神を祀る文化
https://news.yahoo.co.jp/articles/d1702251eace0978d98f3c57ad48a6f790a931f3 【【古代史ミステリー】神の依り代としての「鏡」の役割 古代人が鏡に託した祈りとは?】より
今回は自分をありのままに映す「鏡」について考えてみましょう。古代の人々は鏡にどんな想いをもっていたのでしょう? またどのように使ったのでしょうか?
■鏡のはじまりと古代の人々にとっての役割
鏡の発祥は水鏡だと考えられます。水面に映った自分の顔に気づいた時、人類は自分の姿を認知したのです。やがてさまざまな光学的な反射物を利用して鏡は作られ発展します。
火山由来の黒曜石は天然の黒いガラスです。割ると薄く鋭い破片になるので、古代人はナイフとして使いました。薄く割るとうっすら向こうが透けて見えるのですが、黒い塊の表面を平らに磨くと、光を反射してぼんやりとした鏡にも使えます。
人工的に生産され始めたのは銅と錫(すず)などの合金、青銅鏡からでしょう。古代中国で生産された青銅製の鏡は鏡面を丁寧に磨き、背面にはさまざまな文様や文字を鋳造します。年号が記されたものを紀年鏡(きねんきょう)といって、墳墓から出土するとその築造年代や被葬者の生きた時代、さらには交易の様子を推察させる物証となります。
日本の神社のご神体が鏡であることが多いのは、日本列島では鏡が神聖視されて来たことの証拠です。
太陽や月を信仰し、その光を反射する鏡は神の依り代として扱われたのは自然な成り行きでしょう。
『魏志倭人伝』の魏帝の詔に「卑弥呼の好物である銅鏡を選りすぐって100枚贈ろう」という意味のことばがあります。卑弥呼といえば邪馬台国、邪馬台国の時代といえば弥生時代末期ですから、弥生時代にはすでに鏡が神聖視されていたこと、重要な神事に必要なのに国内ではたやすく製造できない貴重品であったことがわかります。
それまでは銅鐸(どうたく)や銅矛を神の依り代としたり権力の象徴としたりしていたようですが、突然のように銅鏡がその立場にとって代わり、やがて鏡は墓に埋納されるようになります。
鏡の神聖視は古墳時代に受け継がれ、古墳からは三角縁鏡や画文帯鏡などさまざまな銅鏡が出土します。
奈良県の黒塚古墳や桜井茶臼山古墳などからは大量の銅鏡が出土しました。しかしながら神の依り代であり権威を示すものであるなら、なぜ多量の鏡が埋納されていたのでしょう? 被葬者の権威を鏡の枚数が示すのでしょうか? どうもすっきりしません。
ここからは私の妄想の世界に突入しますのでご容赦ください。弥生時代にもたらされた銅鏡は太陽の光を反射して、神官の持つ銅鏡が発するその光がすべてを清める神の依り代だったのではないでしょうか。集落レベルだった無数の邑国(ゆうこく)にもその儀式を務める神官や巫女がいたでしょうから、重要な神の依り代が宗主国から配られて、同じ神を祀る同盟の証とされたのでしょう。
やがて銅鏡の国内生産が始まると、王や神官だけではなく重臣たちも持つようになったのではなかったでしょうか。そして、自分が属する組織の重要人物が亡くなって埋葬される時、もしくは殯(もがり)の時に、太陽や月の光をそれぞれが持ち寄った自前の銅鏡で反射して、腐敗していく亡骸を清めたのではなかったでしょうか!
そしていよいよ埋葬の時、参集した重臣たちはそれぞれの鏡を手にして亡骸に光を集めて送り、その鏡をそのまま副葬したのではなかったでしょうか?
そうだとすれば、卑弥呼の時代に神の依り代として神聖視された舶載銅鏡は、やがて国産化されて量産されるとともに葬儀の神具と化したのではなかったでしょうか?
一方、弥生時代から続く鏡に対する神聖観は神社の発祥に伴い本殿の依り代として維持されますが、武具や馬具が重用品となるに従い副葬品目が変わり、さらに後、葬儀が仏教化されるにしたがって鏡の埋納習慣が完全に無くなった、と私は推理しています。
しかしながらこの妄想の最大の弱点は、銅鏡を持った人物埴輪が発見されていないことです。太鼓や笛などの形象埴輪や力士、巫女などの人物埴輪は出土しますが、鏡の埴輪は出土していないようです。ただし現物の銅鏡が古墳からは発掘されるのです。
とはいえ、光を反射すると文字や図柄が現れる魔鏡というものもあるので、反射光に何らかの霊力を感じて神事に使ったのは間違いないと思っています。
現代の住宅でも玄関に鏡を壁にかけることが多いと思います。それは出かけるときに身だしなみを最終チェックするという重要な役割を担うものですが、いまだに玄関に鏡を設置するのは魔除けであるという考え方もあるそうです。
三種の神器にも鏡が存在し、白雪姫にも不思議な鏡が登場します。『不思議の国のアリス』の続編『鏡の国のアリス』では主人公が鏡面世界に迷い込みます。地獄の入り口閻魔の庁にある浄玻璃(じょうはり)の鏡は亡者の一生をダイジェストで見せ、夜中の合わせ鏡から悪魔が出現するという話など、洋の東西を問わず鏡には不思議な力があると、人は思い続けているのかもしれません。
神聖な日の光を反射して自在に当てることができる鏡に、今も私たちは何らかの魔力を感じているのではないでしょうか。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/150631 【古代の人々が「鏡」に感じた特別な意味
副葬品や三種の神器から知る神秘性】より
研究開発推進機構教授(國學院大學博物館副館長) 内川 隆志 2020年1月20日更新
古くから続いてきた、神を祀る文化。日本人がいかにして神祭りを行い、大切にしてきたのだろうか。古代にさかのぼり、「祭祀」の発祥に迫る本連載。
2回目の今回は、祭祀でも特別に大切にされてきた「鏡」の存在に焦点を当てる。
副葬品や捧げ物として古代の鏡が多数出土
神を祀るために、弥生時代以来さまざまな品々が捧げられてきた。「鏡」はそのひとつである。古代の祭祀を考える上で手がかりとなる『日本書紀』の「天石窟(あめのいわや)(『古事記』では「天石屋戸〈あめのいわやと〉)」の神話を読むと、鏡の記述が目に留まる。鏡をサカキ(常緑樹)に下げて捧げ、天照大神のお出ましを願うシーンがあるのだ。「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるその鏡は、のちに天上から地上世界へともたらされたという。優れた鏡は神に捧げられ、その象徴ともなったのである。一方で、鏡は神祭りのみならず、人の葬祭にも用いられた。
「古代の人々にとって、鏡は単に姿を写す実用品としてだけでなく、墓への副葬品や祭祀の道具としても使われました。多くの遺跡からも、そのような使い方をしていた形跡が見て取れます」
こう話すのは、國學院大學 研究開発推進機構の内川隆志教授(國學院大學博物館 副館長)。実際、古墳時代に作られた古墳の中には、鏡が副葬品として使われていた事実を伝える遺跡が多数ある。
「たとえば、4世紀前半に作られたとされる奈良県の黒塚古墳(天理市)。ここからは、三角縁神獣鏡が33面、そして画文帯神獣鏡が1面、出土しました。三角縁神獣鏡は、鏡面をすべて埋葬者に向けて並べられ、埋葬者の頭部付近には画文帯神獣鏡が置かれていました」
また、3世紀後半〜4世紀前半の古墳と推定される奈良県のホケノ山古墳(桜井市)からも、画文帯神獣鏡が出土している。一方で、古代祭祀の形跡が数多く残り、世界遺産にもなっている福岡県の沖ノ島では、当時の祭祀遺跡から数多くの鏡が見つかった。死者への副葬品、そして神への捧げ物として、鏡は大きな役割を果たしていたことが分かる。
黒塚古墳ー展示館を併設。実際に埋められた鏡の様子を再現したレプリカがある。
ホケノ山古墳ー画文帯神獣鏡のほか、大きさの異なる壺や太刀、刀剣が出土した。
「三種の神器」でもある鏡 人々が感じた特殊な力とは
それにしても、なぜ古代の人々は鏡をそうした役割に用いたのだろうか。
「弥生時代前期末に中国大陸から伝わった鏡は、当時の日本人が目にしたことのないものでした。光を反射し、姿を映す鏡に神秘的な力を感じたのでしょう。そして、その力は邪悪なものを退けると考えられ、重宝されたのではないでしょうか。だからこそ、副葬品や捧げ物として使われたと考えられます」
弥生時代前期に日本へ伝わった鏡は、後期になると、北九州を中心に日本国内でも作られるようになる。副葬品として、また4世紀頃からは祭祀でも用いられていたことが出土事例から確認できる。
時代が進む中で「当時の祭祀遺跡からは、本物の鏡だけでなく、鏡を模した石製や土製の模造品も出現しました」と内川氏。また、古墳から出土した埴輪の中には巫女の姿を表した「巫女埴輪」があるが、腰には呪具として鏡を付けているものも見られ、祭祀と鏡との密接な関わりを想起させる。
今年5月に行われた天皇陛下の剣璽等承継の儀では、皇位と関係する「三種の神器」が話題となった。剣・璽とともに鏡があり、長い日本の歴史の中で、鏡が果たしてきた役割の大きさの一端が伺えるのではないだろうか。
最後に、古代に建物を建てるのに先立ち、土地の神を鎮めて邪鬼を払いのける目的で、鏡が鎮物(しずめもの)や鎮壇具として土中に埋納された。現代でも、地鎮祭の鎮物の一つとして鏡の模造品を埋めることは多い。古代の人々が鏡に感じた思いは、こうした習俗の中で今も垣間見ることができる。
<編集協力:國學院大學 研究開発推進機構 助教 吉永博彰>
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/138733 【千数百年続く「まつり」はどう生まれたのか】より
大嘗祭 天皇みずから平安を願う意味
「祭祀(まつり)」のルーツを追う旅へ episode.1
貞享三年大嘗会悠紀主基両殿図
貞享四年の大嘗会悠紀主基両殿図を描いた図(國學院大學所蔵)の一部分。江戸時代の大嘗祭の様子が描かれている。
古くから続いてきた、神を祀る文化。
日本人はなぜ神祭りを大切にし、どう行ってきたのだろうか。
古代にさかのぼり、「祭祀(まつり)」の発祥に迫る本連載。
初回は、「祭祀」そのものの意味を考える。
人はなぜ神を祀るのか―ヒントとなるのは、あの神話
四季折々、日本各地で行われる「祭祀」。長きにわたり継承されたものも多く、現在でも地域の人々が支える行事であり、お互いの絆を深める場となっている。
このような祭祀は、いかに日本列島で生まれ、伝統文化となったのだろうか。そもそも、「神祭り」とは一体何か。古代に目を向けて、その発祥を見てみよう。
祭祀の意味や成り立ちを知る上で、参考となるものがある。『日本書紀』に伝わる「天石窟(あめのいわや)」の神話だ(『古事記』では「天石屋戸(あめのいわやと)神話」)。
「神話では、〈太陽の女神〉である天照大御神が天石窟に籠もり、世界が暗闇に閉ざされることに。そこで天石窟からのお出ましを願い、貴重な鏡と勾玉をサカキ(常緑樹)に下げ、天石窟の前に捧げました。この話は、神祭りの起源や原型を表しているのです」
こう語るのは、古代の遺跡をもとに歴史を研究する國學院大學 神道文化学部の笹生衛教授(國學院大學博物館長)。「この神話で注目すべきは、太陽という自然の働きに神を感じ、祭っていること。これが日本の神祭りの一つの原型となります」と話す。
神話の中では、祭祀に先立つ準備として機織りや鍛冶の記述がある。「機織りや金属加工技術は古墳時代(5世紀)に日本列島にもたらされた、当時の最新技術でした。5世紀の祭祀ではそうした最上の品々を捧げていた痕跡が発見されています」という。
祭祀の中でもきわめて重要と言えるのが「大嘗祭」である。古代以来、天皇は毎年11月、その年の収穫を感謝し、神に新穀等の神饌を捧げる〈新嘗祭〉を行う。この神祭りを古くは〈大嘗祭〉といい、平安時代以降は〈新嘗祭〉の名称が定着していった。一方で、原則として新たに天皇が即位して最初に行う形での大規模なこの祭祀を、〈践祚大嘗祭〉と呼んだ。以降はこれを大嘗祭と呼ぶことにする。
約千三百年前の神祭の遺構-古代における「大嘗祭」とは 古代の大嘗祭とはどのような祭祀だったのだろうか。
「大嘗祭の特徴は〈大嘗宮〉という特別な祭祀の施設を設けること。古代の大嘗宮は、祭の7日前に着工し5日間で仕上げることになっています。そして、祭が終わるとすぐに解体されました」
平城宮の遺構をもとに、笹生氏が描いた大嘗宮のイラスト。資料や文献から建物の遺構を割り出している。
なぜ、大嘗宮を特別に造る必要があったのか。笹生氏は「祭は心身を清める〈潔斎〉が重要で、祭祀の場や使われる道具が清浄であることが求められたからです」と解説する。こうして特別に設けた神殿において、米や粟の御飯に始まり、鯛やアワビ等の海産物、御酒などの神饌を、天皇手ずから取り分けて神へとお供えされたのである。
ところで、古代の大嘗祭の舞台が確認された遺跡がある。奈良県の平城宮跡だ。「発掘されたうちの一つは、758年斎行の、淳仁天皇の大嘗宮遺構です。さらにそれ以前、8世紀前半の元正天皇・聖武天皇の大嘗宮遺構も見つかっています」と笹生氏。当時も大嘗祭はきわめて盛大であり、それは「神への畏れと敬いから、清浄性を厳密に確保し、慎重に行う必要があったのです」という。何より、祭祀の中では天皇自ら、国内の平安を願う。そのため、大嘗祭は重要な祭祀として現代まで続いてきたのだ。
現在の平城宮跡(第二次大極殿と東区朝堂院)
今年は30年ぶりに大嘗祭が斎行される。これまでの話は古代を中心とするが、平安を願う大嘗祭の意義は、環境変動により自然災害が頻発している現代においてこそ一層重要な意味を持ってこよう。なお過去の大嘗祭(新嘗祭)・大嘗宮の様子は、國學院大學博物館に展示される様々な資料や模型などを通して知ることができる。
日本人が大切にしてきた祭。長い歴史を超え、今も続くその伝統文化の礎には、神を祀ってきた人々の真摯な思いや強い意志が感じられるのではないだろうか。
平安神宮は、当時の平安宮をモデルに作られている
<編集協力:國學院大學 研究開発推進機構 助教 吉永博彰>
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/123916?utm_source=op&utm_medium=popup&utm_campaign=SN 【なぜ刀は「神聖なもの」となったのか現代に続く名刀、本当の歴史】 より
神道文化学部 教授 笹生 衛 研究開発推進機構 助教 吉永博彰 2019年6月25日更新
古代から現代に至るまで、神に捧げられてきたものたち。それらの意味を見つめると、捧げられたものの歴史や日本の伝統文化の素顔を知ることができる。
第1回目となる今回は、「刀」を取り上げる。
韴霊大刀模造刀、東京・北澤八幡神社蔵
薄緑丸、箱根神社蔵
霊威を発した古代の「刀剣」 なぜ特別視されたのか
現代の人々にも愛される日本の刀剣。名を成した武将の愛刀として、あるいは伝説的な刀工が残した名刀として、今も愛好家は多い。
しかし、日本における刀剣の歴史をたどると、違った顔も見えてくる。日本列島に武器としての刀剣がもたらされたのは弥生時代。その弥生時代末期から古墳時代末期には、それは今以上に貴い存在であった。刀剣は神への捧げものとして、あるいは神そのものとして扱われたのである。
その代表が、奈良県の石上神宮に祀られる布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ。日本書紀では「韴霊」)である。刀剣そのものが信仰の対象となっている。
北澤八幡神社所蔵の大刀は、全長69.8cmの内反素環頭。「韴霊(ふつのみたま)大刀模造 明治四十五年二月日」という銘が裏に入っている。
幕末から明治、大正にかけて活躍した刀工、菅原(宮本)包則が八十三歳の時の作品。
明治7年、石上神宮の禁足地の中央からは、「内反素環頭大刀」という鉄製の刀が出土している(『まつり』大場磐雄、学生社、1967年参照)。その形状については「柄の先端に素環頭という輪があり、刀身は内側に反っています。これは、2世紀頃に中国で作られた刀の形状と一致します」。そう話すのは、古代祭祀の遺跡から歴史を分析する國學院大學 神道文化学部教授・國學院大學博物館館長の笹生衛氏。「当時は刀が霊威を持ったもの、神聖なものとして扱われていました」と続ける。
ではなぜ、人々はそこまで刀剣を特別視したのだろうか。
「大陸より伝わった刀剣の切れ味を目の当たりにした日本列島の人々。彼らにとって、あまりに脅威を感じたのでしょう。人間を殺傷する金属製の武器は、縄文時代、日本列島には存在せず、弥生時代に大陸・朝鮮半島から伝来しました。特に、人体を瞬時に切断できる鉄製の刀剣に、当時の人々は強い力、脅威を直観したと思われます。だからこそ、鉄の刀そのものに霊威を感じ、神への捧げもの、あるいは神聖な存在になったと言えます」。
石上神宮以外にも、三種の神器として知られる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙剣)を奉安する熱田神宮など、刀剣と神の関係は非常に近い。古代において刀は、実用的な武器であると同時に、神としての霊威を持ち、また神への捧げものでもあったのである。
〈つわもの〉と刀の物語 「刀」はなぜ、武士の「魂」か
列島に渡来した刀剣は、4世紀以降、武器として定着する。この頃から平安時代の9世紀頃にかけて、刀は反りのない「直刀」が一般的になった。
当時は歩兵戦がほとんどであり、このような形が好まれたと考えられる。私たちがよく知る「日本刀」のように、外側に刃が反る形は、「騎馬戦に適しているので、そのような戦いが主流となる10、11世紀以降に普及したのではないか」と笹生氏は推測。11世紀から12世紀頃にかけて、現在の「日本刀」の祖型(毛抜形太刀)が誕生した。
武士が活躍する時代になると、刀と武士の新たな関係も始まった。國學院大學 研究開発推進機構助教の吉永博彰氏は、「刀が普及し武器として一般化すると、英雄視された武士の伝説と併せて語られるようになります」と話す。その中で「新たに刀にまつわる伝説や伝承が生まれました」と続ける。
たとえば、源義経が奉納し、曽我兄弟の仇討ちで知られる箱根神社の「薄緑丸」、源頼光と四天王が丹波国大江山の鬼「酒呑童子」を切ったと伝えられる刀など、実在の武士とともに語られるケースが増えていった。
箱根神社が所蔵する薄緑丸。源家が受け継いだとされる。名を次々に変えており「蜘蛛切」「吼丸」とも言われた。「薄緑丸」は義経が命名。兄・頼朝との関係修復を祈願し奉納したと言われる。
「酒呑童子絵巻」の一部。酒呑童子を退治する物語が描かれる。実在の武将と刀を題材にした伝説の一例。(國學院大學所蔵)
ただし、そこにも「刀が神への捧げものだったルーツが見え隠れする」と吉永氏は言う。
「薄緑丸をはじめ、多くの武士が神社へ刀を奉納しました。そのような行動の背景には、古代から行われた神へ武器・武具を捧げる習わしがベースにあるのでしょう。現在、各地の神社に刀剣が多数所蔵されているのも、こうした歴史があってのことと考えます。また、日本刀は魔除けや〈妖刀〉のエピソードも多いですが、それもかつて刀に霊威を感じ、神格化していた伝統を受け継いだものかもしれません」
今も日本人の心をつかむ名刀たち。武士やかつての活躍の歴史とともに語られることも多いが、さらにそれ以前、神への捧げものとしての刀剣を知ると、その重みや深みが一層増すかもしれない。
時代ごとの軍政にあわせて刀の形状は変化。刀剣を神に捧げる際は、柄や鞘に豪華な装飾が施された。
箱根神社には薄緑丸と所縁のある曽我兄弟を祀る曽我神社や、神社所蔵の宝物を展示する宝物殿がある。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/151018 【神聖視された「勾玉」の実態 人々がその貴重さに魅せられたわけ】より新
古くから続いてきた、神を祀る文化。
日本人はいかにして神祭りを行い、大切にしてきたのだろうか。
古代にさかのぼり、「祭祀」の発祥に迫る本連載。
最終回となる4回目は、古代の人々が愛した装身具「勾玉」を取り上げる。
勾玉の貴重さを生んだのは古代の人々が愛した「翡翠」
現代の人々がアクセサリを好むように、古代の人々もまた、装身具として工芸品を用いた。その代表格が「勾玉」である。
アルファベットのCに似た形をし、先端に穴を開けて紐を通す。ペンダントのように使われたと考えられる。勾玉の中には、今のダイヤモンドや金のアクセサリと同様、非常に貴重なものもあった。皇位の象徴として知られる「三種の神器」にも、剣・鏡とともに「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がある。
では、どんな勾玉が高い価値とされたのか。國學院大學博物館の深澤太郎准教授は「原料が価値を大きく左右した」と言う。
「当時、特に貴重だったのは翡翠の勾玉です。産地が限られて希少な上、硬度が高く整形が難しい。だからこそ貴重であり、祭祀の捧げ物や死者の副葬品に用いられたのです。[魏志倭人伝]にも、倭国(日本)の献上品の一つに翡翠の勾玉があったと推測できる記述があります」
それにしても、なぜ勾玉はあの形になったのか。ルーツは諸説あり、はっきりとは分かっていない。ただし、深澤氏は「縄文後期には勾玉に近い牙の形をした翡翠の加工品が作製され、やはり穴を開けてペンダントのように使った形跡がある」とのこと。そうして、弥生時代には勾玉が出てきたという。
古墳時代の前期になると、緑の碧玉を使った勾玉も増えてきた。翡翠の代用品と考えられる。さらに軟質の滑石で勾玉の形を模した祭具も現れたという。
赤や透明の勾玉も流行背景に社会と価値観の変化
5世紀には、赤いメノウや透明の水晶による勾玉も好まれるようになった。その変化の背景について、「当時は、倭国と朝鮮半島の交流が活発化した時期。金属製品など、新しい文化・技術が入る中で、日本人の色彩感覚が変化したのかもしれません。帯金具(おびかなぐ)のほか金製品や鍍金(メッキ)された品物が増え、それに合う色の勾玉を好んだ可能性もあります」と推察するのは、國學院大學 神道文化学部の笹生衛教授(國學院大學博物館長)だ。
一方で、勾玉の普及とともに、原料となる石の産地も存在感を増した。例えば出雲地方。島根県松江市の花仙山は碧玉やメノウの採掘地であり、採掘の跡や勾玉の工房跡が多数見つかっている。近隣の玉作湯神社は、この場所がかつて勾玉作りで栄えた歴史を偲ばせる。
玉作湯神社。玉作(造)部の祖神・櫛明玉命を祀る。付近の玉作跡からは未製品の玉や砥石類が出土している。
さらに5世紀以降、変わった勾玉も出てきた。「子持勾玉」と呼ばれるそれは、勾玉の表面に、小さな突起物を加えたもの。奈良県桜井市の三輪山と周辺の祭祀遺跡からも数多く出土している。三輪山は、当時のヤマト王権が深く信仰した神の鎮まる場所。その地で異形の勾玉が作られたのだった。
子持勾玉。表面の突起も小さな勾玉の形。まるで玉から玉が生まれるようにも見える。(國學院大學博物館 蔵)
出雲の花仙山は碧玉やメノウを産出し、加工された勾玉やその技術は各地に伝播した。
しかし勾玉は、7世紀以降に消えていく。笹生氏は「人々の価値観の変化、あるいは身分を冠の色で示す冠位十二階の制度などが生まれ、権威を示す装身具としての意味を失ったのかもしれません」と考える。
払暁の三輪山全景。山自体が大神神社の神の鎮まるところとされる。
歴史から分かる勾玉の素顔。その由来を丁寧に読み解くと、「伝統」としての輪郭が浮き彫りになってくる。たとえば三種の神器も「鏡や剣は、古代に大陸からもたらされた最先端の技術を象徴する品物。対する勾玉は、縄文から続く日本の伝統のシンボルともいえるもの」と笹生氏は言う。
古代の日本列島で受容され、発展し、今日まで受け継がれてきた伝統の品々。その長い歩みを知ると、現代の神祭りへとつながる祭祀のルーツが見えてくるのではないか。
<編集協力:國學院大學 研究開発推進機構 助教 吉永博彰>