二十二冊目【子どもは判ってくれない】
【子どもは判ってくれない】
著者 内田樹
出版 洋泉社
はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。自分は何かを「やりたくない」「できない」という場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
内田さんの著書は目に入ったら購入して目を通すようにしているので、必然的に営んでいる古本屋にも多く並んでいます。ぼくはとっても内田樹の影響を受けています。同様に河合速雄の影響も受けているし、柳宗悦や鈴木大拙の影響も受けている。でも、ぼくが普段話していることの出典を探れば、おそらく内田樹が書いたことが一番多いような気がします。身体と思考についてや、危機感についての考察については、なるほど。と唸ったことをよく覚えているし、ウェブで公開されている内田さんの文書を普段からなんの気なしに流し読んでいる。なんの気なしに見ている点で、内田さんの文書はぼくのなかで自分の思いついたことと混ざり、分別がつかないようになっています。普段大学生、それも女子学生に対して講義をされていたからか、内田樹の文書は世間話のような雰囲気がある。そして、どこか適当な感じがすごくする。もちろん、いい意味でだけれど、「そんなところつっこむなよ、知らないよ、そう思ったんだから仕方ないだろ。」みたいな雰囲気がある。確かに説得力があるけれど、突き詰めるとするりと逃げてしまう。そのあたりは、タモリと通じるところがあるように思う。
本書はウェブで公開されいる記事のいくつかをテーマに沿って再編成したものだ。だからこそ、ブログを書いたその時々の内田樹がいて、持ち味のいい加減な雰囲気がよく出ていた。内田樹の本を教科書のように崇めるのは難しいだろう。きっと本人も嫌がりそうだ。「悪とはシステムを無批判に受け入れることである」と言ったのは、思想家のハンナアーレントだが、内田樹も同じように我々に対して、問うているように思う。「信じるな」「断定するな」つまりは、わからないということを認めるということだと思うが、人はどうしても明確な答えをほしがる、そういう人には内田樹の文書はとても不快だろう。
引用した文書に関して、ぼくも同じうようなことをよく話している。ぼくにも苦手なことがたくさんある。意外かもしれないけれど人付き合いもそんなに得意ではないし、運動は本当に嫌いだ。そして、嫌いなこと、苦手なことに関してはとことんなぜそうなのか?を問い続けてきた。「好きなこと」に関しては、迷うことなく「好き」だといえる。そもそも説明する理由がない。「好き」だから「好き」でしょうがないと思っている。だけど、嫌いなこと、苦手なことにはかならず理由を見つけたがる。そして「なるほど!○○だからか!」と膝をついたことによって、嫌悪感や苦手と自分のなかで適正な距離をとることが可能になった。本当にそうかは知らないけど、そう思っている。昔はそれができなかったから不登校になったのだと思う。まぁ当時の自分からしたらその選択も「適正な距離のとり方」だったのかもしれないけれど。
最近は「好きなことを仕事にできていいね。」というニュアンスのことをよく言われるようになった。とんでもない、ぼくは「苦手なこと」「嫌いなこと」から距離を置く選択を続けてきたら今の場所で暮らしていたに過ぎない。だから、「優れた専門家」でもないし、「陶芸全般に造詣が深い」わけでもない。それに、そういう立ち居地は常に相対的で競争が激しいしいろんな意味で危ない。ぼくには「好き」の芯がはっきりしてるのではなくて、その周りにある「苦手」と「嫌い」を気にしていたら「好き」の輪郭が見えるようになったにすぎない。そして、そのこだわらない生き方のほうが、自分が苦手な人や嫌いなことと適度に距離をとることが出来る。「好き」に内側から強い輪郭がないから、外の嫌いなものに応じて、形を変えることに抵抗がない。自信満々に好きなことをやっていたらそういうわけにはいかない、硬いということは危ないのだ。だからぼくは「好き」を前面に掲げようとはちっとも思わない。