Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 272 (09/10/24) 旧北谷間切 北谷町 (09) Kamiseido Hamlet 上勢頭集落

2024.10.10 14:35


北谷町 字上勢頭 (ウィーシードゥ、かみせいど)



北谷町 字上勢頭 (ウィーシードゥ、かみせいど)

字伊平の北境界線の国体道路を東に進んだ所には、戦前、上勢頭 (ウィーシードゥ) 屋取集落があった。


勢頭 (シードゥ) は首里王府時代の職階名/位階名で、御番頭の下にて王城の警備を務める役職で、その後、進貢使の別名称としても使われ、やがて、物事の頭役を一般にシードゥと称し、この職階名がこの地の地名となったという説がある。また別の説では、勢頭はシー (残丘) の岩頭に由来し、この名が付いたともいう。

上勢頭屋取は首里、那覇、泊、久米の士族が入植してできた屋取集落で、その入植時期は1700年から1800年の間と考えられる。琉球王国時代の上勢頭は平安山村と伊礼村にまたがっていた。明治期の上勢頭屋取集落は50~60軒程で、戦前1945年 (昭和20年) には字上勢頭の人口は1,222人 (216戸 内 カーラヤーは20軒) となり、北谷村の中では野里 (現在は嘉手納町の一部)、北谷、屋良 (現在は嘉手納町の一部) に次いで四番目に大きな集落だった。上勢頭屋取と下勢頭屋取 (シチャシードゥヤードゥイ) には、 「勢頭七組」 と呼ばれた血縁者集団の七小集落に分かれていた。大正時代迄は屋取 (ヤードゥイ)、昭和以降はその宗家の名を付けて組 (グミ) と呼ばれていた。「勢頭七組」 と称された組 (屋取) は田仲組 (タナカグミ 17世紀頃に移住 35戸)、稲嶺組 (ンナンミグミ 今帰仁から18世紀初頭 20戸)、瑞慶覧組 (ジキラングミ 首里からから18世紀初頭 31戸)、与那覇組 (ユナファグミ 14戸)、喜友名組 (チュンナーグミ 17戸)、勝連組 (カッチングミ) と佐久川屋取 (サクガーヤードゥイ 現在の下勢頭の一部 下勢頭屋取集落) で、字浜川、字伊礼、字平安山、字桑江に分散して広がっていた。1921年 (大正10年) に勢頭七組は字上勢頭と字下勢頭として行政字に独立 (地籍分離は昭和26年) している。このとき字桑江に属していた御殿地屋取 (ウドゥンジヤードゥイ) が御殿地組 (ウドゥンジーグミ 20戸) として加わった。1935年 (昭和10年) 頃、勝連組がシルークルー (白黒騒動) で前勝連組 (メーカッチングミ 14戸) と後勝連組 (クシカッチングミ 21戸) に分かれ、与那覇屋取から勢理客組 (ジッチャクグミ) が分離している。1937~ 38年 (昭和12~13年) 頃には勢理客組は町田組 (マチダグミ 27戸) に名称を改めている。1951年 (昭和26年) には、字国直 (クンノーイ) に属していた喜屋武組 (チャングミ) が稲嶺組 (ンナンミグミ) に加わり、1985年 (昭和60年) に再び稲嶺組から分離して、上原組 (ウィーバルグミ 22戸 現在の字下勢頭に属している) に名称を改め、勢頭10組に落ち着いた。[各組の戸数は1945年 (昭和20年) 時点]

主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。副業でカマンタやバーキなど竹細工の生産が行なわれており、それらは仲買業者や行商人によって買い取られ、那覇や山原に出荷された。特にカマンタは、近隣集落からシードゥカマンタと称されるほど有名だった。

砂糖屋 (サーターヤー) は、各組に1~3か所、総計で12か所あり、組の血縁関係のある家で共同使用していた。個人所有のサーターヤーも4か所あった。それぞれのサーターヤーにはクムイ (溜池) が造られていた。上勢頭には川はなく、昭和初期以降、水タンクが20基ほど設置され、天水を大量に生活用水として利用していた。また、家々にはクムイ (溜池) が掘られ生活用水として利用した。


上勢頭集落の拝所と祭祀行事

集落全体で拝む拝所はなかったが、稲嶺組 (ンナンミグミ)のシーグヮ、 上原組 (ウィーバルグミ) のビジュルなど、組単位で拝む場所は置かれていた。 上勢頭集落で行なわれていた主な年中行事は以下の通りだが、集落全体で行っていたものは原山勝負と闘牛大会のチクザキで祭祀行事というよりは祭りの性格の強いものだった。

  • ニングワチャー (クスックィー 旧暦2月2~3日) :組 (グミ、ヤードゥイ) 単位で、その会場のニングワチャーヤードゥイで土帝君に五穀豊穣の祈りを捧げた。初日は、青年組と老年組の何人かで井戸拝み (カーウガミ) を行い、旗頭を先頭に、シンムイを かつぎ、三線でトーシンドーイをかきならし、全員踊りながらミチジュネイ (道行列)をしながら、老年組の宿で頭の交代行事のチジワタイ (辻渡り) をした。
  • 原山勝負 (ハルヤマスーブ 旧暦5月): 農事奨励として、家畜、農作物の優劣、緑肥などの手入れ状態を数人の審査員が各字を回って審査する各字対抗の原山勝負がおこなわれていた。
  • エイサー (旧暦7月15日): 旧盆の三日目のウークイがすむと、各組ごとで決められた庭 (ナー) に男性のみの若者が集まり、エイサーを始め各家々を夜通しめぐり歩いた。
  • チクザキ (クングワチクニチー 旧暦9月9日): 上勢頭と下勢頭の境にある勢頭牛毛 (シードゥウシモー 闘牛場)で、盛大な闘牛大会が行われていた。


上勢頭集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: シーグヮー、ビジュル
  • 井泉: 受水井、北ヌ井、伊礼地井、ミーガー

沖縄戦では米軍上陸地になった事、日本軍の飛行場が嘉手納にあった事から、激戦地になっている。戦後、上勢頭集落域は米軍に接収され、人々は他集落へ分散して暮らしている。1996年 (平成8年) に一部返還されたが、まだ旧集落の7割は現在も返還されず嘉手納基地となっている。

戦前の集落は上勢頭の北部、現在の嘉手納基地の中に点在していたが、全土が米軍軍用地として接収され、1990年代に南部一部が返還され、そこに住宅地が開発されている。元々住んでいた北部は未だに基地内にある。



国体道路

平安山集落から上勢頭集落へ県道23号線を西に向かう。県道23号線は 「国体道路」 と呼ばれている。沖縄は1972年に27年に及ぶ米軍統治の時代 (アメリカ世 [ユー]) から本土復帰を果たしている。翌年の1973年には本土復帰に伴う記念国民体育祭 「若夏国体」 が開催され、国道58号線から米軍嘉手納基地の一部を開放して上勢頭集落を横断し沖縄市に通じる4.6kmの4車線道路が開通し、開催される国体を記念して国体道路と名付けられた。


あしびなー公園、うちなぁ家

勢頭集落に入った所にあしびなー公園がある。かつての字上勢頭の土地は全土が戦後米軍に接収されていたが、この辺りは1970年 (昭和40年) に一部返還された地域になり、勢頭10組の一つの御殿地組 (ウドゥンジグミ) があった場所になる。ここには勝蓮御殿の別荘地があった事で御殿地屋取集落と呼ばれており、1921年 (大正10年) に上勢頭に編入されている。現在の上勢頭はこの御殿地組地域に集中しており、残りの9組の屋取集落は米軍基地内で返還されていない。上勢頭のあしびなー公園というので、戦前には御殿地組のアシビナー (遊び庭) があったのだろうか? 戦前の地図ではこの辺りには御殿地組の砂糖屋 (サーターヤー) が記されているので、砂糖屋があった場所かも知れない。沖縄で公園になっている場所はかつての村のアシビナーやサーターヤーなどの共有地だった事が多いのでそうなのかとも思った。現地で確認したところ、サーターヤーはこの隣にあったと言っていた。

敷地内には1890年 (明治23年) に謝苅に建てられた旧目取真家主屋や旧崎原家の豚便所 (ウヮフール) などを2005年 (平成17年) に移設復元した 「うちなぁ家」 が公開されている。2012年 (平成24年) には、旧目取真家主屋及び旧崎原家フールが国登録有形文化財に指定されている。ここでは戦前の沖縄の屋敷と生活用品が展示され、当時の生活を垣間見ることができる。うちなぁ家には解説員が常駐していた。他に訪問者もいないので、長時間に渡って色々な話を聞かせて頂いた。

屋敷の門を入ると屏風 (ヒンプン) がある。目隠しの役割もあるが、魔物の侵入を防ぐ役割右側を通り一番座、二番座の縁側から家に入る。女性は左側を通り台所から入っていた。しかし、男性であっても、右側を使用するのは正月やお盆のような特別な日か、身分の高い人に限るともいう。

屏風 (ヒンプン) を入ると正面に母屋 (ウフヤ) がある。母屋は現在の家に比べてそれ程大きくはない。

一番座 (写真左中)、二番座 (右中)、三番座 (右下) の三つの主要な部屋がある。一番座は客間で床間が置かれ、客をもてなす部屋だった。二番座は仏間で仏壇 (トートーメー) が置かれ先祖の位牌が並べられる。この部屋が生活の部屋で、ここで食事をし、家族全員がここで寝ていた。三番座は居間に当たる。この家では板張りになっている。沖縄の家は開放部が多く、中に入ると風が入り、外は30度にもかかわらず、涼しい。

三番座の隣が台所になる。母屋の下手にある事からシム (下) と呼ばれていた。土間になっているが、伝統的に石が敷かれていたそうだ。台所の屋には、細長い物置の部屋がある。台所にはかつて使われていた調度品が展示されている。

母屋の前はゆったりとした前庭 (ナー) になっている。

前庭の向こう側には高倉が置かれている。高倉は米や栗などの穀物を貯蔵する収納庫で、鼠害や湿気などから防ぐために床を高くしている。

高倉の奥に井戸 (カー) がある。洗い場もあり、石積みで囲まれている。屋敷内に井戸を造る場合、通常は火の神と向き合う形は避けて、門から入って左手の台所の南側が西側に掘るが、水脈との関係から一番座の東側に掘ることもあった。井戸の側には石灰岩を彫り込んだイシターレー (石たらい) が置かれている。ここで洗面や手足を洗ったり、 芋や野菜などの農作物を洗ったり、鍬や鎌などの農具 類も洗っていた。

台所の西側には畜舎 (イチムシャー) が建てられていた。石柱が四本立っているだけだが、従来は茅葺き小屋 (裕福な家では瓦葺き) の家畜小屋だった。真ん中にはここの隣に置かれていたサーターヤー (砂糖小屋) にあったサトウキビを絞る圧搾機のサーターグルマが展示されている。この作業は、圧搾機から伸びた棒を牛馬にひかせ、サーターグルマにサトウキビを挟み込む人 (ウージクワーサー)、反対側にいて再び挟み込む人 (シブイミー)、最後にしぼり殻を取る人 (ウージガラ トゥヤー) の三人で行っていた。サトウキビのしぼり汁は鍋で炊いて不純物を取り除き、石灰を入れて固めて仕上げていた。

南向き屋敷の西北隅に設けられ た豚小屋兼用便所で、ウワーフール (豚便所) と呼ばれていた。中国伝来のものといわれ、中国や韓国でも昔には使われていたが、沖縄ではそれよりも長く戦前までは一般的だった。石造りで中に豚を飼 い、人が用をたすと下にいる豚が排泄物を処理する仕組みになっている。


徳川岩 (トゥクガワシー) 

あしびなー公園から西に進み米軍嘉手納基地のフェンス越しに、敷地内に徳川岩 (トゥクガワシー) を見る事ができる。この岩山は元々は風葬に利用されていた丘陵だったが、沖縄戦の際には岩山の自然壕に旧日本軍の監視哨が置かれていた。


上勢頭北公園、上勢頭土地区画整理事業竣工記念碑

あしびなー公園から西に進み、現在の上勢頭集落の北側に上勢頭北公園 (1981年 昭和58年 開園) がある。地図ではこの辺りから北側の普天間基地内に前勝蓮組の屋取が存在し、この公園あたりは前勝蓮組の砂糖屋 (サーターヤー) があったと記されていた。この公園がサーターヤー跡かは分からなかった。公園内に竣工記念碑が建立されている。沖縄戦後、米軍に接収されていた上勢頭屋取集落の3分の1ほどに当たる御殿地組の土地が1970年 (昭和40年) に返還されている。1973年 (昭和43年) に宅地造成が開始され、1978年 (昭和48年) に上勢頭土地区画整理組合設立を設立、1986年に上勢頭土地区画整理事業竣工している。公園内には上勢頭地域の発展を祈願して建立されている。記念碑には拓と刻まれ、その下には国体道路開通に関する記述が刻まれている。

この地域は、宇上勢頭の南側に位置し、第二次世界大戦前は住宅が点在する起代の著しい 所てあったが、敗戦とともに、 米軍用地として接収されていた。1970年に返還され、本土復帰に伴う記念国民 体育祭「若夏国体」(1973年) が開催されることになり国道58号線から沖縄市へ通ずる県道23号線 (国体道路) が開通した。1971年7月、全地主95名の合意で組合事業として宅地造成を計画、町当局の指導のもとに実施した。この事業はすべて、組合員の固い結束と積桂的な協力によって 自力て完成させたところに特色がある。事業終了にあたり地主及び 関係各位への感謝の意を表わすと共に、上勢頭地域の 永遠の発展を祈念して この碑を建立した。1989年 (平成元年) 12月吉日


上勢区公民館 (かみせいく)

上勢頭北公園の東には上勢区公民館が建っている。

上勢区は北谷町の字上勢頭、字下勢頭、字桑江の北東部を管轄しており、北谷町では世帯数は1、2位を争う地域になる。管轄地域は広大なのだが、大部分は米軍嘉手納基地敷地で民家は上勢頭と桑江の一部に限定されている。ここで少し疑問に思ったのが、上勢区と命名された経緯がどうだったのかだ。管轄地域の上勢頭と下勢頭は元々は勢頭だったので、勢頭区となるのが自然と思うのだが .. ..

公民館で聞いてみたが、要領を得なかった。


下勢頭郷友会館

公民館のすぐそばには下勢頭の郷友会が建てられていた。戦前の字下勢頭はその地域全土が現在でも接収されたままで、旧下勢頭の住民はこの上勢頭や他の地域に移住している。上勢頭も郷友会を組織しているが、個人宅を事務所を置いている。


受水井 (ウキンジュガー)

桑江団地の西側の谷面、上勢頭屋取集落の南側の御殿地組東側の土手の下にニーブガー (杓井) の受水井 (ウキンジュガー) がある。水量が豊富で旱魃の際にも水が枯れる事がなく、遠くからも水を汲む人々が来ていたという。戦前は字上勢頭の若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ) として使われ、戦後も一時期には生活用水として利用されていた。戦前までは下流には受水田があり、稲、田芋等が植えられていた。町の道路工事のために、埋められる事になっていたが、コンクリートで周囲を保護し保存されている。


受水洞 (ウキンジュガマ)

受水井 (ウキンジュガー) の西側に鍾乳洞の受水洞 (ウキンジュガマ) があると資料にはあったが、その場所を探すも見つからず。ガマの中は人が立って入れるほど大きく、北谷高等学校のあたりまで続いているそうだ。沖縄戦ではこの受水洞 (ウキンジュガマ) と、この西側約90mの所にある蝙蝠洞窟 (カーブヤーガマ) に上勢頭集落、御殿地組、平安山上周辺の百数十人の住民が避難していた。幸いにも、ハワイ帰りの人が米兵にガマに民間人の避難している事を話し、洞窟にいた老人、婦女子、子供たちを救い出している。

蝙蝠洞窟 (カーブヤーガマ) は明治期に名だたる大盗賊の隠れ家となっていた。この大盗賊と名探偵の攻防は巷間の語り草として、沖縄芝居等でも上演されている。

石川探偵はウキンジュガマとカーブヤーガマに目をつけ常時内偵していた。ある時、ずば抜けた運動神経の持ち主である千原シベー (みつ口) は探偵たちに追い込まれ、何を思ったの 本自分の家に駆け込んだ。ややしばらくすると探情たちも千原家に踏みこんだ。すると、座敷の真ん中で鏡をかけたこざっぱりした口髭をはやした一人の紳士が静かに新聞を読んでいた。眼鏡は父のものを借用し、口は変装用のも のだった、踏み込んだ探偵たちはシベーとは知らずにさっさと出ていった。
ある時、容貌魁偉の巨漢で目玉も牛のように大きく突き出していた嘉手苅目玉 (カディカルミンタマー) と中柄で頑強な上江州仁王 (ウィージーニオー) の二人が共謀して、深夜ある砂糖倉庫に忍び込み、くり船いっぱいの砂糖樽を盗み出して、那覇まで漕いでいった。売りさばく店と手段が分からず引き返してくると 夜明けとなっており、即座に御用となった。
千原シベーは他の探偵にはたとえ捕まっても抵抗して逃げ通せたようだが、石川探偵には逮捕されると従順に連行されたという。 戦前、垣花の刑務所は那覇港の南側の断崖の上にあった。収監されていた千原シベーは、石垣の上に植えつけてあるガラス瓶の鋭尖を飛び越えて、港を泳いで渡り、町で酒を買って帰り、また、刑務所の壁を飛び越えて中に入り、独房で悠然たる態度で酒を飲んでい たという。その話を聞いた石川探偵は「どのようにして壁を飛び越え たのか、飛び越えられない塀について話してくれるならお前を無罪放 免しよう」と約束した。すると、シベーは着物を脱いで水に濡らし、走っていって塀に駆け上がると同時に手にした着物をガラスの尖頭に打ちかけて、難なく塀を飛び越えたのである。その後、塀は飛び越えられない様に作り替え、それ以来、囚人は飛び越えられななったという。石川探偵は約束を守り、千原シベーを自由にした。


上勢頭集落の井戸の合祀所

上勢頭の北は嘉手納基地に接収されており、基地フェンス沿いは住宅街になっている。少し異様な風景だ。今日話した人は、ここではまだ戦後が続いている。嘉手納飛行場の代替地として、辺野古で工事が行われているが、ここの住民は辺野古基地が完成しても米軍は嘉手納飛行場を放棄しないだろうと思っていると言っていた。利便性では辺野古は嘉手納には敵わない。米軍は一方的で曖昧な条件を付けて移らないので、嘉手納基地は半永久的に返還されないだろうという。

上勢区公民館の東側、嘉手納基地フェンスに隣接する場所に、現在は嘉手納飛行場敷地内になっているが旧上勢頭集落に分散していた井戸 (カー) を集めた合祀所 (遥拝所) が置かれている。上勢区地域の土地造成 (1973~1986年) の際に造成地内のカーをここに合祀したもの。現在では上勢頭としては、祭祀行事は行われていないが、住民は井戸御願 (カーウガミ) を行なっている。

向かって左から、「かー小 (ぐゎ)」、「いなみぬかー」 、「いーま小ぬめーぬかー」、「いなみ小ぬかー」、喜友名組と勢理客組は飲料水として使用していた 「みーがー (新井)」、喜友名組が生活用水として使用し、上勢頭屋取の産井 (ウブガー) だった 「ふぇぬかー (南ヌ井)」の六つの井戸が祀られている。このうち、「いーま小ぬめーぬかー」は所在不明だそうだ。


井戸合祀所の裏側は嘉手納基地でフェンスが設置されている。このフェンスの内側直ぐの所には三つの井戸がある。北ヌ井 (ニシヌカー)、伊礼地井 (イリージガー)、合祀されている南ヌ井 (フェーヌカー) で資料にはそれぞれの説明があった。


伊礼地井 (イリージガー)

上勢頭集落の井戸の合祀所のすぐ北、基地フェンスの内側の谷底に伊礼地井 (イリージガー) がある。滑車はなく、綱で引きあげるタグイガー(手繰り井戸)で、3~4mの深さであった。伊礼家が山林の番人や畑の小作人達が使用する為に掘った井戸だそうだ。水量が豊富で北ヌ井 (ニシヌカー) や南ヌ井 (フェーヌカー) が干上がってもこの井戸の水は干上がったことがなかった。


北ヌ井 (ニシヌカー、与那覇ヌ前ヌ井)

北ヌ井 (ニシヌカー) は柄杓で水を汲むニーブガー (杓井) 形式で、井戸の脇に石の台が立てられており、その台に桶を置いて柄杓で水を汲み入れていた。井戸の前面から水が流れ 出すようになっていて、その水を利用してターンム (田芋) 畑を作っていた。井戸には水神を祀り、石の香炉が置かれている。

屋号 大与那覇の前にある事から、与那覇ヌ前ヌ井 (フナファヌメーヌガー) とも呼ばれ、産井 (ウブガー) として使われていた。水量は豊富だったが、長い旱魃が続くと干上がったそうだ。現在は周囲を金網で囲い保存し、旧2月2日と9月9日には清掃し参拝祈願している。


南ヌ井 (フェーヌカー)

上勢頭集落の井戸の合祀所の近く伊礼地井 (イリージガー) の西、基地フェンスの内側にニーブガー (杓井) の南ヌ井 (フェーヌカー) がある。戦前は畑の土手下にあった。上勢頭の産井 (ウブガー) の一つで、生活用水として重要な井戸だった。南ヌ井 (フェーヌカー) はこの北側の住民が呼んだ名前で、左側に住んでいた住民は西ヌ井 (イリヌカー) と呼んでいた。水質は良好で遠くからも 水汲みにきていた。いまでも拝みに訪れる人が多い。合祀所に祀られている。


嘉手納基地内には幾つかの拝所が残っている。一般人は見学は出来ないのだが、旧上勢頭住民は米軍の許可をとって拝んでいる。


岩小 (シーグヮー)

普天間基地の中に稲嶺組が拝んでいるシーグヮーの拝所が残っている。岩の洞穴の中が拝所になっている。1896年 (明治29年) 頃に稲嶺里之子親雲上盛用がユタの助言で子宝を祈願してシーグヮーに御願所を建立したもの。出産適齢期を過ぎていたが子供が授かった事で、その後、稲嶺一族で崇拝するようになった。 旧暦2月2日のニングッチャー(クスックィ)と、9月9日のクングッチクニチに拝んでいる。戦時中は上勢頭字出身の出征兵士の武運長久、無事帰還を祈願して旧暦毎月の1日と15日に、出征兵士の家族や親戚で拝んでいた。戦後、洞窟入口にコンクリートでお宮風にして改造してある。現在では上勢頭集落全体の拝所となっている。


上原のビジュル

上原組が信仰するウクマガイ矼の西方に、川の土手の所から小高く盛り上がった 小山がある。これが上原後 (イーバルヌクシ) の岩小 (シーグヮ) で、西の麓に上原組のビジュルがある。この上原組は元々は字国直 (クンノーイ) に属していた喜屋武組 (チャングミ) で、1951年 (昭和26年) に稲嶺組 (ンナンミグミ) に加わり、1985年 (昭和60年) に再び稲嶺組から分離して、上原組 (ウィーバルグミ 22戸 現在の字下勢頭に属している) に名称を改めている。明治35年頃まで、喜屋武組 (上原組) の婦人は毎年二回、子供が生まれたときに普天間権現に拝みに行っていたが、道も遠い上に悪路だったので、普天間権現のワカリ (分神) と称される山内の東にあるヒャーナーに参詣して普天間権現のお通し拝み (タンカーノーシ) するようになった。その後、普天間権現の霊石のワカリ (分神) とヒャーナーの霊石のワカリ (分神) を合祀し、集落のクサティ(腰当て、聖域) になっている風水の良いクシヌヤマに置かれるようになった。ビジュルは、2月2日のクスックィと、9月9日の菊酒の祭日に五穀豊穣と健康を祈願し拝まれている。


上勢頭の中に下勢頭の拝所が置かれているのだが、そこの訪問の写真は、下勢頭のレポートに記載する。




参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の拝所 (1995 北谷教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
  • 上勢頭誌 上巻 通史編 (1997 旧字上勢頭郷友会)
  • 上勢頭誌 中巻 通史編 (1993 旧字上勢頭郷友会)
  • 上勢頭誌 下巻 長寿・人物編 (1998 旧字上勢頭郷友会)