空海への信仰が根付く島
https://www.nhk.jp/p/fudoki/ts/X8R36PYLX3/episode/te/MY7N4K4L98/ 【「長崎 五島列島の春」】より
「長崎 五島列島の春」
初回放送日:2024年5月20日
長崎の西、30ほどの島に人が暮らす五島列島。海流がぶつかる海には伝統の漁場があり、遣唐使の船がたどり着いた島には空海への信仰が根付く。故郷の島を愛する人々の物語
大小140を超える島々が連なる長崎・五島列島。春、進学や就職、転勤などで島を離れる人々を送る盛大なセレモニーが港で繰り広げられる。「東洋一」といわれたブリの漁場では漁師たちが「万越し」をめざし網を引き、お大師さんの信仰が根付く地域では各家の豪華な祭壇で参拝客をもてなす。一方で、水不足に悩んだ島や、島民がたったひとりになった島、児童数の減少で閉校する小学校も…。故郷の島で暮らすことを選んだ人々の物語
https://webtaiyo.com/column/8885/ 【空海 祈りの絶景 #1 金峯山での山林修行】より
#空海 祈りの絶景
#1 空海が祈りを深めた山を巡る
空海という一人の人間の生涯を辿るとき、個人的にもっとも興味を抱くのは、青年時代に山林修行に身を投じていたという点である。おそらくそれは、私たち夫婦が、気候や風土は異なるとはいえ、北海道の小さな森で、山を望む暮らしをしてきたこととも関係しているのだろう。
奈良県南部の金峯山(きんぷせん)は、若き空海が山林修行をしたと伝わる地。吉野川の河岸から吉野山の最高峰、青根ヶ峰を経て、山上ヶ岳までの峰々を指すというこの金峯山と呼ばれる一帯は、古来、山岳信仰の聖地であり、多くの山林修行者が祈りを深めた場所でもある。
吉野山、上千本からの眺め。古くから桜の名所として名高い。
金峯山の地主神、金山毘古神(かなやまひこのかみ)を祀る金峯神社。吉野山の最奥にある。
古来、日本人にとって、山は神が天降り、鎮まる聖地だった。同時に、祖霊が鎮まる他界でもあり、容易に足を踏み入れてはならない場所だった。
一方で、山は水という恵みを里にもたらす。特に吉野山は、古代王朝のあった大和平野を潤す水源地。標高858mの青根ヶ峰からは、東西南北に4つの水流が生み出され、水分(みくまり)の山としても信仰を集めてきた。
吉野水分神社には、水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)も祀られている。
吉野水分神社。かつては青根ヶ峰に鎮座していたが、現在は標高600mほどの地に遷されている。
そんな山林修行の様子を、空海は、24歳のときに著した戯曲風の『三教指帰(さんごうしいき)』で、自身のモデルと思われる仮名乞児なる青年に、こんなふうに語らせている。
「あるときは金巌(きんがん)に登って、雪に逢うて坎壈(かんらん)たり」。
「金巌」、つまり金峯山に登って雪に降られ、困窮したというのだ。さらに、霜を払って野の草を食べ、雪を払って肘を枕に寝たとも書いている。
当時空海は、どんな風景の中に身を置いていたのだろう。
今は人の手があちこち入る吉野山を歩きながら、そんな想いが芽生え、大峯奥駈道を歩いたのは1年ほど前のこと。
もっとも、本来この道は女人禁制。現在も、山上ヶ岳周辺だけではあるが、女性は入れない。それもあって、今回は南奥駈と呼ばれるルートを歩いた。
(左)前鬼の宿坊、小仲坊から約1時間のところにある禊場「垢離取場(こりとりば)」。垢離とは、身についた罪・穢れのこと。(右)小仲坊から太古の辻に向かう途中の「二つ岩」。
道中目を引いたのは、木々の姿。
一つとして同じ樹形のない木々が、それぞれ生き様をさらけ出し、自らの立ち姿だけで、生きるとはどういうことかを、雄弁に、正直に語っていた。
あるものは折れて倒れ、
あるものは、まるで仏像を抱く光背のような形で残っている。
倒木のそばには、ひっそりと息づく小さな生命。
それぞれが定められた場所で生をまっとうする姿は、すべてが等しく美しく、静謐で濃密な空気をまとっていた。
森は、そして山は、生と死が同居する場所。
当たり前のことが、ストンと腑に落ちた。
空海は、やはり『三教指帰』の中で、食べるのはどんぐりなどの木の実や草で、10日も食べられないこともあれば、衣類も葛の蔦で織った粗末なもので、両肩を隠せないほどだったと書いている。だが、贅沢な食事や、立派な衣服を願う気持ちはない、と。
聖なる山に足を踏み入れる畏れと慎み。その想いは、空海の時代はいっそう強かったことだろう。一方で、人の手垢がつかないものを食べ、着て、心身を清浄に保ち、自然と同化しながら、自分という一つの生を全うする充足感にも満たされていたことだろう。
「志は已(すで)に奪われず」。
空海の言葉には、仏道を歩むという確固とした意思が感じられる。
大日岳にある行場。山頂では、真言密教の本尊、大日如来の像が出迎えてくれる。
途中、熊野修験者(那智山 青岸渡寺)とも出会った。神仏の鎮まる地で祈りを捧げる心は、修験道として今も脈々と受け継がれている。
では、空海は具体的にどのような修行をしていたのだろう。
そんな問いへのヒントを得るべく、吉野川の川向こうにある世尊寺(せそんじ)に向かったのは、この寺が、かつて山林修行者が集うサロンのような場所だったと耳にしたからだ。
当時比曽寺(ひそでら)と呼ばれたこの寺では、空海のような優婆塞(うばそく=出家をしていない民間の宗教者)はもちろん、興福寺や元興寺、大安寺など、奈良の大きな寺の学僧が盛んに出入りしていたという。
「月の前半の、1日から15日までは山林修行をし、16日からの後半は、奈良の大きな寺に戻って仏典を勉強する、そんな修行スタイルがあったようです」。そう教えてくれたのは、徳島県の空海ゆかりの地、太龍寺の副住職、島村泰史さん。
「たとえば薬草の勉強をしたり、ヘビを捕まえて、これが薬になるんじゃないかとか、実地勉強をしていたみたいです」。
一説では、闇夜の地光によって鉱脈の有無を占い見る方法が試されたとも言われている。金峯神社のご祭神が、鉱物を司る金山毘古神であることも、それと無縁ではないだろう。
では、なぜこの寺に多くの山林修行者が集まったのか。
それは、この寺が吉野寺と呼ばれていた飛鳥時代、法興寺(現在の飛鳥寺)や法隆寺、四天王寺と並ぶ4大寺院の1つであり、一時は護摩堂3つを含む、16もの伽藍が建ち並んでいたという、隆盛ぶりにあるだろう。
世尊寺(旧比曽寺)の境内。右にある本堂の裏が、かつて伽藍が林立した場所。現在は禅宗寺院だが、室町時代までは真言宗だった。
加えて、奈良時代は虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という秘法が、この寺で盛んに行われてもいた。ご住職によれば、現在礎石のみ残る東塔跡には、もともと聖徳太子によって建てられた五重塔があり、虚空蔵菩薩が祀られていたという。
虚空蔵菩薩は、虚空蔵求聞持法を修行する際、ご本尊となる欠かせない仏様。修行中は、記憶力を高めるため、知恵の菩薩である虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるという。
もっとも、この仏像がいつ作られ、現在どこにあるかはわからなくなっている。東塔の五重塔も、戦国時代の文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見城に移築した際、三重塔となり、その後慶長6年(1601)に、徳川家康によって滋賀県の園城寺(おんじょうじ)に寄進された。
とはいえ、空海もこの地で求聞持法を行ったという説があるのは、おおいにうなずける話だった。
一方、空海が金峯山で山林修行をした際、拠点としていたと伝わるのが、天川村にある天河大辨財天社。
近隣の天峯山には、江戸時代まで求聞持堂があり、「お大師さんがそこで虚空蔵求聞持法をしていたと、先人から伝え聞いています」と宮司の柿坂匡孝さんは言う。
実はこの神社には、空海が護摩を焚いた後の灰と土を練って作ったとされる「灰練り弁天」が残っている。
空海が作ったとされる灰練り弁天。今回はその写しを見せていただいた。表には弁天様と眷属(けんぞく)の15童子が彫られ、裏には手形と空海の文字。手の大きさは思いのほか小さい。
空海は、この神社のご祭神である弁財天を日本の4大弁財天、つまり天河、竹生島、江ノ島、厳島の中で第一に挙げ、法力を与えてくださる法弁天と言い表したと伝わっている。
「お大師さんは弁天様を自分の母親のような存在で崇め祀ったと言われています。さまざまな地で満月を弁天様の光として拝み、神様とのうけい、たとえば水田だったら、次の満月までにうまく水が引けるよう努力するなどの約束を交わされたとも捉えられています。中国の唐では、水利土木技術なども学んだようですし。ですから、それぞれの地にふさわしい農業のやり方や暮らしを導いていくわけです。よく、お大師さんが杖でトントンと叩いたら、そこから水が湧き出たという伝説が残りますが、それだけ水脈に関して熟知していたということだと思います」。
まだまだ尽きない空海談義。今回はひとまず、ここで終わることにしよう。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。
https://webtaiyo.com/column/9280/ 【空海 祈りの絶景 #2 金峯山での山林修行 その2】より
#2 「お山」で行われる修行を追う
見渡す限り、山また山の風景が広がっている。
大峰山脈を望む風景。
若き空海が山林修行をした金峯山(きんぷせん)、つまり吉野山から山上ヶ岳までの一帯を経て、南の熊野三山に至る山々は、大峰山脈と呼ばれている。
空海が金峯山での修行の際、拠点にしたと伝わる天河大辨財天社の奥宮は、この大峰山脈の中央部、弥山(みせん)に鎮座する。
標高1895mの弥山(左)。大峰山脈では八経ヶ岳(右の太陽が登っている山)に次いで高い。古くは深山、御山と呼ばれ、仏教伝来後に古代インドの世界で中心にそびえる聖なる山、須弥山(しゅみせん)が転じて弥山となったという。
「大峰山系を見渡すと、北の吉野側は起伏の激しい山で、人生の浮き沈みを象徴する世界観があります。逆に弥山を越えて熊野側になると、山が穏やかになってくる。つまりお母さんのお腹の中の世界観があります」。そう話すのは、この神社の宮司、柿坂匡孝さん。
中世の文献によれば、大峰山脈は金剛界曼荼羅(吉野側)と胎蔵界曼荼羅(熊野側)が一体となっている融合の地で、この神社も、吉野熊野中宮と呼ばれた時期があったという。
「だからこの地は、お腹の中から赤ちゃんが生まれる瞬間の場所。つまり誕生、出発、蘇りの地なんです」。
大峰山脈には、尾根づたいに一本の道が続いている。大峯奥駈道――。修験道の修行場として開かれた道である。
吉野山最奥の金峯神社にある修行門(左)。金峯神社周辺にある石碑(右)。歴史的に、大峰山脈のうち吉野の青根ヶ峰以南は「大峯」と呼ばれてきた。
大峯奥駈修行の様子。
修験道とは、古くからの山岳信仰に、神道や仏教、道教、陰陽道などが入り混じって成立したとされる日本固有の民族宗教。山を道場とし、自然と向き合う実践が重んじられている。
かつてこの山で修行する修験者(山伏ともいう)は、山中に入る前に「御嶽精進(みたけそうじ)」と呼ばれる厳格な精進潔斎(肉や魚、酒などを断ち、心身を清めて行いを慎むこと)をしていたという。滝に打たれ、水中に身を沈める水垢離(みずごり)と呼ばれる行をするのも、心身を清めるため。山の神は、不浄や穢れを嫌うと考えられていたからだ。
天河大辨財天社が鎮座する天川村の不動滝。天川村には、川が龍のように蛇行しながら流れている。
水の神、弁財天を祀る天川村の天河大辨財天社も、
「大昔は本殿のある小高い丘の琵琶山を囲むように、大峰山系を源とする川が流れ、浮島のようになっていたそうです」と柿坂さん。琵琶山には巨大な磐座(いわくら)があり、その岩の中心には、御神体である真名井と呼ばれる井戸があるという。
天河大辨財天社。鳥居の向こう、階段を登った先に本殿がある。現在は境内の西側にある赤い橋の下に、天ノ川(てんのかわ)と呼ばれる川が流れている。
かつて空海が修行の拠点とし、その後この地に7堂伽藍が建立され、真言密教の修行の場となった背景には、水の豊かな聖地であることも関係していたのだろう。
ちなみに、この地から西に24kmほどの距離には、のちに空海が開山することになる高野山がある。
天河大辨財天社の向かいにある来迎院。かつては神宮寺と称していた。境内には梵字の「阿」の字を刻んだ石碑(右)があり、江戸時代までは碑の前で法話が行われ、弘法大師伝説が語られていたという。
「神道のお祭りも、祓いで始まり、祓いで終わります」。柿坂さんは言う。
「神事だけでなく、直会(なおらい)までがお祭りです。神様にお供えしたものには、神様のエネルギーが宿っています。それを食することで、その力をいただき、それによって自分が浄化され、神と一体となるという考え方です」。
神道でいう「神人合一」と、空海が真言密教の根本に据えた「即身成仏」。アプローチの方法は異なるものの、聖なるものと一体となりたいという願いは、古来日本という国土に生まれた人々が持ち続けてきたものなのだろう。
天河大辨財天社の本殿に相対する能舞台(左)と、拝殿にある御神宝の五十鈴(右)。
では、なぜ心身を清浄に保つことが必要なのだろう。
「神道には『浄明正直(じょうめいせいちょく)』という言葉あります。心身が清らかになれば、心が軽くなって明るくなり、正しい道に進むことができて、心も素直になれるということです」。
この地に生まれ、神職の家に育ちながら、神社の向かいの来迎院が幼稚園代わりの寺子屋のような存在だったことから、仏教は身近だったという柿坂さん。「般若心経」や「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」の文言も自然に耳から覚え、唱えていたという。
「神様も仏様も、祀ってあるというより、常にいらっしゃる。だから一体だと捉えています」。神仏習合の自然な姿が、大峰山脈一帯には存在する。
一方、「想像ですが、お大師さんは役行者(えんのぎょうじゃ)さんに憧れて、このお山に来られたのではないかと思います」と話すのは、吉野の金峯山寺執行長の五條永教さん。
役行者とは、空海より100年ほど前の飛鳥時代に、スーパーマンのような活躍をしたと伝わる修験道の開祖で、金峯山で修行した際、山上ヶ岳で金剛蔵王権現を感得。その姿を吉野の山桜の木に彫刻し、山上ヶ岳と吉野山にお堂を建てたのが、金峯山寺のはじまりとされている。
吉野・上千本から金峯山寺蔵王堂を望む。
吉野の中千本に位置する金峯山寺。
「お山は、一言で言えば神様仏様。お山の上を歩かせていただくというイメージです」。
五條さんは、大峰の山々のことを、「お山」と慈しむように発音する。
普段は柔らかな物腰の五條さん。だが、平成21年(2009)、金峯山寺から山上ヶ岳までの約24kmの道のりを、単独で100日間休まず歩く、大峯百日回峯行を満行。その後も毎年、一般募集した人たちと熊野までの奥駈道を歩く、大峯奥駈修行を続けている。
特に大峯百日回峯行は、ある意味、役行者や空海が置かれた状況に近づく修行。前半の50日間は、山上ヶ岳で1泊して1日で片道を、後半の50日間は1日で往復、つまり前半の倍の距離を歩くという。
「行中はどこで拝んで、どんなお経を上げ、どんなご真言を唱えて、どんな作法をするか、代々伝わる次第があり、拝む場所もたくさんあるので、ゆっくり立ち止まることはありません」。
唱える真言やお経も、拝む対象によって変わるという。
「真言はインドのサンスクリット語を起源とする、大切な真理が凝縮されている言葉です。でも、要は神仏が喜ばれる言葉。唱えることによって、神様仏様が心地良くなられて、心が通じ合える、そんなイメージでしょうか」。
吉野の奥千本近くにある不動明王像。
では、歩きながらどんなことを考えていたのだろう。
「一歩一歩、一瞬一瞬のことしか考えられないです。一歩失敗して転んだら、頭を打って死んでしまうかもしれないし、風に吹かれて崖の下に飛ばされるかもしれない。そんな生命の危険を感じながら歩きますから。ただそういう状況に置かれると、本来誰もが持っている、普段発揮されていない生きるための防御機能が、フル回転してくるんです」。
自然との一体感を感じることはあっただろうか。
「私の場合は、ときどき飛んでいるのかと思うくらい体が軽くなり、何も考えないで調子よく歩ける瞬間がありました。といっても、すぐ元に戻るのですが、突然そうなる瞬間が訪れるんです。おそらくその瞬間は、空気のように周囲の自然の中に紛れているのでしょう。
自然との一体感を持つときは、細胞の一つひとつが同じ方向を向いている気がします。耳に入ってくる水や風の音、鳥の声、さらに気温や湿度の変化など、さまざまなことを、頭だけではなく細胞も感じて、その一つひとつが意志を持って、それぞれの役割を果たそうと頑張ってくれている。そんな不思議な気持ちになりますし、大いなる力に生かされているというありがたい気持ちになります。だからまた頑張れる。ですから人間は、本来底知れない力を持っていると思います」。
私的な感想で恐縮だが、自然との一体感と「即身成仏」、両者は似た境地のように思える。修験道には密教の要素がさまざま入っていると聞く。五條さんは「即身成仏」についてどうお考えなのだろう。
「生きたままみんなが仏様になれるということですよね。仏教は、誰もが仏様になる可能性をすでに持っているけれども、それが表に出ていないだけのことで、誰でもみんな仏様になれるという教えなんです」。
とはいえ、真言密教では「即身成仏」という言葉が、際立って強い印象を与えている。
「それは、そうなるための術(すべ)をはっきり伝えているからだと思います。たとえば法華経などにも、誰もが仏様になれる仏性を持っていることを、喩えなどを使って工夫して書かれています。でも、その術までは書かれていません。その点密教は、たとえば仏様それぞれのはたらきや功徳(くどく)などを、手の指を使ってさまざまな形にして表現する印(いん)を結び、それに伴うご真言を唱え、その仏様のお姿を心の中でイメージしなさい、それをすると仏様になりますからと、方法が明確なんです。ただ、文字には表さず、認めた人しか面授(めんじゅ)してはいけないというルールがありますから、よけい印象に残るのかもしれません」。
もとは山上ヶ岳頂上の蔵王堂正面前に立っていたという妙覚門の扁額。額字は弘法大師が書いたと伝わる。動植物の姿を想起させる独特の筆運び。蔵王堂内に展示されている。
密教の要素は、山伏(修験者)の装束にも入っているという。
「鈴懸(すずかけ)と呼ばれる衣は、実は曼荼羅を表していて、一つひとつに全部意味があります。たとえば頭巾(ときん)は、大日如来様の宝冠を表していると同時に、仏教の基本的な考えの一つである12因縁の中の煩悩の根源、迷いの中にいる無明(むみょう)を表している、というように、仏様の聖なる意味合いと、その逆の、煩悩という俗の意味合いをすべてに持たせているのです。
つまり聖と俗が一体となった鈴懸を着て修行することで、仏様になっていないあなたも仏様になれますよと、装束で表している。そういう前提のもとに、お山に入っていくわけです」。
さらに、話題は真言密教の根本理論である「六大(ろくだい)」にまで広がった。「六大」とは、森羅万象を成り立たせている「地水火風空」、つまり大地のように堅固な性質を表す「地」、清涼な性質の「水」、熱烈な性質の「火」、流動的な性質の「風」、漠として無限の広がりを持つ「空」という五大の物質的な要素に、精神的な要素を表す「識」を加えたもので、宇宙本体、ひいては密教の本尊である大日如来を表しているという。
「人間も、たとえば骨が『地』だとして、『水』分、そして、熱を持つので『火』があり、呼吸という『風』がある。『空』は大気、空間でしょうか。つまり五大があり、精神という『識』があるので、大日如来様と同じ要素から成り立っているといえます。同じように、言葉を話さない細胞それぞれにも、私は意志があると思っているので六大があり、仏性がある。そう考えると、動植物や鉱物にも仏性があることになる。そんなことを、お山の修行で、ほんの一部ではありますが、感じさせていただいたと思います」。
ともあれ、「あなたも仏様になれる」とは、こんな私でも? と思いつつ、勇気が出る言葉である。
「そのことにしっかり気づいて生きるのと、気づかずに生きるのでは大きく違うと思います。ただ、頭の中で気づいてもダメなんです。ですから一歩一歩精一杯という状況の中で、100日間休まず歩くことを繰り返し、それによって細胞一つひとつが気づき、納得して、ととのっていくのでしょう」。
「ととのう」とは、具体的に言うと?
「お山に入って、大自然に細胞のベクトルを向けていくと、それまでバラバラな方向を向いていた細胞一つひとつが同じ方向に向くようになって、細胞全体がととのうということです。バランスがとれて、うまくいくようになる。ひょっとしたら魂という表現も、細胞全体のことを言っているのかもしれません。
日本には古来ハレとケという言葉があります。ハレは非日常、ケは日常を表し、ケガレは気が枯れること。だからハレのことをするわけですが、お山に入る修行というのは、ハレなんです。神仏に近づかせてもらって、枯れていた気が戻る。お祭りも神仏に近づきますから、ハレです。神仏は大自然や宇宙、大いなる力とも言い換えられると思います」。
五條さんは現在、金峯山寺の塔頭(たっちゅう)、脳天大神龍王院で護摩祈禱を定期的に行っている。
「私たち人間はそれぞれ願いを持っていますが、実は自分の都合でこうなってほしい、これが正しいと考えてしまっています。たとえば病気の人は治してほしいと願いますが、もしかしたら、本人や家族にとっては、病気によって気づかなければならないことがあって、今は治らない方がいいのかもしれない。何が正しいかは、神様仏様にしかわかりません。最終的には神様仏様が判断して、うまくととえのてくださる。ですから私は、護摩を通してそれぞれの願いを神仏にお届けする繋ぎ役だと思っています」。
「ととのう」という言葉がキーワードとなった五條さんのお話。
「真言は、本来あるべきように、ものごとがととのっていく言葉」などとともに、多くの言葉を心に残す、密度の濃い時間となった。
碑伝(ひで=修行者が自らの修行の証として、行場に納める札)には、天下泰平の文字。「世の中は、実は見えないところで何かがととのっているから、うまくいっている」と五條さん。私たちの日々の生活は、知らないところで行われている「天下泰平」「万人安楽」「風雨順時」「百穀豊熟」を願う多くの祈りに支えられているとも言える。