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Okinawa 沖縄 #2 Day 272 (09/10/24) 旧北谷間切 北谷町 (10) Shitaseido Hamlet 下勢頭集落

2024.10.11 06:15


北谷町 字下勢頭 (シチャシードゥ、したせーどー)



字下勢頭は全土が嘉手納飛行場基地の軍用地に接収されているので、基地内に残っている拝所や戦争遺構は訪問出来ないのだが、合祀所が上勢頭の中にある。上勢頭集落を巡っている途中で訪れた。



北谷町 字下勢頭 (シチャシードゥ、したせーどー)

下勢頭集落は上勢頭集落の北側に位置し、土地の全てが米軍嘉手納基地に接収されたままになっている。下勢頭集落は18世紀半ばに首里の士族が帰農して成立した屋取集落で、この村立てには佐久川家が深く関わっていたと伝わり、佐久川屋取 (サクガーヤードゥイ) とも呼ばれていた。(1919年の地図には佐久川と記載されている) 戦前には135軒と比較的大きな屋取集落で、北谷村 (当時は現在の嘉手納町も含む) で5番目に戸数の多い村までに発展していた。1920年 (大正9年) に字浜川から分離独立して下勢頭となっている。

集落は前村渠 (メーンダカリ) の一組 (イチクミ 戦前33戸)、ニ組 (ニクミ 37戸)、後村渠 (クシンダカリ ) の三組 (サンクミ 25戸)、四組 (ヨンクミ 37戸) の4つの組に分かれ、綱引きは、南側の前村渠と北側の後村渠で行われていた。下勢頭の事務所 (シムス) やユシミヌ神、周辺には聖域のアシビナシーがある三組 (ウチ屋取) が下勢頭の中心だった思われる。

農業を中心とした集落で、砂糖屋 (サーターヤー) は一組に7か所、ニ組に4か所、三組に3か所、四組に5か所、合計19か所あった。血縁中心や隣近所で組を作り、使用していた。戦後は土地が米軍に接収された事で農業を続けることが困難になり、本土復帰前迄は米軍雇用員が一番多い職業だった。本土復帰後は会社員、自営業など民間企業に従事が多くなっている。


入植当初は徳川 (トゥクガー) から馬で水を運んでいたが、その後、前ヌ井 (メーヌカー) と南ヌ井 (フェーヌカー) の共同井戸が造られた。大正時代から昭和時代にかけては、各家に井戸を掘るようになった。1935年 (昭和10 年) 代から水対策として補助金を使用して水タンクが設置され、一組に2基、ニ組に6基、四組に3基あった。

大正時代に入ってからは、瓦屋 (カーラヤー) が40軒もあり、比較的裕福な集落に発展し、闘牛やアシビ (遊び) などで有名だった。

沖縄戦では158名の戦没者を出している。戦後は米軍基地として下勢頭集落全体が接収されている。現在も嘉手納基地となっている。

元の集落があった場所には帰還は叶わず、旧住民は沖縄市と北谷町内の他集落へ分散して暮らしていたが、1990年代に上勢頭集落の一部が返還されると住宅地が開発され、旧下勢頭の住民は故郷に近い上勢頭や沖縄市などに移動し住んでいる。旧下勢頭住民は郷友会を組織し、上勢頭内に会館を建設し、住民間の親睦や文化の保存継承の活動を行なっている。

字下勢頭は全面基地内で、この地域には住民は住んでいない。旧下勢頭住民の多くは上勢頭に住んでおり、自治は上勢区として行われている。


下勢頭集落の拝所と祭祀行事

下勢頭集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャーグワー (旧暦2月2日~3日): 1日目は前村渠と後村渠に分かれ、更に29歳までのニーシェーター、30~49歳までのヤクミー、50歳以上のタンメーの3組に分かれ、ヤードゥに集まり、ニーシェーターから年長者に三枚肉、天ぷら、豆腐などを差し上げていた。2日目はアシビナー (遊び庭) に集合し、合同祭を行なっていた。た。
  • 綱引き (旧暦6月16日): 綱引きは前村渠と後村渠に分かれて行なわれ、綱引きの後はムンチャリナーで沖縄相撲を開催していた。
  • ウシオーラセー (旧暦6月25日・7月17日・8月10日・9月9日): 年に4回闘牛 (ウシオーラセー) が行なわれ、6月・7月・8月は練習試合、9月9日が本試合だった。下勢頭は闘牛が盛んな地域で、近年でも勢頭闘牛組合を組織して、不定期ではあるが闘牛を開催していた。
  • 旗スガシー (旧暦7月7日): 芝居の旗やアシビに使う道具を虫干しを行なっていた。
  • 盆 (旧暦7月): 旧盆にはヤイサー (エイサー) を披露していた。
  • アシビ (旧暦10月~11月): 10月か11月の農閑期には不定期に村芝居のアシビを開催していた。


下勢頭集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: アシビナージー (遊び庭岩)、ユシミヌ神 (四隅の神)
  • 井泉: 花城ヌ前ヌ井、南ヌ井


下勢頭集落の合祀所 (アシビナージー、ユシミヌ神、花城ヌ前ヌ井)

下勢頭集落は全域が米軍嘉手納基地として接収されたままで未だ返還予定はない。その事から、旧集落にあった住民の御願所を合祀した拝所を設置している。上勢頭集落の東側の丘、受水井 (ウキンジュガー) から上勢頭の井戸合祀所ヘ向かう途中の高台に設置されている。そこからは、戦前にあった旧下勢頭集落の地が眺める事ができる。

合祀所には「南無諸大明神」と刻まれた石碑が建てられている。村の東西南北を守るユシミヌ神 (四隅の神) を祀っている。石碑表面に両脇にはその四神にあたる東方の「持國天王」、西方の「廣目天王」、南方の「増長天王」、北方の「多聞天王」 と刻まれている。土台には「年豊人楽」と刻まれ、その前には香炉 (ウコール) が置かれ、御願解ち(旧暦12月24日) や腰遊憩(旧暦2月 12日・3日) の際に五穀豊穣が祈願されていた。

合祀所に端、旧集落に向けて「お通し所」と刻まれた遥拝所が設けられ、嘉手納基地内にあるアシビナージー (遊び庭岩)、花城ヌ前ヌ井 (ハナグスクヌメーヌカー)、大池の水ヌ神、南ヌ井 (フェーヌカー)、徳川 (トゥクガー) を遥拝している。合祀所に置かれている説明板にはこの合祀は「当分の間」とある。いつかは故郷への帰還が実現するという想いが表れている。


  • アシビナージー (遊び庭岩) はかつては、下勢頭集落と上勢頭集落の境界近くにシードゥヌシー (勢頭岩) と呼ばれる岩塔があり、その北側に下勢頭集落のアシビナー (遊び庭) があった。旧暦12月24日のウガンブトゥチ (御顔解き) や2月2日のニングヮチャー (クスユックイ 腰憩め) などで遥拝されている。さらに詳しい説明が後述。
  • ユシミヌ神 (四隅の神) は三組の集落の東西南北四隅に置かれていた。仏教で東西南北を守護する東方の持國天王、西方の廣目天王、南方の増長天王、北方の多聞天王を祀る「南無諸大明神の石碑」が置かれ、アシビナージーも合祀されている。ここでは旧暦12月24日にウガンブトゥチ (御願解き) の行事が行われた。
  • 花城ヌ前ヌ井 (ハナグスクヌメーヌカー) と村人が野良仕事からの帰り農具や野菜を洗う大溜池 (ウフグムイ) のミジヌ神 (水の神)をここに御通し所 (遥拝所) の石碑を建てて、旧暦12月24日に遥拝している。この井戸が使用される以前はトゥクガー (徳川) や南ヌ井 (フェーヌカー) 使っていたが、地理的な利便性からこの井戸を利用するようになったのではないかと思われる。


ここに合祀所以外にも嘉手納基地内には旧住民にとり大切にしている場所がある。訪問はできないのだが、資料にはそれぞれの説明が記載されいた。


フィラカージー (平担岩)

フィラカージーは下勢頭集落の東側にあり、上勢頭集落との間にあった。下勢頭側からこの岩山を見上げるとそびえ立つという感じであった。フィラカージーに隣り合い、タカジー (高岩) 及びナーカヌシー (中の岩) の三つの岩山が連なっていたが、特にこのフィラカージーは字民に親しまれた。なだらかで子供でも難なく頂上まで登ることができた。その名のとおり頂上は平担で広く、芝生が生えていた。頂上からの眺望は素晴らしく、東シナ海は那覇から 残波崎まで一望でき、国直や山内、諸見里、呉屋 (現胡屋) 集落まで望見できた。また、下勢頭では概ね五年毎にアシビ (遊び) があったが、その際は子供達が銅鑼、太鼓、法螺、金鼓等を打ち鳴らし、周辺の集落にアシビのあることを知らせていた。上勢頭では船で旅に出る人が居る場合は、航路の無事を祈願するために女性達がチジンを打ち鳴らし、ダンジュカリユシを歌って船が東シナ海から見えなくなるまでこの場所で見送りをしていた。


アシビナージー (遊ビ庭岩)

アシビナージーはフィラカージーと集落中心部 (ウチヤ ードゥイ) の間にあって、なだらかで中央部は岩山になっている。下勢頭は昔から芸能が盛んな字で、明治20年代 からアシビの催しがあった。当時はこの山の裾野の広場に舞台を作ってアシビを催したので、何時の間にかアシビナージーという名が付いたという。1927年 (昭和2年) に集落の中に字事務所 (ジムス) ができ、それ以降のアシビはこの字事務所で行われた。

また、アシビナージーは下勢頭にある拝所の一つになっており、戦前はニングワチャー (二月祝) には二日目の午後は前村渠 (メー ンダカリ) と後村渠 (クシンダカリ) の合計六カ所の会場 (ヤードゥ) から出て来た男性達が道々を賑やかに三線や太鼓を打ち鳴らし、大根の花やススキ等で飾った旗頭を振ってスネーイ (行列) をしてアシビナーに向かったものである。そして、アシビナーではアシビの神に御馳走を供え、数々の踊りを奉納した。

平成12年に郷友会中心にアシビナーにアシビナーヌ御神の碑が建てられている。


ウカマジー (御釜岩)

ウカマジーは下勢頭集落の西側に位置する円錘カルストの丘陵である。下勢頭の集落民はその一帯から墓石を採掘したり、タキギを集めたりした。第二次大戦中には1945年1月頃に日本軍によって海軍第11砲台 (15.5cm砲) が築かれ、現在でも丘の中腹にはコンクリート製の砲座とそれに繋がる陣地壕 (右上図)、丘の上にはコンクリート製の観測所跡が現存している。

第二次世界大戦では1944年8月以降、第62師団( 石部隊) 独立歩兵第15大隊が移駐し、各地で米軍の上陸に備え、戦車止めや戦車穴が掘られていた。ウカマジーの丘には海軍第11砲台が設置されていた。海軍砲台には、喜友名小屋取から14名の女子青年が海軍女子挺身隊として徴用され、下勢頭からも女子青年団57名が、砲弾運びに動員された。海軍砲台からは2発の砲弾発射を行った事で、米軍の攻撃標的となり、40名近い兵士の35-36名が戦死している。ここに徴用されていた女子挺身隊の女子青年団はウカマジーの壕などに避難していたが、逃避行の中で銃撃され、最後には軍から支給されていた手摺弾を爆発させて自決した者も含め17名が戦死している。1950年に旧桃原3区公民館跡に「護国挺身隊の碑 (写真右下)」として納骨堂が建てられていた。その後遺骨は、1979年国立沖縄戦没者墓苑に遷骨され、護国挺身隊の碑は取壊されている。


ウシナー (勢頭闘牛場)

ウシナーは下勢頭集落の南側にあり、下勢頭から上勢頭に通ずる俗称ウシモーミチ (牛毛道) に接するように位置していた。下勢頭と上勢頭が共同で稲嶺家所有の土地を購入して闘牛場に仕立て、管理も両方で当たっていた。勢頭闘牛場は明治30年代に出来たのではないかと思われる。闘牛場の周囲には琉球松の大樹が群生し、見物席は真夏でも日に照らされることなく快適に闘牛見物が出来た。その広さや景観からして開設当時は沖縄一の闘牛場であったと言う。

闘牛の出入りする通路が東側と西側の両方にあり、東側は上勢頭、西側は下勢頭の各牛が出入りするのに使われていた。両入口の間の小高い場所は来賓席や招待席として格好の場所であった。また、東西の見物席はなだらかな傾斜で幾段にもなっているので多数の人がゆったり見物できた。



これで戦前にあった北谷町の集落全てを見終わった。戦後、海岸が埋め立てられて宮城区と美浜区が誕生している。この地域は、北谷町の発展に大きな貢献をした地域で、アメリカンヴィレッジやビーチなど人気の観光資源が作られ、それに伴い、大型ホテル、商業施設、集合住宅などが立ち並んでいる。近いうちにこの地域も散策する予定だ。




参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
  • 下勢頭誌 戦前編 (2001 北谷町下勢頭郷友会)
  • 下勢頭誌 戦後編 (2005 北谷町下勢頭郷友会)
  • 平安山ヌ上集落跡・下勢頭集落跡 嘉手納保安施設文化財発掘調査 [北谷町文化財調査報告書 第47集] (2022 北谷町教育委員会)