頂点
旅先の土産は賄賂か否か。せめてそんな時位は世話になりし担任に、との助言むなしく。一切禁止が規則、と孫から窘められ、と町会長。
所変わって運動会。望まずと来賓として迎えられるにさすがに手ぶらは。子らの為に尽くす先生方へのささやかな謝礼、それとてあくまでも善意なれど、受け取れぬ、と学校側。いや、しかし、どこぞの学校では。分かれる対応。「固辞」が原則なれど、その限りにあらず、との方針がかえって。
そこに差が生ずるに逆に求められとる気が、なんてのは個人の勝手な妄想に近く。何食わぬ顔で甘んじておればいいだけの話なのだけれども、そんな慣習は廃止すべき、なんて騒ぐ輩に市教委まで振り回されて。「固辞」などとカタイこと言わずに「気遣い無用、されど善意は拒まぬ」とでもしておかば。まぁほんとにせちがらい世の中にあって、嫉妬心とはかくも厄介なもの也。
閑話休題。民族、宗教を巡る対立は今に始まったものになく。緊迫の中東情勢。利用「した」か「された」か、あの傲慢な作曲家と独裁者の間柄は世に知られたところにて、あえて禁忌を破りし指揮者の逸話はいつぞやの通り。
あくまでもアンコールゆえ、いやなら退席も止めぬ、曲に罪なく、ただ純粋にこの曲を、と選択を委ねるに退席は数人。演奏後は割れんばかりの拍手に包まれるも、翌日以降はマスコミの批判にさらされ。がっかりした、とは本人の述懐。
十五歳の当時、マイアミのゴルフ場に貼られし一文、「ユダヤ人、黒人、犬お断り」を例に。あれから六十年、黒人の大統領が誕生する時代にあって、人種、宗教への偏見と音楽について独自の見解を披歴しておられ。著書に語られるはワーグナーとの関係。そして、約三百年に渡る音楽的思考の頂点に立つのがその人物と評価を寄せて。
読むは「恋愛」のみならず、目下、当代の名指揮者がこぞってその作曲家を語り尽くす一冊を。当人の指揮者としての名声は当時から広く知れ渡るところなれど、作曲家としての評判や。英国ではほんの少し前まで「冗談扱い」だったとはある指揮者の談であって、歯に衣着せぬ論評に学ぶ曲の深淵。
市制は百年なれどこちらは開館二十年。当時、こけら落としに選ばれし当人の曲を巡り、市に再考を迫るは今は亡きKセンセイ。彼もまた狂信的な信者にて、当該の作曲家に異論なくも曲番がダメだと。でも、さすがに覆らなんだな。グスタフ・マーラー交響曲第八番。
私などはさすがにストラヴィンスキーほどの拒絶感は抱かぬにせよ、兎にも角にも「長い」というのが偽らざる感想であって、当代の名指揮者らもやはり最初は。彼らを迷わせるは楽譜に記されし本人の注釈。その意図はなんぞやと思案する中にあって生まれる解釈が曲を全く別なものに。とするとこれまで長くて「退屈」だったあの曲とて実は。
サマーミューザも販売開始。ちゃんと当人の曲も含まれ。演目は七番。挑むはあの指揮者。果たしてその解釈やいかに。
(令和6月5月20日/2854回)