存在の意味
一指李承憲@ILCHIjp
人生に意味はありません。ここでの「ない」とは、「ある」「ない」という状態を表す「ない」ではなく「絶対的な無」の世界です。本当の無に気づけば、本当の宇宙の生命力を受け入れることができます。自分が完全に消えた時に、始まりも終わりもなく独りで存在する宇宙の大生命力が私たちに迫ってきます
一指李承憲@ILCHIjp
明確な人生の目標がある人にとって「1日」という時間には大きな意味があります。時間は無限ではありません。人生の目標と計画があるとき、時間をうまく使えるようになり、毎日の目標を達成するという体験ができるようになります。私たちに与えられた今日という1日。この1日が何より大切な時間です
マノマノ稲穂@manomano_farm
「意味があっていい、でも意味がなくてもいい」という受け止め方ができると人生の自由度は広がります。社会で生きる中で意味のあるものばかりに囲まれていると、意味のないものの存在が無駄だと考えがちです。人生を寄り道してもいいし、道草してもいい。無意味なことは意味あることに変わるのです。
TAO 自分さがしの旅@ilchi_tao
肉体だけを中心にした人生には意味がない。肉体は皆さほど違いがなく、結局は死を迎え土に還る。肉体だけに人生の基準を置くほど虚しいことはない。肉体は死を待つしかないからだ。存在の意味を肉体にだけ探す人は人生の真の価値を見出しにくい。肉体の向こうにある何かを見つけられるタオの目を開こう
Facebook杉山和彦さん投稿記事
ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある (2)苦悩を生き抜く
2024年5月19日(日)午前5時から地上波Eテレで放送
絶望の淵に立たされたとき、生きる意味をどう見いだせばよいのか?
ナチス・ドイツの強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルの人生と思想から探る。
ヴィクトール・フランクルは戦時中、故郷ウィーンからアウシュヴィッツを含む4つの収容所に送られ2年半を過ごす。
第2回ではフランクルが『夜と霧』に記した強制収容所体験をたどる。
家族と引き離され、人間の尊厳も奪われ、極限状況に追い込まれる中、フランクルは自らが20代で打ち立てた「ロゴセラピー(生きる意味を軸とした心理療法)」の理論を身をもって試すことになる。
彼は苦難の日々をどう生き抜いたのか。
本の説明
わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。
では、この人間とはなにものか。
人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。
しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、
日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。
原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した。
世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。20世紀を代表する作品を、ここに新たにお送りする
Facebook相田 公弘さん投稿記事
松本零士氏のSFアニメである『銀河鉄道999』は、主人公の星野鉄郎が永遠の命を得るために、「機械の体をくれる星」を目指して旅をする物語である。
ところが、ついに「機械の体をくれる星」にたどりついた鉄郎は、永遠の命を手にした人々の堕落ぶりに驚愕する。
何しろ永遠の命を約束されているのである。今日やらなければならないことなど何一つない。
生きる意味を見出せない人々は怠け呆け、酒におぼれ、永遠の命を捨てて自殺する人までいる始末だった。その様子を見て、鉄郎は「限りある命の価値」を知るのである。
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雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方稲垣栄洋 著亜紀書房より
http://dokusume.com/modules/store/index.php...
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「限りある命の価値」
限りが有るということは、儚く悲しい事かもしれないけれど、限りが有るからこそ、美しく輝くものでもありますね♪
有限には、無限の可能性が秘められている!
桜もアジサイも、ひまわりも紅葉も、日本人が愛してきた四季も、移りゆくものを受け入れ、情緒的なとらえ方をしてきたからこそ、変化を楽しんでいられるのでしょう♪
この限りある人生、どう使い、どう生きるかは、自分で選択できます。
自分は一体何に時間とお金を使うのか?で、人生が決まるといわれています。
本を読んだり、自分を磨くことに、時間やお金を使う人でありたいですね♪
命も時間も有限ということを知れば知るほど、学びたくなるのは僕だけでしょうか(😊)b
最後に、道元禅師の問答をご紹介して終わります。
あるとき、弟子の一人が道元禅師に質問しました。
「仏教では、みな平等だと教えます。なのに何故、成功する人と成功しない人がいるのですか?」道元禅師は答えます。「成功する人は努力する。成功しない人は努力しない」
なるほど確かにそうだと思い、一度帰った弟子ですが、また一つ疑問が生まれます。
「人間にはどうして努力する人と、しない人がいるのですか?」
それに対し、「努力する人には志があるし、努力しない人には志がない」
フムフム確かに、しかしまた問いが生まれます。「どうして志のある人と、志のない人が出てくるのでしょうか?」すると道元禅師はこう締めくくります。
「志のある人は、人間は必ず死ぬということを自覚している。死を自覚して今を生きていこうとする。志のない人は、死の自覚がない。故に軽薄で、いい加減な生き方をしてしまう」
今日の話が、皆様のお役に立てれば幸いですm(_ _)m ※魂が震える話より
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2022/03/6963c2a92fc010db67e3f85548a6ce49.pdf 【巻頭言正念場と絶体絶命と希ひらかれ望】より
KAMATA Toji
1951年徳島県生まれ。國學院大學大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。博士(文学)。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻博士課程単位取得退学。京都大学こころの未来研究センター教授等を経て現職。著書に『身体の宇宙誌』(講談社学術文庫)、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)、『霊性の文学 言霊の力』『霊性の文学 霊的人間』(いずれも角川ソフィア文庫)、『世直しの思想』(春秋社)、『世阿弥』『言霊の思想』(いずれも青土社)、『ケアの時代 ―「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)、詩集『狂天慟地』(土曜美術社)などがある。
いつも「正念場」だと思って生きてきたが、自分も国内外も最近ますます「正念場」を迎えている。「正念場」は「性根場」と書くこともある。歌舞伎の舞台でその人の本来の姿や神髄が十全に発揮される場面を指し、肝心かなめの急所を表わす。
私は20歳前後からずっと「逆境に強い生き方」とは何であるかに関心を抱きつづけてきた。人生には必ず「逆境」と言えるような危機的な状況がめぐってくる。
しかし、いかなる「逆境」に出会っても、それを切り抜けていくことのできる力や方策や出来事は生まれてくる。それを人は「奇蹟」というかもしれないが、それは奇蹟ではない。現実だ。
そんな奇蹟のような現実を『古事記』は天の岩戸開きの物語として、また八やまたのおろち
岐大蛇退治の物語として表現し、前者においては「祭り」、後者にあっては「詠歌(歌を詠うこと)」を解決策や事後始末として描いている。
これは『古事記』の生存哲学であり、逆境突破の「ひらかれ」のかたりである。最大の危機を脱した生存哲学と生存事例の提示である。祭りをすること、それは死と再生の希求劇だ。そこでアマテラスは一度死に甦る。その甦り策を、中臣藤原氏の祖先のアメノコヤネが祝詞奏上し、忌部氏の祖先のアメノフトダマがみてぐら(幣帛)を捧げ、猿女氏の祖先のアメノウズメが神かみ懸がかりして踊りをおどることで成就した。それが大成功を修め、その後日本ではさまざまな危機の時に祭りを行うことで各種の危機を切り抜けようとしてきた。
しかし今、コロナ危機では「3密回避」を社会的に要請され、伝統的な生存危機の脱出法に制限がかかっている。少人数で神事を行うことは可能だ。だが大勢が集まって神輿を担いだり、歌をうたったり、踊りをおどったりすることはできない。密教で言う究極の即身成仏法であり、仏と一体化する「三密加持」とは真逆の概念とディスタンスの取り方が「3密回避」である。
この「3密回避」やソーシャルディスタンスが要請されるさ中、私がこの「正念場」で見つめ直そうとした脚下照顧は、足元に広がる比叡山を歩ほぎょう行することと一人でできる行為である。
これについて2つのことをやってきた。1つは東山修験道と称した比叡山登拝と山頂のつつじヶ丘で天地人三才に捧げるバク天3回を続けること(2022年2月1日現在762回)、もう1つはその様子を動画に収めてYouTubeに配信することだ。
ソーシャルディスタンスの根底に、豊かなネットワークを包含するエコロジカルディスタンスがあり、その上に伸縮自在なメンタルディスタンスやスピリチュアルディスタンスを生み出すことができる。その究極が「三密加持」なのである。
簡単には大きな危機を脱出する万能解決策は見出せない。けれども、等身大のセルフケアの場からもう一度エコロジカルディスタンスとソーシャルディスタンスを組み直し再構築していくことは可能だ。その自分なりの「正念場」を『絶体絶命』と題する神道ソング集のサードアルバム作りに込めている。この「神道ソング」は「八岐大蛇退治」をしてスサノヲが歌ったワザの継承と展開である。『絶体絶命』を歌いながら「岩戸」を開きたい。その一念でこの「正念場」を生きている。
(京都大学名誉教授、上智大学大学院実践宗教学研究科特任教授・同グリーフケア研究所所員)