど木が繁っている。

この岩山全体が琉球国由来記にある 「島森ヨリアゲノ嶽 (神名 イシノ御イベ)」 にあたり、岩山の南側麓に琉球石灰岩の寄棟造の家形祠が置かれ浜川御願 (ハマガーウガン) と呼ばれている。祠内部には3基の石の香炉 (ウコール) と霊石が祀られている。戦前まで旧暦2月には集落に悪疫が入ってくるのを防ぐ為にシマクサラシが行われ、旧暦3月には神御清明 (カミウシーミー) の祭祀が行われていた。

ヨリアゲノ御嶽の祠から岩山の頂上ヘの道がある。途中から階段になっており、登りきるると岩の斜面に按司墓が残っている。浜川集落を治めていた按司の墓でテンソン御墓と呼ばれ、古琉球の風葬墓の特徴を残している。墓前には2基の香炉 (ウコール) が置かれ、墓の中には身分の高い豪族の物と思われる三基の陶器製厨子甕が安置されているそうだ。

登道の途中丘陵中腹にも古墓があり、モチツキの墓と呼ばれるノロ墓やウミナイ墓という洞窟墓がある。ここにも石の香炉 (ウコール) が置かれ霊石が祀られている。先程の按司にかかわる人物の墓と考えられている。ウミナイは王妃とか女姉妹を意味しているので按司の妻、母、姉妹の墓の可能性があるだろう。

岩山南側には8〜10世紀の貝塚が発見されている。緩斜面一体に海水産貝殻が散在し、砂丘系のくびれ平底土器やタカラガイの装飾品が発掘されている。この岩山は生活できる場所とは考えにくく、祭祀遺跡の可能性が高いという。浜川ウガン遺跡として北谷町文化財の登録されている。


殿 (トゥン、浜川之殿)

浜川御願の南側に三月毛 (サングヮチャーモー) と呼ばれる広場があり、ここにはいくつかの拝所が置かれている。

殿 (トゥン) の祠がある。琉球国由来記には 「浜川之殿 浜川村 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛浜川地頭、神酒三宛芋。同村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也」と記載されている。祠内部には 「殿之神」と刻まれた石碑があり、香炉 (ウコール) と霊石が祀られてる。殿では御神屋 (ウカミヤー) の屋号 蔵根 (クラニー) の主導で旧暦2月に豊年満作と健康祈願するニングヮチャー、旧暦2月の麦の初穂祭のニングヮチウマチー、旧暦3月の豊漁と海の安全を祈願するサングヮチャー、旧暦5月の稲の豊作祈願のグングヮチウマチー、旧暦6月の稲の収穫祭のルクグヮチウマチーの祭祀が行われている。


龍宮神 (リューグーシン)、火ヌ神 (ヒヌカン)

三月毛 (サングヮチャーモー) の広場には殿の左側に瀧宮神が祀られている。安良波原 (アラファバル) の海岸にある安良波ヌ岩 (アラファヌシー) への遥拝所として設けられたと伝わっている。戦前は背の高いスーティーチャー (ソテツ) があり、そこに向けて豊漁を祈願し御願が行われていた。戦後、この広場に碑がたてられ、龍宮神 (リューグーシン) と呼ばれるようになった。ここでは旧暦3月3日に重箱 (ウジュー) を持ち寄り瀧宮神に供えて瀧宮拝みを行い、その後は酒宴となっていた。この事から、この広場を三月毛 (サングヮチャーモー) と呼ぶ様になった。現在では清明祭 (シーミー) で瀧宮拝みを行なっている。

瀧宮神の右隣りには三体の霊石 (ビジュル) と1つの霊石が祀られた火ヌ神 (ヒヌカン) も置かれている。


旧浜川部落の拝所合祀所

瀧宮神の奥には四基の香炉 (ウコール) が並んでいる。米軍嘉手納基地に接収された旧浜川集落内に点在する拝所をウトゥーシ (御通し) する合祀拝所となっている。向かって左から、拝所カーシヌシー、拝所アワグルン、拝所トグチヌマタ、拝所シリーン作と書かれている。


孔子廟 (コーシビョー)

浜川御願の西側の道を渡った所はアマジチメーと呼ばれる墓地地帯となっている。ここは昔から病死した家畜や浜に流れ着いた水死者、無念仏などを葬る場所だった。戦前は海岸線に近い場所だったが、戦後埋め立てられて、住宅が立ち並んでいる。この場所には別レポートで記載した平安山の合祀所がある場所で、その隣に孔子廟と呼ばれる洞窟があり拝所となっている。この孔子廟には中国から来てこの洞窟に住み、この洞窟で没した浜川集落の創始者が住んでいたと伝わっている。孔子を祀っている訳でも無いようだが、なぜ孔子廟と呼ばれているのだろう?戦前から孔子廟と呼ばれていたのかは不明だそうだ。ここでは旧3月に神御清明 (カミウシーミー) の祭祀が行われている。


御神屋 (ウカミヤー)

ヨリアゲノ御嶽の西側、孔子廟の南側、アマジチメーに浜川集落の草分けと伝わる屋号蔵根 (クラニー) の屋敷跡がある。先程の孔子廟の洞窟に住んでいたと伝えられている人の末裔になる。そこに御神屋 (ウカミヤー) が建てられてアサギとも呼ばれている。神屋内には左側に、布袋、関帝 (カンティン王 関羽)、 天照皇大神、火の神、今中上 (イマナカウサチ) と沖縄ならではの様々な神が祀られている。右側には仏壇に多くの香炉が置かれている。蔵根 (クラニー) や村の創始者など先祖を祀っている。旧暦2月・旧暦5月・旧暦6月のウマチー (三ウマチー) の際に家主により拝まれている。ここを訪問した際には、おばあが拝みの準備をしていた。聞くと毎月1日と15日にはここでウガミが行われているという。今日は旧暦では6月1日だ。沖縄ではチィタチ (一日 新月) ・ジュウグニチ (十五日 満月) の拝みといい、家の安泰や円満、平和を旧暦1日に火ヌ神に祈願し、旧暦15日には、無事に祈願が届いたことへの感謝を捧げる習慣が残っている。


前ヌ井 (メーヌカー)、井戸の合祀所

浜川御殿の東の道を南に200m程の所に前ヌ井 (メーヌカー) がある。戦前には浜川のほとんどの家にチーガー (掘井戸、釣瓶井戸) があり、深い井戸は2mぐらいあった。ニーブガー (浅い柄杓で汲める井戸) はなかった。個人で井戸 (カー) を持つ ようになる以前は、西井 (イリガー)、前ヌ井 (メーヌカー)、後ヌ井 (クシヌカー)、蔵根ヌ後ヌ井 (クラニーヌクシヌカー) の四つの村井 (ムラガー、共同井戸) を使用していた。前ヌ井はその村井の中で最も古い井戸で、深さは2mぐらいの掘井戸 (チブガー) だった。前ヌ御神井 (メーヌウカミガー) とも呼ばれていた。水量が多く綺麗な水で、浜川集落の産井 (ウブガー) でもあり、拝所として拝まれていた。この場所には米軍基地に接収され、整地されて消滅してしまった西井 (イリガー)、後ヌ井 (クシヌカー)、蔵根ヌ後ヌ井 (クラニーヌクシヌカー) の三つの井戸が合祀されている。


ここに合祀されている井戸は

  • 後ヌ井 (クシヌカー、後ヌ御神井) - 深さ3~4.5mぐらいの大きな井戸だった。明治時代の終わり頃までは平安山ヌ上屋取 (ハンジャヌウィーヤードゥイ ) の人達も集落から600mぐらい歩いてこの井戸を利用していた。後ヌ井は御願解 (ウガンブトゥチー) のときに汲んで浜川集落の元屋 (ムートゥヤー) に供えていた。また、産水 (ウブミジ) や水撫で (ミジナディー) にも利用されていた。戦前の後ヌ井の正確な場所は不明だが、国道58号線の中央分離帯あたりだったという。
  • 西井 (イリガー、西ヌ御神井) - 正確な地点は不明だが、かつての軽便鉄道の線路近く、現在の国道58号線にあったとされる井戸で神井 (カミガー)、西ヌ井 (イリヌカー) とも呼ばれていた。大正時代迄は飲料水として使われていたが、昭和年代にはいると、各屋敷に井戸ができはじめ飲料水 としては使用しなくなった。行事のときにはこの井戸から水を汲んで、浜川)集落の元屋 (ムートゥヤー) の屋号蔵根 (クラニー) や中元 (ナカムートゥ) の屋号小那覇小 (ウナファグワー) に供えていた。また、サングワチャーには集落の人たちが集まり、四角い石を目印にし て拝んでいた。合祀所には西ヌ御神井 (イリヌウカミガー) と記されている。
  • 蔵根ヌ後ヌ井 (クラニーヌクシヌカー、西後ヌ御神井) - 屋号蔵根 (クラニー) の北側にあった井戸で、既に戦前から水は涸れ土で埋まっていた。井戸縁の石積みだけは残り、線香を供えて拝所として拝まれていた。合祀されて、西後ヌ御神井 (イリクシヌウカミガー) 記されている。


アーマンチュガマ (10/6 訪問)

浜川御願の北西側、戦前までの海岸線に洞窟があり、当時は洞窟の中に人骨が散在していたという。アーマンチュー (天人 阿摩美津) は 「天の人」 を意味し、沖縄開闢の神のアマミキヨ (阿摩美久) の語源と言われ、このガマにはアマミキヨの降臨伝説が残っている。この降臨伝説がどの様なものなのかは書かれていないのだが、南城市旧玉城村百名には浜川御嶽があり、アマミキヨが地上に降りて住み始めた洞窟があったとされている。(ちなみに、アマンチュー伝説は沖縄各地に残っている。) 同じ「浜川」という事でこの北谷町の浜川でも伝説が作られたのだろうか? 戦前から浜川、砂辺、平安山、桑江などの集落の人々が、旧暦2月のニングヮチャーや旧暦3月のカミウシーミーの際にそれぞれの一門で拝んでいた。浜川集落では清明 (シーミー) のとき、餅や豆腐、てんぷらなどを詰めたウサンミ (重箱) を供えて拝んでいた。戦後はガマ入り口はブロックで遮蔽されて、香炉 (ウコール) を設置して拝んでいる。

このアマンチューガマは浜川小学校の東にあるそうなのだが、見つからず。白黒写真は昔のものと、ここを訪れた人がアップしていた写真を借用した。再度探す予定。

10月6日に砂辺集落に向かう途中に、このアーマンチュガマを再度探す。近所の人に聞くも知らないとの答えで、範囲を広げて探すも見つからない。道から見える場所ではない様なので、参道らしき入り口を探すと一ヶ所マンションの間にマンション裏への細い道があった。そこを入るとマンション裏が空間になっており、コンクリート ブロックの前に香炉が置かれていた。資料写真と比較すると表面は殆どが草で覆われて入るが、同一だった。やっと見つけた。旧暦2月のニングヮチャーと旧暦3月のカミウシーミーの際に拝まれているので、その時期は綺麗に草がかられるので、その時期にくれば全景がわかるのだが、それ以外は手入れはしないのでこの様な状態になる。


浜川千原岩山遺跡

アーマンチューの東側の浜川外人住宅地域に、直径約25m、高さ30mの円錐形状の石灰岩塊が飛び出した所がある。ここはオータチャーヌシーと呼ばれ、岩塊の中腹部には浜川集落の古墓があるそうだ。浜川集落の墓は多くがこの場所に造られていたそうで、その他には、現在の嘉手納飛行場内にあったシリーヌサクにも5~6基ぐらいあったという。オータチャーヌシーの周辺部で宇佐浜式土器に類似した小破片が採集されている。グスク時代の遺跡と考えられ浜川千原岩山遺と命名されている。この遺跡の詳細については不明のまま。



字浜川 平安山ヌ上屋取 (ハンジャヌウィーヤードゥイ)

戦前迄は、字浜川と字平安山の北側の坂の上の高台の平安山ヌ上原 (ハンジャヌウィーバル)、現在の嘉手納飛行場敷地内、第一ゲートを入った南側一帯には、字浜川に属していた平安山ヌ上屋取 (ハンジャヌウィーヤードゥイ) が存在していた。

ここに移住が始まったのは1740年頃、那覇からの勢理客 (ジッチャク) 家と伝わっている。その後、1765年に首里から新城 (アラグシク) 家、1823年に禰覇 (ニーファ) 家が移住してきている。その後、これらの移住者の次男、三男が赤道原やクンディ原に家を構えて集落が拡張していった。名称の平安山ヌ上と平安山は紛らわしく、平安山ヌ上の名称が長いので、学校行事では略して平上 (ヘイジョー) とも呼ばれ、これが住民間でも一般的な呼称となっていた。

戦前には1902年 (明治35年) に字北谷から北谷尋常高等小学校が移ってきた。

また、1911年 (明治44年) に北谷村役場が字北谷から移っている。

1922年 (大正11年) 軽便鉄道嘉手納線の無人の平安山駅が開通している。現在の嘉手納基地第一ゲートの南側あたりの国道58号線と重なる場所が戦前迄は県営鉄道嘉手納線の平安山停車場で平安山ヌ上駅小 (ハンジャヌウィーエキグワー) とも呼ばれた。砂辺ヌ前屋取 (シナビヌメーヤールイ) と北谷尋常小学校をつなぐ道とテツドーとが交差するあたりにあった。軽便鉄道は国道58線の西側、かつての海岸線を走っていたが、浜川御願を越えたところ辺りから現在の国道58号線に重なっていた。浜川集落でこの軽便鉄道を普段に使っていたのは那覇に通学する中学生や農林学校の学生くらいで、まれに、出征兵士を送るために、親戚一同で那覇まで汽車に乗っていくことがあったという。


平安山ヌ上屋取集落には、その他、平安山駐在所、公益質屋、大山分院、北谷農事訓練所、嘉手納監視哨などの公公共施設の整備され、平安山ヌ上原は北谷村の中心地となっていった。(屋取集落が行政区の中心になるのは珍しい) 戦前の平安山ヌ上屋取は61軒の集落で本村の浜川の三倍の規模だった。1945年 (昭和20年) の人口は61世帯、418人だった。


平安山ヌ上屋取は水の便が悪く、当初は1km先の浜川の共同井戸へ桶で坂道の往復で水汲みに行っていた。その後、1910年 (明治43年) に初めて住民が共同で屋取井 (ヤードゥイガー) が掘られ、その後は、ほとんどの家にクムイ (溜池) が作られている。2月のニングワチャーでは屋取井を拝んでいる。
集落の主産業は農業で砂糖屋 (サーターヤー) が三ヶ所 (後組ヌサーターヤー、砂糖屋根ヌ サーターヤー、 ミーヤーヌサータヤー) 置かれていた。
集落の中道 (ナカミチ) を境に北を後組 (クシグミ)、 南を前組 (メーグミ) に分け、前組には二つ、後組には一つの砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。


平安山ヌ上屋取集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャー (クシユクワーシー、旧暦2月2~4日): 昔はサーターヤーグミで3組に分かれて行なっていたが、その後、青年組と老年組の2組に分かれて行なうようになった。豚を1頭潰してその2組で分けていた。2日間は男性のみで行なっ たが、3日目には男性がジューシーメーなどのごちそうを作り、女性を招待した。この日にサンミンワカシーもあった。
  • 盆 (旧暦7月13~16日): 盆は3日間で13日がウンケー、14日がナカビ、15日がウークイといい、村では夜通しエイサーをしていた。エイサー練習は盆の一週間前から後組 (クシグミ) の砂糖屋 (サー ターヤー) で行われていた。戦後は1回だけエイサーが行なわれたが、現在では途絶えている。
  • ヤードゥイジュリー (ヤードゥイジンミ、旧暦8月11日): 集落内の1か年の規約を協議した。沖縄の各集落ではその集落独特の規則を決めていた。


平安山ヌ上屋取集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: なし
  • 井泉: なし


沖縄戦では、平安山ヌ上屋取は十・十空襲の 被害はなかったが、米軍上陸時には2~3軒の家が焼かれた。戦後、集落域は米軍に接収され、兵舎建設で嘉手納基地のゲート1から入った辺りにあった集落の家のほとんどが壊された。住民は元の集落への帰還がかなわず、他集落での暮らしを余儀なくされている。旧住民は郷友会を組織して、コミュニティの維持、文化の保存継承を行なっている。元の土地の返還予定は、普天間飛行場基地が辺野古等に完全移転するまではなく、現在では明確な期日はわからない。

沖縄戦では、日本軍は米軍がいずれ沖縄本島に上陸してくるとして四地点を上陸想定地として防備を進めていた。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍が日本軍の5倍以上にあたる54万の総兵力で上陸を敢行したが、その場所は日本軍が想定していた場所では無い北谷、嘉手納、読谷の海岸だった。日本軍が米軍想定上陸地の設定は誤りだったとされている。沖縄の海岸は珊瑚礁があり、海岸沿いから沖に珊瑚礁が長く伸びている地域は大型船は海岸に近づくのは不可能なのだが、想定した地域はまさにそれにあたっていた。米軍が上陸した地域は珊瑚礁が海岸付近に限定されていた。この点で、日本軍は上陸について熟考したとは考えにくい。その反面、米軍は翌地形を調べていたのだろう。この時期には、日本軍は戦略を持久戦に変更し、その目的として、損害が大きくなる対着上陸戦闘を捨てて主力部隊を首里周辺に配備し、上陸海岸付近には僅かな兵力しか配備していなかった。このことで、日本軍はほとんど反撃を加えることなく、米軍の「無血上陸」となり、米軍は簡単に日本軍の主力飛行場だった北・中両飛行場を占領することができた。日本軍は指令本部がある首里城から米軍上陸を悠々と見ていたという。米軍が南下していた際に決戦をする計画だった。

米軍は4つの師団が上陸し、その一つの陸軍第96師団が桑江、伊平、浜川海岸に上陸し、宜野湾、浦添を南下して首里二向かうことになる。

浜川、伊平では日本軍の抵抗がほとんどなかったことで、村の被害は最小だったが、占領された後はこの地域が米軍の沖縄進軍の拠点となり、村の家屋はことごとく破壊されて基地として使用されている。資料では、北谷町 (村) の当時の被害や戦没者数は見当たらなかった。

この地域には現在でも嘉手納飛行場基地が置かれている。浜川には第一ゲートがある。このゲートを入った南側が平安山ヌ前屋取集落だった場所になる。

この嘉手納飛行場基地では、現在報道で取り上げられている米軍関係者犯罪の非通知問題の犯人が所属していた基地。米軍犯罪は昨年では過去10年で最も多くなっており、公表された日本での米軍関係者犯罪の70%を占める沖縄住民の不安と怒りは増大している。実際の米軍関係者犯罪数は公表より多いと思われるが、米国と日本で取り交わされた地位協定で一次裁判権は米軍にあり、米軍から犯人の身柄が引き渡されるのは日本で起訴された後になる。起訴するための機会が日本には無いことになる。この他、この日米地位協定には数々の日本 (住民) にとり不利な条項が数々あり、この現代でもこの様な不平等条約が存在している。ドイツ、イタリアなど他国でも地位協定は存在するが、これほど国の主権が限定されてはいない。半年毎の見直しがあるが、改善された事は無い。日本政府の米国政府への忖度が主たる要因と考えられている。その事から、沖縄県民の日本政府への不信感は無くなる事が無いのも理解できる。

沖縄県民、特に基地周辺住民の米軍に対する感情は複雑だ。米軍基地により恩恵を享受している人も多い。恩恵を享受しているグループと享受していないグループでは立場が異なる。基地外に住んでいる米軍家族との交流もある。米軍も地域交流を促進しており、地域住民とのイベントなども開催している。(今日もキャンプ端慶覧でフリーマーケットのイベントが行われていた。写真下)このイベントに協力する地域組織もあり、またその協力を批判する団体もある。個人、組織によりそれぞれの立場、思いが異なっている。政治的には米国に対しての憤りは根強く、その改善を日本政府に期待するのだが、その政府が自分達をないがしろにしていると感じ、日本政府にも憤りを感じているケースも多い様だ。日本政府に物申せない県行政にも批判がある。この様な複雑な事情が現在の沖縄だ。ある人が話してくれた言葉を思い出した。「沖縄で人々が最も活気があって幸せだったのは戦後から本土復帰までだった。生活は苦しく、米軍統治下だったが、必死で頑張り助け合い本土復帰を夢見て、連帯感があった。」

本土復帰50年だが、まだまだ沖縄の戦後は終わっていない。


御願岩 (ウガンヌシー、平安山ウガン)

現在の普天間飛行場敷地内、かつての平安山の上屋取の南側、 グンクンニーの北東側に御願岩 (ウガンヌシー) の小山がある。この岩 (シー) は平安山御願 (ハンジャウガン) とも呼ばれ、琉球國由来記のオヤギヤクイ君が嶽 (神名イシノ御イベ) と考えられている。戦前までは、ここで白露の拝みが行われていた。戦後この地域は米軍嘉手納飛行場として接収されたため、浜川に合祀所を設けて拝まれている。


グシクンニー

嘉手納飛行場敷地内南側、御願岩 (ウガンヌシー) の南西に円錐カルスト状の丘陵がある。そこには岩山 (シー) があり、グシクンニーと呼ばれていた。この岩山には昭和の始めに設置された敵の飛行機や船を監視する日本軍21番嘉手納監視所が置かれていた。



字浜川 喜友名小屋取 (チュンナーグゥーヤードゥイ)

戦前には字浜川にはもう一つ屋取 (ヤードゥイ) があった。 喜友名小屋取 (チュンナーグゥーヤードゥイ) で平安山ヌ上屋取集落の北側、字浜川の北の端、普天間町との境、ケンドー沿い一帯に48軒が存在していた。集落は前組 (メーグミ) と後組 (クシグミ) に組分けされ、更に後組は東組 (アガリグミ) と西組 (イリグミ) に分けられていた。

集落の主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。砂糖屋 (サーターヤー) は六ヶ所あり、共同のものが二つ、個人所有が四つだった。製造された砂糖は、那覇の通堂まで馬車で運んでいた。


喜友名小屋取集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャー (旧暦2月2~3日): 男性に限定して40歳以下のニーセーター、40歳以上のタンメーに分け、二ヶ所で各家庭から豆腐、肉、ジューシーメーなどを持ち寄り宴会を催していた。現在でも郷友会を中心続けられている。
  • 盆 (旧暦7月): 盆ではエイサーが披露されていた。


喜友名小屋取集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: ゆしみぬ神
  • 井泉: トーヌカー (カーヌトー)


戦後、喜友名小屋取集落域は米軍に接収され、未だに返還されておらず、旧集落住民は他集落へ分散して暮らしている。普天間飛行場が辺野古に移るまでは現状が続くことになる。



喜友名小屋取合祀所

集落全体が現在も基地の中にあり、旧集落のは所などを見ることはできない。浜川の孔子廟の隣に喜友名小屋取拝所が設置して拝んでいる。戦前、現在は嘉手納飛行場として接収されている旧集落内の4ヶ所にユシミヌカドゥ (四隅ヌ角) という拝所があった。(正確な場所は不明) 合祀所には、「ゆしみぬ神」 として祀られている。 ここには前組の拝所だったビジュルと後組 (西組、東組) の拝所のビジュルも合祀されており、 「ゆがふの神」 として旧暦2月のニングワチャーで拝まれている。合祀所にはもう一つ 「うぶ井戸」 と記された石碑、香炉が置かれている。旧集落内にあった産井 (ウブガー) として共同井戸になっていたトーヌカー (カーヌトー) を祀っており、旧暦2月3日のニングワチャーと旧暦12月24日のウガンブトゥチ (御願解) で拝まれていた。


ウカマジー

嘉手納飛行場内、旧喜友名小屋取集落の南側にあった岩山で、第1ゲートを入った北側のゴルフ場の中にある。岩山はウカマジーと呼ばれ、その南側には、洞窟があり、昭和初期までは人骨が散乱していたという。この洞窟は幅3.6m、奥行き18m程で、戦前に日本軍によって作られた砲台の跡が残されている。沖縄戦が始まる前、北谷町は、米軍の上陸地点と考えられ、日本軍が町のいたる所に陣地を構築していた。1944年 (昭和19年) 8月以降、第62師団 (石部隊) 独立歩兵第15大隊が駐屯していた。翌年には軍事車両の通行の為に北谷トンネルが破壊されている。海岸沿いには丸太を組んだ戦車止めや戦車穴が掘られ、米軍の上陸に備えていた。ウカマジーの丘には1945年 (昭和20年) 1月頃に海軍第11砲台が設置されている。丘の頂上部には、砲の観測所も置かれていた。(基地内には入れないので、資料に掲載されていた写真を下に借用している。)

海軍砲台には、喜友名小屋取から14名の女子青年が3月24日・25日頃に海軍女子挺身隊として徴用され、上勢頭、下勢頭からも女子青年団57名が、砲弾運びに動員された。海軍砲台から海の米軍艦隊に砲弾発射した事で、米軍の標的となり、艦砲射撃で多くの兵士が犠牲になっている。女子挺身隊の女子青年団はウカマジーの壕などに避難していたが逃避行途中で銃撃された者もいた。軍からは手指弾を二個支給されていた。一つは敵の殺傷用、もう一つが自決用だった。この手指弾で自決した者も含め、17名が戦死している。1950年 (昭和25年) に旧桃原3区公民館跡に自決した上勢頭、下勢頭の女子挺身隊の少女達を弔い、「護国挺身隊の碑 (写真下) 」 として納骨堂を建てられた。その後、遺骨は1979年に国立沖縄戦没者墓苑に遷骨された。護国挺身隊の碑は2011年に取壊されている。

沖縄戦で米軍に占領され、野戦病院として使われ、戦後、米軍により野戦病院跡の碑が建てられている。



これで伊平、浜川と二つの集落を巡り終えた。今日は朝7時と早く出発したので、まだ見学を続ける時間は残っているのだが、とにかく暑く、炎天下の中では熱中症が心配。少し史跡を見ては、ショッピングモールやコンビニで休憩を取り、体を冷やす様に努めた。帰りは自転車で2時間の距離があり、体力も落ちているので、やはり熱中症が心配だった。2時過ぎには帰路についた。朝から炎天下での行動だったので、疲れもあり、帰り道は少し辛かった。途中足もつり始め、5km毎にコンビニで休憩を取りながら5時の帰宅となった。期待していたファンつき上着はそれほど役にたたなかった。自転車で走ると風があり、日陰だとファンつき上着より、涼しく感じた。風が無い所ではファンつき上着は役にたった。最も効果的だったのは、保冷剤を帽子に入れた事。帽子をかぶっていると蒸れるのだが、保冷剤で頭から顔にかけてひんやりとする。もう一つの心配事だった膝の痛みは、やはり少し負荷がかかったのか、夜から翌日には少し痛みがあるが、以前程ではない。次回訪問まで少し時間を置いて様子見とする。




参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
  • 平安山ヌ上誌 (2010 平安山ヌ上郷友会)