消された蘇我氏の地盤
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邪馬台国が日本の歴史書に登場しない理由は、「当時のヤマト王権にとって邪馬台国は不都合な存在だったから」、とする説が有力です。最も考えられる事は、記紀編纂時の権力者・藤原氏一族が悪意をもって抹殺したのではないでしょうか? すると、邪馬台国の場所は宿敵・蘇我氏が地盤としていた地域となります。前回は、蘇我氏の先祖・武内宿祢の地盤について考察しました。今回はさらにその後の系譜を辿って行きます。
この図は、奈良時代までの蘇我氏の家系図です。有名なところでは、前回示しました武内宿祢、初めて大臣になった蘇我稲目、その子で聖徳太子と共に律令国家体制を整えた蘇我馬子、乙巳の変で自害した蘇我蝦夷、、同じく犠牲になった蘇我入鹿がいます。蘇我氏本宗家は、この蘇我入鹿で滅亡しました。一方、傍系血族では平安時代初期までヤマト王権の重要なポストに居座り続けていました。
なお、この系譜は、日本書紀を基に作られていますので、藤原氏一族の息の掛かったものではあるものの、蘇我氏の傍系血族は奈良時代もまだ存続していましたので、ある程度は信用できる史料ではないかと見ています。
ちなみに、飛鳥時代のスーパーヒーロー・聖徳太子も、蘇我氏の女系血族として系譜に含まれます。
この中で、まず注目しなければならないのは、初めてヤマト王権の最重要ポスト・大臣に上り詰めた蘇我稲目でしょう。第28代宣化天皇から第29代欽明天皇の時代に彗星の如く現れて、ヤマト王権の仏教導入に大きく関わった人物です。彼の父親は、蘇我高麗という高句麗との関係を匂わす名前である事や、越前の大王・継体天皇の息子である宣化天皇、欽明天皇の時代に頭角を現した事。継体天皇と関係が深かった百済から仏教を導入しようとした事。などから、日本海勢力、特に越前との関係が強い人物と考えられます。
また、蘇我稲目よりも前の時代に、若長足尼という蘇我一族の祖先と見られる人物が、越前の三国国造として存在しています。時代的に、稲目の父親である蘇我高麗と、この若長足尼は同一人物である可能性があります。
それは、
「足尼」と言う名前は、武内宿祢(建内足尼)から由来しており、蘇我氏一族に広く見られる名前である事。
後の時代に蘇我氏が分裂した際に「高向氏」という氏族が誕生していますがその由来が継体天皇が育った越前の高椋である事。
そして、継体天皇を招聘しにやって来た大伴金村に応対した人物がこの若長足尼だった事。
などから、出自が越前にあり、継体天皇の筆頭家老の存在であり、蘇我氏の祖先だった可能性がある人物です。さらに、時代的に蘇我高麗と一致がありますし、高句麗と関係が深い越前なればこそ「高麗」という名前が付けられたのではないか、とも推測できます。
要は、越前の国・敦賀に拠点を置いていた祖先の武内宿祢から連なる蘇我氏の地盤は、越前の国・三国であり、国造・若長足尼だという事になります。
このように、越前の大王・継体天皇の筆頭家老のような存在だった若長足尼、すなわち蘇我高麗が、近畿地方を征服し、ヤマト王権を牛耳った蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と連なる蘇我氏本宗家の流れを作って行ったと考えられます。
これらの事から、蘇我氏の本宗家の地盤は、継体天皇の出身地である北陸地方・越前である可能性が非常に高いと言えます。
一方、平安時代初期に成立した『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』という書物の中にも、蘇我氏一族が北陸地方を地盤としていた記述があります。この書物は、蘇我馬子などによる序文を持つもので、その中の「国造本紀」において、
「江沼(現在の石川県加賀市)の国造を、蘇我臣同祖の武内宿禰四世孫の志波勝足尼に定める」とあります。これは、第十八代反正天皇の時代で、五世紀頃とされます。
また、伊弥頭(いみず現在の富山県射水市)の国造を、建内足尼の孫の大河音足尼に定める」ともあります。第十三代成務天皇の時代で、四世紀頃とされます。
これらの記述は、考古学的な根拠がある継体天皇よりも前の時代のものなので、どの程度の信憑性があるかは疑問が残ります。しかし、継体天皇の筆頭家老である若長足尼といい、すべてが「足尼」という名前の蘇我氏一族が北陸の地で国造を務めていた事は、とても興味深いものがあります。
これらの事から、蘇我氏一族の地盤が北陸地方だった可能性は、ほぼ間違いないでしょう。
ところで、蘇我氏本宗家の名前はちょっと滑稽ですね?
武内宿祢の三代後からおかしくなります。蘇我韓子、蘇我高麗、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿。
乙巳の変の勝者である藤原氏一族が、宿敵だった蘇我氏の本当の名前を消して、卑しい名前を勝手に付けたという説もあります。そうだとしても、何らかの理由があってヘンテコな名前にしたのではないでしょうか?
韓子、高麗、馬子、は明らかに騎馬民族・高句麗を意識した名前でしょうし、入鹿は海を渡る動物、稲目は水田稲作地帯、蝦夷は蘇我氏が代々地盤としていた地域。というように、確実に北陸地方と密接に繋がる名前になっています。
蘇我氏一族の地盤がどこだったのか?という問いに対する答えは、ズバリ北陸地方、特に継体天皇が出現した越前である。と推定します。
そして、乙巳の変で没落した蘇我氏は、記紀編纂時の藤原氏にとっては不都合な存在、消し去りたい存在でした。
歴史から消された邪馬台国。それは蘇我氏が地盤としていた地域。すなわち、越前です。
今回の蘇我氏の地盤が越前であるというのは、あくまでも文献史学上の推論でしかありません。日本書紀がどこまで信用できるのか? という問題が残ります。しかし、蘇我氏本宗家が没落した後も、蘇我氏の傍系は、ヤマト朝廷の主要ポストに残りました。それを考慮すると、蘇我氏の祖先をあまりにも冒涜することも出来なかったのでは? と推測できます。
次回は、考古学的な視点から、蘇我氏の地盤がどこだったかを検証します。
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八俣遠呂智へようこそ。
邪馬台国が古事記や日本書紀に登場しない理由は、当時のヤマト王権にとって不都合な存在だったから、そして蘇我氏の出身母体だったから、と推測しています。前回までに、蘇我氏の先祖・武内宿祢から滅亡するまでの蘇我氏本宗家の地盤、について考察しました。しかしこれは、あくまでも日本書紀という文献史からの推測でした。今回は、考古学的に蘇我氏の地盤はどこだったかを調査してみました。そこからは、歴史から消された邪馬台国だけでなく、ある物も記憶から消された事実が浮かび上がりました。
滅亡した蘇我氏本宗家の考古学的な史料は限られています。それは、蘇我氏はあくまでもヤマト王権の配下であって、天皇家に仕えていた立場でしたので、どんなに顕著な出土品があろうとも天皇家のもの、という推察がなされてしまうからです。中世・近世ならともかく、古代の一豪族の考古学的な検証は非常に難しいものがあります。
そんな中で、ヒントになるような考古学史料が2点だけ存在します。それは、石舞台古墳と翡翠硬玉です。
蘇我氏のお墓と言えば、奈良県明日香村にある石舞台古墳が有名ですね? 古墳時代後期のお墓とされています。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されていますが、その父親の蘇我稲目の可能性もあります。正確に蘇我氏のお墓とは断定できませんが、この近くに蘇我氏の氏寺である法興寺の後身である「飛鳥寺」があることや、規模の大きさなどから蘇我氏一族の墓だという推測がなされます。
この墓の一番の特徴は、巨大な岩石によって玄室と呼ばれる横穴式の石室が設けられていることです。総重量が2300トンにも及んでおり、他に類を見ない規模です。
通常の玄室であれば、大きくても江戸時代のお城の石垣程度の大きさですので、異常に大きいことが分かります。また、この時代のお墓であれば盛土によって玄室が隠されるのが普通ですが、ここは剥き出しになっています。かつては土に覆われていたのではないか?という説もありますが、はっきりした事は分かっていません。
とても個性的な墓ではあるものの、ここから分かる事は、あまり多くありません。
まず、埋葬方法です。高句麗などに起源を持つ横穴式埋葬ですが、古墳時代後期にはすでに一般的になっていましたので、特筆すべきものではありません。
形状はシンプルな方墳と見られます。あるいは高句麗に起源を持つ四隅突出型墳丘墓の可能性もありますが、時代的に500年ほどの差がありますので、現実的ではないでしょう。
そして構造です。盛土ではなく石を用いており、支石墓と呼ばれる構造に似ています。これは世界的に見られるもので、特に紀元前の朝鮮半島に多く見つかっています。しかしそれらに使われていた石は、石舞台のような巨大なものではありませんでした。
これらのように、石舞台古墳はあまりにもユニークで唯一無二の存在です。そして副葬品は、ほとんどが盗掘されていましたので、ここから蘇我氏のルーツを辿るのは、かなり困難です。敢えて言うならば、「高句麗がルーツの可能性がある」、「高句麗と関係の深い日本海側の勢力かも?」、という程度です。
では、もう一つの考古学的資料である「翡翠」について考えてみましょう。
これについては、以前の動画「消えた翡翠 消された邪馬台国」にて考察していますが、再度検証してみます。
翡翠(特に価値の高い翡翠硬玉)、については、縄文時代から弥生時代、古墳時代を通して、権力者の威信財として日本全国から多く出土しています。この翡翠の99%は、新潟県糸魚川産とされています。上流域の姫川に翡翠硬玉の鉱脈があるからです。
ところがつい近年まで、出土した翡翠はミャンマー産であると、強く信じられていました。昭和初期に翡翠鉱脈が再発見されるまでです。糸魚川に鉱脈がある事は、なぜかずっと忘れ去られていたのです。
これは、歴史から消された邪馬台国と非常によく似た流れを辿っていますね?
古事記や日本書紀が編纂された時代から、プッツリと翡翠が使われなくなり、人々の記憶からは翡翠鉱脈の在りかさえも、忘れ去られてしまったのです。瑪瑙や碧玉、ガラス玉といったほかの宝石類は、その後もずっと使われ続けていたのとは対照的です。
これもまた、蘇我氏と藤原氏の対立が招いた悲劇であると推測します。
縄文時代から飛鳥時代に至るまで、最高級の宝石として日本列島のみならず、朝鮮半島や中国大陸からも出土している翡翠硬玉ですが、最後に翡翠の加工品が確認されているのは、飛鳥時代の法興寺(現在の飛鳥寺)からの出土です。
法興寺は、日本書紀にも記されている蘇我氏の氏寺で、奈良県明日香村にあり、石舞台古墳のすぐ近くです。ここには、蘇我入鹿の首塚も存在しています。
この法興寺の塔の心柱の礎石部分から、大量の宝物が出土しました。その中に糸魚川産翡翠の勾玉も含まれていました。そしてこれを以って、それ以降の翡翠の加工品の出土は、この世から一切無くなったのでした。
この事からの推理です。蘇我氏一族は、北陸地方が地盤であり、糸魚川産翡翠の利権を独り占めしていました。ヤマト王権で確固たる地位を築けたのも、翡翠という莫大な財源があればこそだったのです。ところが、乙巳の変で、蘇我入鹿が殺害され、父親の蘇我蝦夷は自害してしまいました。それによって翡翠の利権はどうなったと思いますか?
普通に考えれば、乙巳の変の勝者である中臣氏(後の藤原氏)のものになったはずです。ところがそうはならなかった。
蘇我氏によって固く守られてきた翡翠鉱脈の秘密。その秘密を藤原氏が知る事は出来なかった、としか考えられません。
では、翡翠の鉱脈が忘れ去られた理由を、物語風に考えてみます。
飛鳥時代において中臣氏(後の藤原氏一族)は、乙巳の変の際に、国記・天皇記などの蘇我氏によって書き溜められた歴史書を焼き払いました。そしてヤマト王権の中心人物へと上り詰め、新しい歴史書を編纂しました。それが、古事記であり日本書紀です。
歴史は勝者によって書かれますので、当然ながら藤原氏に都合の良いように記紀は編纂されました。自らの出身母体である日向の国を天皇家の先祖としたり、蘇我氏本宗家を徹底的に悪者扱いしたりしました。そして、邪馬台国や卑弥呼に関する記述を完全に無視しました。それは、邪馬台国がライバル・蘇我氏一族の出身母体だったからです。
古事記や日本書紀は、このような流れで書かれたと推理します。
では蘇我氏が財源としていた翡翠についても、同じように歴史から消し去ったのでしょうか? それは考えられません。なぜなら、古今東西・権力者というのは、とにかく利にさとい生き物だからです。自分の地位を盤石にするために、財源が必要であり、利権を追いかけるのが常です。蘇我氏を滅ぼした藤原氏ですが、翡翠という利権があれば、当然のように自分のものにしたはずです。ところがそうはしなかった。いや、することは出来なかった。それは、・・・。
情けない事に、翡翠鉱脈がどこにあるか分からなくなってしまったからです。
重要な財源である翡翠の鉱脈は、誰でも知っていたわけではないでしょう。他者に知られて横取りされる危険性を常に感じながら、重要機密として隠蔽していたはずです。知っていたのは、蘇我氏本宗家の一部の者と、採掘労働者程度だったのではないでしょうか?
やがて、蘇我氏本宗家は滅ぼされてしまいますが、翡翠鉱脈という重要な秘密は保持されたのでした。秘密を知る一族の者は、本宗家自らが口封じを行ったのです。
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八俣遠呂智へようこそ。
邪馬台国は、古事記や日本書紀という日本最古の歴史書には登場しません。なぜ記されていないのでしょうか? その理由の最も有力な説は、「当時のヤマト王権にとって邪馬台国は不都合な存在だったから」、というものです。特に疑わしいのは、飛鳥時代の蘇我氏と藤原氏との対立ではないか? と考えられます。勝者の藤原氏が、敗者の蘇我氏の歴史を消し去ったのか? 今回は、まず蘇我氏の祖先とされる武内宿祢の地盤について考察します。
飛鳥時代の大和王権を牛耳っていた蘇我氏一族。藤原氏によって滅ぼされたこの氏族は、日本列島のどの地域を地盤にしていたのでしょうか? その答えこそが、邪馬台国の場所を決定づける一つの根拠となるでしょう。
それは、藤原氏によって新たに創作された歴史書、すなわち古事記や日本書紀からは、「邪馬台国」や「卑弥呼」の文字が完全に消し去られているからです。藤原氏が主力となったヤマト王権にとって、蘇我氏が主力だった邪馬台国は、明らかに不都合な存在でしたし、消し去りたい存在だったと推測するに、無理はないでしょう。
では蘇我氏一族は、日本列島のどの地域を地盤にしていたのでしょうか?
まず、蘇我氏一族の系譜を調べて行きます。
奈良時代以前の系譜は、残念ながら日本書紀や先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)などにしか残されていません。これらをそのまま信用してよいものかどうかは、議論の余地はあります。しかしここでは、どの地域を地盤にしていたのか?を読み取る事が重要ですので、そのまま探究して行きます。
蘇我氏の先祖は、武内宿祢とされています。神功皇后の熊襲征伐や三韓征伐で活躍した英雄として有名ですね。景行・成務・仲哀・応神・仁徳までの5代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物です。日本書紀の年齢をそのまま信用すれば、200歳以上になってしまいますので、神話の人物と言っていいでしょう。ヤマト王権の中では、大臣(おおおみ)という地位で、天皇を補佐する重要な役職でした。武内宿祢の末裔には、蘇我氏の他にも葛城氏など大臣(おおおみ)を務めた重要豪族が含まれます。
武内宿祢の経歴を見ると、第12代景行天皇に仕えていた頃に高志の国(北陸地方)に遣わされました。そこで、
「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べて、蝦夷地を討伐する事を天皇に進言しています。古代の蝦夷地は、現在の北陸・関東・東北を含む東日本全域だったとされており、西日本と東日本が異なる勢力だった事が分かります。
なお、この文章の中には、高志の国(北陸地方)の人々が「身を文けて」つまり、入れ墨(文身)をしていたことが記されています。入れ墨というと南方系の風俗習慣のように思えますが、蝦夷地でも同じように行われていた事が示唆されています。魏志倭人伝に記された倭人は蝦夷地の人々を指していたのかも知れませんね。
なお、乙巳の変で自害した蘇我蝦夷は、その名前が示す通り蝦夷地を示すもので、武内宿祢の末裔として蝦夷地を地盤にしていた事を物語っています。
時代を下って、第十四代仲哀天皇に仕えていた頃には、同じように高志の国(北陸地方)に移り住んでいます。角鹿笥飯宮、現在の福井県敦賀市です。実質上、天皇ではなく皇后に仕える形でした。神功皇后です。
この時期に九州で反乱が起こったので、彼女と一緒に討伐に向かい、征伐します。熊襲征伐です。さらに、朝鮮半島に渡って、新羅・百済・高句麗をも征伐しました。三韓征伐です。この期間に仲哀天皇は戦死してしまいましたが、常に神功皇后に寄り添うように行動していました。征伐が終わった後に、神功皇后は男の子を出産します。第十五代応神天皇です。
この流れから言って、応神天皇の父親は、実は武内宿祢ではないか?というゴシップめいた仮説もチラホラ聞かれます。
その後、神功皇后、応神天皇、武内宿祢の三人は近畿地方に行きますが、すぐに角鹿笥飯宮に戻って、そこで国政を司っていました。その期間は70年にも及びました。
このように、武内宿祢はその人生の大半を蝦夷地である、高志の国(北陸地方)で過ごしていた事になります。
神功皇后については、日本書紀の神功紀の中に魏志倭人伝からの引用がある事から、彼女が卑弥呼である、という説が有力です。そうすると、武内宿祢は、卑弥呼の弟として認識されていたのかも知れません。
魏志倭人伝には卑弥呼について、「無夫壻 有男弟 佐治國」、夫はおらず弟がいて国を治めるのを助けている。とあります。神功皇后は、夫である仲哀天皇を若いうちに亡くしていますので、この記述に一致しますし、実質的に国を治めていたのが武内宿祢であったとすれば、これも魏志倭人伝の記述と一致します。また、ゴシップめいた推論ではありますが、神功皇后は武内宿祢との男女の関係が深かったが故に、あえて弟として公表していたのかも知れませんね。
これらのように、武内宿祢が地盤としていた場所は、明かに高志の国(北陸地方)です。蘇我氏一族の先祖は、この武内宿祢とされていますので、蘇我氏の地盤も高志の国(北陸地方)という事になります。この地で蘇我氏の血脈が受け継がれて、後の時代にヤマト王権の最重要ポストにまで上り詰めたのでした。その詳細は、次回以降に述べて行きます。
飛鳥時代には残念ながら乙巳の変で、蘇我氏本宗家が滅亡させられてしまいました。そして、宿敵・藤原氏一族によって新しい歴史書・古事記や日本書紀が編纂されて、邪馬台国や卑弥呼の記述が歴史の闇の中に葬り去られたのでした。
いかがでしたか?
今回は、蘇我氏一族の先祖である武内宿祢からの推測でした。蘇我氏の地盤については、武内宿祢だけでなく、ヤマト王権に彗星の如く登場した蘇我稲目やその後に続く一族に、北陸地方と密接に繋がる根拠が見られます。それは蘇我氏本宗家だけでなく、蘇我氏傍系血族にもその傾向が見られます。次回は、そんな蘇我氏の地盤について、さらなる検証を行って行きます。