Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

筑紫の動乱

2024.05.19 08:05

https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/001.html 【第1話 大伴金村おおとものかなむら (生没年不詳)】より

古代大和王権のキングメーカー

大伴金村は古代の有力豪族で、5世紀後半から6世紀前半にかけて最高の官職である大連(おおむらじ)として歴代天皇に仕え、大伴氏の一時代を築いた権力者である。継体天皇の最後の居宮・磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)のある磯城・磐余地方(現在の奈良県桜井市)を本拠地とし、その勢力は河内、摂津、山城などにも及んだとされる。

金村は、天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖神とする大伴室屋(むろや)の孫で、大伴談(かたり)の子といわれている。武烈天皇の即位に貢献し、祖父と同じ大連の称号を得て以降、継体、安閑(あんかん)、宣化(せんか)の各王権成立を画策、大いなる権勢を振るった。

金村が力を最も発揮したのが、継体天皇の擁立である。武烈天皇9年(507)、武烈天皇の崩御で王統が絶えようとした時、金村は応神天皇から5代目の子孫にあたるとして越前国にいた男大迹王(おほどのおおきみ)を推挙。河内国樟葉宮(くずはのみや)で第26代継体天皇として即位させた。

継体天皇6年(512)には、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済から任那4県の割譲要求があり、金村は五経博士の受け入れを条件にこれを承諾した。しかし、これが後に金村失脚の原因となる。

継体天皇21年(527)に筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の乱が起こり、金村は継体天皇の命を受け物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し鎮圧させるなど功績を上げた。しかし、欽明天皇期に新羅が任那地方を併合する事件が起きた際、先の任那割譲の際に金村が百済から賄賂を受け取ったと物部氏らから嫌疑をかけられ失脚。武烈以降4代の天皇を即位させた金村は、ついに最高権力者の座を降りることになる。晩年は摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区帝塚山)に住み、波瀾の生涯を終えた。当地にある帝塚山古墳は、金村とその子の墳墓と伝えられている。

金村亡き後は、蘇我氏と物部氏との対立の時代に入る。大伴氏は歴史の表舞台から消え、後世の安麻呂や、その子である旅人(たびと)、孫で万葉集編纂に携わった家持(やかもち)など少数が大伴の名を残すのみとなった。

(以下略)


https://www.city.yao.osaka.jp/0000009190.html 【『聖徳太子・物部守屋(もののべ の もりや)と八尾』】より

『聖徳太子・物部守屋(もののべ の もりや)と八尾』

聖徳太子の像

 飛鳥時代に当時の有力な豪族、物部氏(もののべし)と蘇我氏(そがし)との間で、仏教を巡る争いがあり、八尾はその古戦場となりました。

 八尾市西部に位置する跡部地域を中心拠点としていた物部氏(もののべし)の豪族・物部守屋(もののべ の もりや、?~587年)と聖徳太子(574年~622年)・蘇我馬子(そが の うまこ、?~626年)の連合軍との間で戦となりました。

 聖徳太子は、戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって物部守屋(もののべ の もりや)を打ち破ることができたとして、その地に大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ、八尾市太子堂3丁目)を建立したといわれています。

 戦の中、聖徳太子が苦戦し、物部氏(もののべし)側に攻め込まれ危うくなったときに、そばにあった椋(むく)の木に寄り添うと、その幹が割れて開き、聖徳太子がそこに身をかくまわれて難を逃れ、その後、物部守屋(もののべ の もりや)を打ち滅ぼすことができたという言い伝えがあります。

 その椋の木は、「神妙椋(しんみょうむく)」と呼ばれ、現在も大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)境内に祀られています。

https://www.youtube.com/watch?v=jV8-kAU-0xk


https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-02-03-07.htm 【】

第二章 若越地域の形成

   第二節 継体王権の出現

     三 継体天皇の治世

      筑紫の動乱

 五二七年(『紀』の年立てで継体天皇二十一年)、筑紫の磐井の乱が起こった。磐井の乱は、日本古代史上最大の動乱である。

 ただ、『紀』の記述にだけ拘泥すれば疑問は生じる。新羅に破られた南加羅・喙己呑を回

復するために、六万の大軍を率いる近江毛野を朝鮮半島南部に派遣しようとして、これが磐井の決起の原因となったという。六万の軍勢をヤマトから連れて行ったはずはなく、大部分は九州で徴発する予定であったろうから、これが筑紫の豪族の不満を爆発に導いたことは理解できる。しかし、五二七年には南加羅(金官国)はまだ滅びてはおらず、金官国の滅亡は五三二年とされている。継体天皇はまだ滅亡していない南加羅のために派兵しようとしたのであろうか。

 第二は、いわゆる磐井の揚言の内容である。磐井は近江毛野に対して、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として肩を摩り肘を触りつつ、共器にして同食いき。安ぞ率爾に使となりて、余をしてが前に自伏わしめん」と揚言し、抵抗に踏みきったという。これによると、磐井と近江毛野は昔は同輩として共同生活をしたこともあったらしい。近江毛野はおそらく近江の豪族であろうが、どうして筑紫の磐井と親しくした時期があったのであろうか。通説は、両者が若き日にヤマト朝廷に同じ時期に出仕していたのであろうとするが、むしろ磐井の揚言は、立場の共同性を示す文言として『紀』には類型的な用例であると考えることもできる。

 第三の問題点は、征討将軍の名である。『紀』は大将軍として物部麁鹿火が任命されたと伝えるが、『記』は、「故、物部荒甲の大連、大伴金村の連二人を遣わして、石井を殺したまいき」と記して、荒甲(麁鹿火)と金村の二人が派遣されたと明記する。しかも金村を大連でなく連としている。『紀』はしかし物部麁鹿火の奏上の言葉のなかに、「在昔道臣より爰に室屋に及るまで、帝を助けて罰つ」と述べており、道臣・室屋と、大伴氏の祖先の偉業をあげている。磐井の征討には、大伴金村・物部麁鹿火の両将が任命されたのだが、そののち何らかの事情から、麁鹿火ひとりが将軍として赴任したのであろう。ともかく磐井の乱の鎮圧は、ヤマト朝廷が全力をあげて取りくまなければならない課題であった。

 物部麁鹿火は約一年半の対陣ののち、御井郡の戦いに勝って磐井を斬り、乱を鎮めた。このとき磐井の子である筑紫君葛子は、糟屋の屯倉を献上することによって、死を免れたらしい。これほどの大乱を起した人の長子が、何故に屯倉の献上で助命できたのか、これが第四の不審点である。

 なお、磐井の乱の研究については近年新展開がみられる(『古代最大の内戦 磐井の乱』、『古代を考える 磐井の乱』など)が、こうした動向にも前述の継体天皇即位の実年代の考察は大きな示唆を与えるものであろう。

 磐井の乱の鎮圧後、朝鮮半島に渡った近江毛野は、軍事的にも外交的にもなんらの成果を挙げることができなかった。毛野の無能な暴政は多くの人の忌避するとろことなり、召還の奏言が相次いだ。ついに毛野は召し還され、途中対馬で病没した。遺骸は難波から淀川をさかのぼって近江に至った。その妻の歌、「枚方ゆ笛吹き上る近江のや毛野の若子い笛吹き上る」は、この行路をよく示している。

 毛野は、その氏姓の示すように近江の豪族であったろう。ちなみに、山津照神社古墳(滋賀県近江町)を近江毛野の墓とする説がある(森前掲書)。

https://www.youtube.com/watch?v=AmVQjO9fV8Y

https://iwasarintaro.hatenablog.com/entry/2020/09/30/203413 【古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ④即位の力の源泉は鉄】より

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ④即位の力の源泉は鉄■

会社の役員人事などでも、本流から外れて海外などで冷や飯を食っていた人が、国内営業の本命を差し置いて、突然社長に就任して周りを驚かせたりする事がある。ビジネスが国際化に突入した時は、国際化の時代の能力が求められたし、AI化が進めば、これまでとは別の才能が求められる。今の銀行などそうだろう。人事に断絶、非連続が起こる。継体の即位もこれに似ているかもしれない。僕も当初、なぜ彼だったのか理由をいぶかしんだものだったが、あるとき自分の部屋に貼った皇統図を見ていて、継体天皇の子が欽明天皇であることを発見し、頭に電光石火が走った。継体の登場の謎は、子供の欽明から逆に解けた気がしたのだ。歴史を知った人なら継体の子が欽明であることは、そんなの当たりまえ、と言うかもしれない。その通りだろう。

f:id:iwasarintaro:20200930202547j:plainただ僕には欽明は仏教公伝の時の天皇というイメージで完結しすぎていた。日本書紀では、552年、百済の聖明王が使者を遣わして金銅仏や経典などを贈り、欽明天皇は仏像の光輝く異国的な美を見て、「その貌(かお)きらぎらし」と賛嘆の声を上げた、と伝える。迂闊にも僕の中では福井出自の継体と欽明天皇が親子であるとの認識が全く欠けていたので、俄然目が覚めた。改めて2人の親子関係を確認し、継体の時代に任那4県の百済割譲に動いたのが大和の豪族の大伴金村、またこの人物がそもそも継体を天皇に担ぎ出したことを思い起こせば、継体の皇統と大伴氏と百済とはもう古くからズブズブの親戚のような関係だったのだろう。恐らく大伴氏も半島に出自があって、その末裔だったのではないか。まあこんな風に思い始めると、さらにそこから僕の想像は沸き上がる。恐らくであるが、継体が即位できたのは、半島経由で伝わった「鉄」の力ではないのかと。百済、福井、大和を結ぶ鉄文明の道が見えてきたのである(つづく)。写真は福井市足羽山の継体天皇像(石像)。戦後まもなく福井大震災で倒壊したのが、のちに再建された。

美術評論家/美術ソムリエ 岩佐倫太郎


https://iwasarintaro.hatenablog.com/entry/2020/09/30/204723 【古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ⑤鉄を運んだ海上の道】より

■古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ⑤鉄を運んだ海上の道■

鉄文明は朝鮮半島を経由して日本列島にやって来た。それは間違いないだろう。その時期は古墳時代。ちなみに古墳時代とは、縄文、弥生時代につづき、3世紀半ばから7世紀末までの400年余を指す。青銅と鉄の伝来は日本へは時間差がないともされるが、少なくともこの古墳時代の末には、鉄が青銅をしのいで、青銅は祭司用に、鉄は農具・武具用にと、金属文明の変遷(あるいは使いわけ)があったと見ることが出来るのかもしれない。

鉄は硬度、耐久度において青銅を遥かに上回るものだったから、鉄の農具は農作業を大幅に改善するだけでなく、水田の開拓、灌漑などに今日でいえばブルドーザーかユンボ並みのパワフルな力を発揮し、圧倒的な生産力革命を起こしたことだろう。大規模古墳という巨大な土木工事の成果自体がすでに、鉄の力の象徴と見做すことが出来るはずだ。また戦争における鉄の槍や鉄刀の威力も同様である。鉄の到来はそれ以前とは原理を隔絶する、文明上の巨大な潮流だった。

その鉄文明の恩恵をいち早く受け入れたのは、日本列島では九州北部、出雲、そして継体天皇が育った越前あたりではなかったか。というのも、日本海はリマン海流が反時計回りに流れ、黒潮の分流である対馬海流と合わさって、北上する。これが鉄文明のもっとも効率的な海上ハイウェイなのだ。今でも北朝鮮の漁船が漂着したりする、あの潮の流れなのである(つづく)。


https://iwasarintaro.hatenablog.com/entry/2021/07/24/090024 【古墳を巡り、継体天皇の謎を考える  ⑥アレクサンダー大王が鉄を運んだ?】

ところで人類の製鉄の歴史は古い。今のトルコのあたりにあった「ヒッタイト帝国」に始まるとする。少なくとも紀元前15世紀にはもう製鉄は盛んで、鉄と戦車の技術を独占する強国であったようだ。そのヒッタイト帝国が紀元前千年くらいには滅びてしまう。地中海人の襲撃が原因、のようないい加減な説もあるが、僕は製鉄をやり過ぎて国が自潰したのだと思う。鉄を溶かすために燃料の木を伐りすぎて国土の多くがはげ山になり、結果、くり返しの洪水に見舞われ街も耕作地も崩壊し、住民に遺棄されたのではないか。歴史書には書いていないけれど、その製鉄技術を持った人たちが海を渡って対岸のマケドニアに移住した、としても何の不思議はないだろう。

マケドニア王国はギリシャ北部だが、有名なのはアレクサンダー大王(画像)。紀元前4世紀にインドまで遠征して、広大な版図の帝国を築き上げ若くしてバビロンに客死した英雄だ。彼の東方大遠征を可能にした力の源は、鉄の持つ文明の力だろう。食料生産と武力の圧倒的な優位を背景に、何年もかけて何万もの兵隊やその家族が一緒に移動する。橋を架け、都市(アレクサンドリア)を築き、各地で支配者となり、兵士を結婚して入植させ、文明をそれこそ移植しながら東漸するわけである。製鉄技術もギリシャ美術もこの時いっしょに運ばれる。

その製鉄の技術はインド、中国、朝鮮半島経由で日本列島にも、象の行進のように時間をかけながら、けれども決して後戻りしない力強さでやってきた。弥生時代には早くも鉄は日本にもたらされてはいるが、古墳時代には人口爆発を起こすほど影響力を持った。鉄器による食糧生産の飛躍的な向上があったからだろう(つづく)。


https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%  【古代史の謎は「鉄」で解ける 前方後円墳や「倭国大乱」の実像 (PHP新書) 新書 】より

長野 正孝 (著)

船をつくるための鉄斧や武器となる刀の材料になるなど、鉄は古来きわめて重要な資源であった。紀元前から倭人は鉄を朝鮮半島から輸入していたが、1~2世紀に『後漢書』などが伝える「倭国大乱」が起こる。著者はこれを、高句麗の南下によって起こった「鉄の爆発」を伴う社会変革だと考える。それ以降、日本に遊牧民の文化である「光る塚」がつくられ、「鉄の集落」が全国で形成された。そして、都市国家連合である「倭」は朝鮮半島の海上権益を巡り、四世紀末から高句麗と戦うことになる。騎馬民族高句麗は非常に強く倭は軍事的に敗北するも、伽耶国の鉄工業が河内に導入され、ヤマトの工業力は高められた。一方、前方後円墳が大量に築造されるが、あの不思議な形は鉄の交易に関わる秀逸なアイデアの賜であった――。

船と港の専門家が、鉄の交易に着目し日本の原像を探る。ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者、竹村公太郎氏も推薦!

■鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」

■黒曜石と土笛が語る草創期の「鉄の路」

■高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」

■日本海を渡る知恵――準構造船の技術革新

■突然できた日本海の鉄の集落

■鉄から見た卑弥呼の国――倭国と大和は別の国

■敦賀王国をつくった応神天皇

■倭国が朝鮮半島で戦った理由――「鉄の路」の維持

■前方後円墳はなぜ普及し、なぜ巨大化したのか

■埴輪の役割