Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

①幻の蘇我氏

2024.12.03 13:27

http://www2.plala.or.jp/cygnus/st9.html 【捨てざり難い説 幻の蘇我氏】 より   

  1.「蘇我氏」とは

蘇我氏」と言えば、私的には「蘇我入鹿」のイメージが一番強いです。 おそらく、中学生の時に習った日本史の教科書で、「中臣鎌足」と中大兄皇子によって殺された、大悪人のように記されていた記憶が強いからだと思います。

             ・・・・・・

同時に、殺されなければならなかった「入鹿」よりも、殺した側の「中臣鎌足」・中大兄皇子に否定的な感情を抱いていたことを憶えています。それは蔑称とも言えそうな「入鹿」という名や、「王権簒奪」といった言葉が、例えば初代仮面ライダーの世界征服を企む悪の組織ショッカーの如く聞こえ、初めから天皇家という正義に対する悪の氏族「蘇我氏」、という図式で記されている内容に、嫌悪感を持ったことからでもありました。

そんなこともあって、「蘇我氏」特に「入鹿」には同情的だったのです。「乙巳の変」直前、飛鳥板葺宮の大極殿での、「入鹿」の堂々とした態度はまさに王者であり、私には中大兄皇子の姑息さが、かえって目立った結果に映りました。

「私に一体何の罪があるのか。そのわけを言え。」死に際に「入鹿」が叫んだというこの言葉は、「蘇我氏」に否定的である『日本書紀』が記しているだけに、私には作り事とは思えません。

 さて、「蘇我入鹿」を最期に「蘇我氏」本宗家は滅びましたが、その祖は孝元天皇の孫「建内宿禰」(『古事記』による系譜)、その子「蘇我石川宿禰」であり、以降諸資料により系譜を整えれば、満智-韓子-高麗-稲目 となり、その後はよく知られている、 馬子-蝦夷-入鹿 と続いていきます。

 私は「蝦夷」一代はなかったものと考えておりますので、馬子-入鹿となるのですが、『欽明紀』に大臣として登場する「蘇我稲目」は史実としても、それ以前の「韓子」・「高麗」は、個人名と考えるには無理があるように思います。

 実際、「韓子」は『継体紀』二十四年の条に「──日本人が土地の女との間に生んだ子を韓子という。──」との注記があり、「蘇我韓子」もいわゆるハーフだったと考えることができるかもしれません。

 その「蘇我韓子」は、ほかの三名とともに「新羅」征伐の大将に命じられたのですが、仲間の謀略にあって射殺されてしまった、と『雄略紀』にあります。殺された、しかも謀略で、というエピソードがねつ造であるというのもどうかと思いますので、「韓子」は一応実在したと考えます。

その前の「満智」はどうかと言えば、これを百済王族「木満致」に比定する説があり、私もそれに賛同します。

2.「蘇我満智」

『応神紀』には、次のように記されています

「二十五年百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かった。天皇はこれを聞いておよびになった。───百済記によると、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女を娶って生んだところである。その父の功を以て、任那を専らにした。我が国に来て日本と往き来した。職制を賜り、わが国の政をとった。権勢盛んであったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。」

また「蘇我満智」の名は『履中紀』が初見です。「二年春一月四日、瑞歯別皇子を立てて皇太子とした。冬十月、磐余に都を造った。このとき、平群木菟宿禰・蘇我満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らは、共に国の政治に携わった。」

上記がそうなのですが、応神天皇=仁徳天皇なので、「木満致」の来朝時期と「蘇我満智」の登場とが無理なく繋がります。つまり『日本書紀』自身は、あえて否定していないということです。これにより、ルーツが「武内宿禰」だったということはあり得ない話となり、もっとも「武内宿禰」ルーツ説を信じている方は、皆無だと思いますが、「満智」の父は一応「木羅斤資」、母は「新羅」の女ということになります。

 この『応神紀』二十五年の条からは、「任那」・「百済」を股に掛けて国政を司り、その専横さをよく思わない天皇によって日本に呼ばれたこともわかりますが、私は『真説日本古代史 本編 第六部』において、「倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、『使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王』であった。

 朝鮮半島の諸軍事を自ら担当しながらも、なぜか「百済」は認められなかった。通説では「百済」は「宋」に朝貢していたからだ、と言われているが、これが本当でありヤマト政権よりも先に朝貢していたならば、ヤマト諸軍事担当の件は、まったく当てにしていなかったことになろう。「新羅」は「百済」より、文明・文化的にも、軍事的にも劣っていたのだと思う。従って、常に「百済」の侵略の魔の手を、恐れていたのではないだろうか。「新羅」にとっての敵国は、「倭国」以前に「百済」であったのだ。それがいち早く「高句麗」と結んだ原因なのだろう。そして「新羅」が密かに「高句麗」と結んだ対抗上、「百済」は「宋」に朝貢し、ヤマト政権と結んだのではないかと考えている。」と記していまして、「倭国」よりも「百済」のほうが文明的(文化的で はない)に上だったと考えています。

従って「百済」・「任那」の施政者が、倭王に呼ばれて国を後にすることなど、あるはずがないと考えています。理由は別にあります。それも、国政を捨てて来たのですから、穏やかではありません。

 『日本書紀』の「応神天皇二十五年」は、計算上西暦294年になりますが、『三国史記・百済本紀』で「木満致」(「木刕満致」と表記している。「木刕」は漢姓でいう漢字2文字表記の複姓で、漢字1文字で「木」と表記する単姓と同じ。「木羅」と表記することもある。)の登場年が、蓋鹵王の二十一年であり西暦475年です。このときのことを『百済本紀』は次のように記しています。

「予は愚かで、人を見る目がなく、姦人の言葉を信用して、このようになった。民は傷つき、軍隊は弱体で、危機になっても、誰がすすんで私のために力戦してくれるだろうか。私は社稷とともに死のうと思うが、汝がここにいてともに死ぬのは無益である。どうして難を避けて、国王の系譜を継続させないのか。といった。そこで文周(王)は、木刕満致・祖彌桀取とともに南にいった。」文周王は蓋鹵王の崩御後、即位していますが、ともに南にいったという「木満致」・「祖桀取」の行方はわかりません。しかし、「木満致」は日本に来たことがわかっています。そう記すのが前述の『日本書紀』です。

3.「昆支」

ところが暦年に181年と大きく差があります。これはちょうど干支暦年三運(干支一運は60年、1年の差は数えの違いと考える)に当たり、『神功紀』が干支二運の水増しがあることは常識であり、さらに意図的に水増しがされているということでしょう。

475年というと雄略天皇の時代になりますが、『雄略紀』には『百済新撰』を引用し、

「辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ、天皇にお仕えさせた。そして兄王と好みを修めた。とある。」としています。

 辛丑年は461年ですから雄略天皇五年です。しかし引用の『百済新撰』は、蓋鹵王の即位を己巳年(429・489)としており、『百済本紀』の蓋鹵王元年(455)と大きく違っていて、『三国史記2・百済本紀』(東洋文庫、平凡社)の注記によると、「『史』・『日本書紀』・『百済記』が利用した百済王暦とは、年次が大幅に異なる王暦を『百済新撰』は利用していた。」らしいのです。

 また『雄略紀』五年夏四月には、「夏四月、百済の加須利君が、池津媛が焼き殺されたことを人伝に聞き議って、『昔、女を貢って采女とした。しかるに礼に背きわが国の名をおとしめた。今後女を貢ってはならぬ』といった。弟の軍君(こにきし)に告げて、『お前は日本に行って天皇に仕えよ』と。軍君は答えて、『君の命令に背くことはできません。願わくば君の婦を賜って、それから私を遣わして下さい』といった。加須利君は孕んだ女を軍君に与え、『わが孕める婦は、臨月になっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこからででも速やかに国に送るように』といった。共に朝に遣わされた。

 六月一日、身ごもった女は果たして筑紫の加羅島で出産した。そこでこの子を嶋君という。軍君は一つの船に母子をのせて国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を主島という。秋七月、軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。」と記されています。

この後連続して、先の『百済新撰』の記録を掲載しています。他の検証こそしてませんが、このときばかりは『百済新撰』を習っています。

もちろん、「軍君」が「昆支」であり、「加須利君」が蓋鹵王であることは言うまでもありません。ところが、このときばかりは461年が正解というしかありません。というのは、武寧王は王陵の墓誌銘から523年62歳没し、逆算すれば、462年生まれであることがはっきりしているからです。

 用明・崇峻・推古の三代からは、『古事記』と『日本書紀』の崩年干支に年差が見られないことから、少なくとも『推古紀』以降は、実年代による編纂であろう、と言われていますが、それ以前でも『雄略紀』だけは実年代で書かれていると考えています。それは、雄略天皇が倭王「武」でなければならないからです。

 しかし、『雄略紀』五年四月の条を、そのまま信じることはできません。 

 『君の命令に背くことはできません。願わくば君の婦を賜って、それから私を遣わして下さい』と言う「軍君」(昆支)に対し、『わが孕める婦は、臨月になっている。もし途中で出産したら、どうか母子同じ船に乗せて、どこからででも速やかに国に送るように』という「加須利君」(蓋鹵王)の言葉は、全然意味が繋がらないからです。

 これは、「加須利君」が王妃を「軍君」を伴わせ日本に向けて脱出させた、と考えられます。『雄略紀』の二十年冬に「高麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。」と記されています。従ってこれ以前「百済」は戦争状態にあり、戦況は敗戦に向かっていたのだろうと思われます。王妃と「軍君」の脱出も、そんな戦況だったからでしょう。

『百済本紀・第二二代 文周王』の冒頭には「文周王は蓋鹵王の子である。先に毘有王が薨去し、蓋鹵が位を嗣ぐと、文周は補佐し、位は上佐平になった。蓋鹵は籠城して固守し、文周に新羅の救援を求めさせた。一万の軍隊を率いてかえってきたが、麗軍はすでに退却していた。城は破壊され、王は死去していたので、文周は王位に即いた。」とあり、先に紹介した『百済本紀』の「そこで文周(王)は、木刕満致・祖彌桀取とともに南にいった。」と通じます。

 私は「昆支」は「木羅斤資」と同一人物だと考えていますし、この時代の日本史に精通していれば、ほとんど同じ結論に達するでしょう。従って、次のようにまとめることができると思います。

「461年、高句麗との戦況が悪化の一途をたどると、王妃と護衛として弟の軍君を日本に脱出させた。475年、高句麗軍に城を包囲された蓋鹵王は子の文周と弟の子、木満致らに援軍を求めさせた。」そして、『応神紀』に登場する「木満致」と「木羅斤資」が、明らかに『百済本紀・蓋鹵王』の「木刕満致」と『雄略紀』の「軍君」・「昆支」に比定できながら、干支暦年三運という大きく離れた時代に、まるで別人のように記されている事実には、「王の母と通じて無礼が多かった。」

「その父の功を以て、任那を専らにした。」などと記す『日本書紀』の、「木満致」と「木羅斤資」に対する悪意を感じずにはいられません。まさに「蘇我氏」に対する悪意と同じものを感じてしまいます。

4.「蘇我氏修正系図」(着)

この系図は『雄略紀』を基にして記していますが、実のところ武寧王の父は断定されていません。『武烈紀』では『百済新撰』を引用し、「──百済新撰にいう。末多王は無道で、民に暴挙を加えた。国人はこれを捨てた。武寧王が立った。いみ名は嶋王という。これは昆支王子の子である。則ち末多王の異母兄である。昆支は倭に向った。そのときに筑紫の島について島王を生んだ。島から返し送ったが京には至らないで、島で生まれたのでそのように名づけた。いま各羅の海中に主島がある。王の生まれた島である。だから百済人が名づけて主島とした。今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない。」と、一応蓋鹵王の子と正解としながらも、昆支の子かも知れないという

説を第一に挙げています。さらに『三国史記』では、東城王の子とされています。

これらを箇条書きにしてみますと、

1.武寧王は蓋鹵王の子で東城王の従兄(雄略紀)

2.武寧王は昆支の子で東城王の異母兄(武烈紀百済新撰1案)

3.武寧王は東城王の子(三国史記)となります。

  武寧王は東城王の次代の国王ですから、『三国史記』の通りであれば、王位継承順に問題はありませんが、『武烈紀』のいうように東城王の無道が武寧王を立てさせたというのなら、1と2の可能性のほうがより高いものと考えられ、3は排除します。

 つまり、王位継承自体は問題なかったものの、そこにはやむを得ない事情があった、ということです。『三国史記』は、その成立時期が1145年と『日本書紀』より遙かに遅く、常識的な説を採用したのかと思われます。  

 また『雄略紀』には、「倭国」に渡ってきたときすでに「昆支」には5人の子があり、「二十三年夏四月、百済の文斤王がなくなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、若いのに聡明なのを見て、詔して内裏へよばれた。親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて、その国の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士五百人を遣わして、国へ送りと届けられた。これが東城王である。」と記されていて、末多王は次男であることがわかります。しかも同時に『百済』本国には、文斤王(三斤王)を最期に、王位継承者がいなかったこともわかります。

「百済」王統20~25代を系図にすると、(略)

なのですが、『三国史記』は「昆支」を文周王の弟としています。つまり、『日本書紀』と『三国史記』では、「昆支」以後一代のずれがあるのです。

  簡単に記してみますと、

  『日本書紀』      『三国史記』

  昆支は蓋鹵王の弟    昆支は文周王の弟

  武寧王は昆支の子    東城王は昆支の子

  (雄略紀では蓋鹵王の子)

  東城王は昆支の次男   武寧王は東城王の次男  

となり、『日本書紀』は「昆支」を蓋鹵王の傍系と位置づけているのに対し、『三国史記』は蓋鹵王の直系と位置づけていることになります。

蓋鹵王の孫にあたる三斤王は13歳で即位、在位は2年間という短さですし、前王の文周王は在位3年で暗殺されています。文周王が「新羅」から一万の救援部隊を率いて首都漢城に戻ったとき、すでに漢城は陥落していて、蓋鹵王は処刑された後でした。

文周王は直ちに即位し、同時に熊津に遷都しました。とは言うものの、文周王と三斤王の治世を併せても、わずか5年しかありません。

『雄略紀』には、「二十年(476)冬、高麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。」

「二十一年(477)春三月、天皇は百済が高麗にために破れたと聞かれて、久麻那利(熊津)を百済の文州王に賜わって、その国を救い興こされた。」と記されていますが、これを史実とすれば、独立国家としての「百済」は事実上、蓋鹵王を最期に滅亡し、文周王の即位と熊津の遷都は、熊津へ拠点を移した「百済」残党の抵抗に過ぎません。

 実際の「百済」の再興は、武寧王の登場を待たなければならなかったことは、日本・朝鮮の歴史学者を問わず教科書的見解です。ということは、昆支が蓋鹵王の直系か傍系かで、武寧王に対する考察がずいぶん変わってくることと思います。もちろん王統としては直系がより良いわけですから、ここでも『三国史記』を改筆ありと見るべきでしょう。

 また、蓋鹵王系の子孫が絶えたので、弟の昆支系へ王位が継承されることになったとも考えることができ、武寧王は昆支系であったとするほうが、自然な流れのように思われます。

『雄略紀』二十三年夏四月の条には、「百済の文斤王が亡くなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、若いのに聡明なのを見て、詔して内裏へよばれた。親しく頭を撫で、ねんごろに戒めて、その国の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士五百人を遣わして、国へ送り届けられた。これが東城王である。」とありますが、実は「筑紫」が「百済」の分国であった思われる記録ですが、それは別にして、いくら聡明であっても長男でなく次男が王に立ったということは、異常な王位継承であったとしなければなりません。

 しかし長男が昆支王と「新羅」の女との子「木満致」であったとすれば、末多王の即位もうなずけます。これらのことを考慮し百済王等系図を修正したものが、次のものです。(略)

5.「帰化人木満致」

 興味深いことは、干支暦年三運水増しし『応神紀』に「木満致」を登場させた『日本書紀』だったのですが、実際の年紀は『雄略紀』が確からしいので、「木満致」が「任那を専らにした。我が国に来て日本と往き来した。職制を賜り、わが国の政をとった。」 時期は当然『雄略紀』に相当します。

雄略天皇五年(461)に、蓋鹵王の命により「百済」「倭国」を脱出した昆支と妃は、「筑紫」にあった「百済」の植民地に逃げ隠れ、雄略朝とはいわゆる信を交わしていたのだと思います。

「百済」本国では日増しに戦況が悪化し、475年、「高句麗」によって漢城を包囲された蓋鹵王は、自らは籠城し、子の文周と弟の子、木満致らに援軍を求めさせました。

文周は「新羅」の兵一万の援軍を率いて帰国したものの、蓋鹵王は亡く「百済」は滅亡していました。ここまでは、先にも述べたとおりであり、文献比較にて論じることができるのですが、南に行ったという「木刕満致」と「祖彌桀取」はどうなったのでしょうか。

 私は「木刕満致」のその後こそ、「任那を専らにした。我が国に来て日本と往き来した。職制を賜り、わ国の政をとった。」であった、と考えております。

 実は、「文周王」・「三斤王」のとき国政を任されていたのは、佐平の「解仇」という人物です。佐平とは「百済」における大臣のことですが、この「解仇」という男は、『三国史記・百済本紀』によれば、「権力を乱用し、法を乱し、君主を認めないふるまいがあったが、王は

これを制御することができなかった。(第二二代文周王)」「解仇が盗[賊]に王を殺害させたので[王は]薨去した。(第二二代文周王)」とあり、また「佐平の解仇が恩率の燕信とともに多くの人を集めて、大豆[山]城によって、反乱をおこした。王は佐平の真男に、二千人の軍隊を率いてこれを討伐させたが、勝てなかった。」とあります。

 ここには「木満致」の名は出てきませんが、文周王とともに南に行った「木満致」が、何の功績もあげなかったということは考えにくいことです。

 「祖彌桀取」に関しては全然判りませんし、追求のしようがありません。案外「木満致」の腹心として暗躍していたのかも知れませんが、ここでは関係ないので割愛します。 

ところで、「蘇我満智」は『履中紀』二年に、「国の政治に携わった」として登場しますが、その子である「蘇我韓子」の登場は『雄略紀』です。この間少なく見積もっても約50年あります。そうすると「満智」「韓子」は、一世代以上の断絶を生じてしまい、親子関係を考えることができません。少なくとも祖父と孫以上の世代間があり得ます。

 先にも述べたとおり、『日本書紀』が雄略天皇と倭王武とを同一視する姿勢ならば、『雄略紀』は他のどの天皇紀よりも史実を正確に記していると思われ、武寧王のエピソードもそのひとつでしょう。

 従って『雄略紀』の「蘇我韓子」の実在性を認めるならば、父「蘇我満智」は、雄略朝か早くとも安康朝の人物であったと考えなければなりません。

 無論、「木満致」=「蘇我満智」であるので、この面から見ても雄略朝説となるのですが。

 この 満智─韓子─高麗─稲目の系図は、『公卿補任』による「蘇我氏」の系図なのですが、「蘇我稲目」は欽明天皇三十一年(570)に亡くなっています。その歳を『扶桑

略紀』は65歳としていますから、506年の生まれになるわけです。また「韓子」は雄略天皇の九年(465)に、「新羅」討伐の大将として戦場でだまし討ちにあって亡くなっています。このときには、当然「高麗」が生まれていたわけですから、「稲目」を506年生まれにするには、このとき「高麗」が新生児であったと仮定しても、「稲目」が「高麗」40歳頃の子であったとしなければなりません。

『扶桑略紀』は「蘇我馬子」を享年76歳としているので、「馬子」は「稲目」46歳の子と計算でき、これを真実とするならば、「高麗」40歳もあながちでたらめな話とは言えないのでしょうが、綱渡り的な数字には違いありません。

『紀氏家牒』は、「高麗」は「馬背」の亦の名だと説いています。 この『紀氏家牒』は逸文にすぎず、由来すらはっきりしませんが、「稲目」は「馬背」の子であるとしています。

 もちろん「高麗」の亦の名なのですから、「稲目」は「高麗」の子には違いありません。

 「高麗」の名は、高句麗人の母「高麗毘賣」(こまひめ)から採ったものだと言われていますが、「馬背」のほうがよほど人名らしいと思われるのですが、『公卿補任』が「高麗」を正式採用したことは、「高麗」の名が正統的であったからでしょう。

そこで、「高麗」は「馬背」の亦の名ではなく、「高麗」と「馬背」の二人であったと考えます。そう考えれば、満智─韓子─高麗─稲目の4代は、実は満智─韓子─高麗─馬背─稲目の5代であったことになり、世代間の問題も解消します。

6.「蘇我氏と石川氏」

さて『記紀』から見た「蘇我氏」の祖は「建内宿禰」ですが、「満智」は「木満致」であるので、 建内宿禰─蘇我石川宿禰─蘇我満致 というこの系図は否定されてしまいます。

ところで『欽明記』には、非常に興味深い人物名を記しています。

「春日の日爪臣の女、糠子郎女を娶して生みませる御子、春日山田郎女、次に麻呂古王、次に宗我之倉王」このうちの「宗我之倉王」がそれです。(『欽明紀』では「倉皇子」の名を挙げています(母は違います。)これらの皇子の名からは想像できるのは、当然「蘇我倉山田石川麻呂」です。

 「蘇我氏」と「蘇我石川氏」とは、「建内宿禰」を祖とした同族のように言われておりますが、元々は別であったのではないかと推測しています。

 「乙巳の変」で「倉山田麻呂」が中大兄皇子についた理由も、同族ではなかったとすれば、説明も理解もしやすいというものです。

建内宿禰─蘇我石川宿禰─蘇我満致この系図は「蘇我氏」と「石川氏」を一系化する目的で造られたものと思われます。

『推古紀』には、「冬十月一日、大臣馬子は、安曇連と阿倍臣摩侶の二人に、天皇に奏上

 させ、『葛城県は元私の本貫であります。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜わって、私が封ぜられた県といたしとうございます。』といった。すると天皇が仰せられるのには、『いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。故に大臣のいうことは、夜に申せば夜の中に、朝に申せば日の暮れぬ中に、どん

なことでも聞き入れてきた。しかし今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世に帝が、『愚かな女が天下の君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不忠とされ、後世に悪名を残すことになるだろう』として許さなかった。とあり、「葛城県」は「蘇我氏」の本拠地であると主張しています。

もちろん『日本書紀』編者サイドとしては、悪意をもって記述したエピソードなのでしょうが、「蘇我氏」の本拠地は河内国石川(橿原市曽我町付近)という説があって、実は「蘇我氏」と「葛城」を繋ぐものは『日本書紀』ではこの部分だけなのです。

それでも『聖徳太子伝暦』では「蘇我葛木臣」と記している箇所があり、あえて「建内宿禰」を始祖とする氏族であると考えれば、「葛城氏」とは同祖となるわけですから、そういう意味では本貫かも知れません。

 ところが、「葛城」という氏姓自体「葛城襲津彦」以外に使用例がなく、実際には単一氏族ではなく「葛城族」、というのが私の本音です。

 古代、大和葛城山山麓を中心に栄えた「鴨氏」や、「高尾張邑」の「尾張氏」などが「葛城族」であり、「蘇我氏」もそこを拠点にした時期があるのなら、同様に「葛城族」だった、とはいえるかも知れません。それに推古天皇の言い分も、筋が通っているようで曖昧さが気になります。

 というのは、自ら「蘇我氏から出ている」と認めているわけですから、推古天皇は「蘇我氏」なわけです。従って「馬子」に「葛城県」を賜っても、それは天皇家が封じることと変わりなく、「後世に悪名を残すことになるだろう」という事態には成らないでしょう。

 そういうことでしたら、「任那」四県を「百済」に割譲した継体天皇のほうが、比較にならないくらい後味の悪い結果を残しています。しかし、「馬子」も推古も正統的な主張をしているとしたらどうでしょうか?

 つまり「馬子」は、「葛城県」を自分のものにしてもらっても良いのではないかと言い、推古天皇は、その理由では皆を納得させることはできない、と言っているのです。

7.「尾張氏と蘇我氏」

「蘇我馬子」が大臣に任命されたのは宣化朝です。その『宣化紀』には非常に興味深い記述があります。それは宣化元年五月一日の、宣化天皇の詔です。 

「蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ」この記述は重大な意味を持っています。というのは、「蘇我氏」は「尾張氏」に、命令できる間柄であったということだからです。宣化天皇は、継体天皇と「尾張連草香」の娘「目子媛」との子で、「尾張氏」は天皇家の外戚になります。その「尾張氏」に命令ができるとなると、「蘇我氏」と「尾張氏」は相当に深い関係であった、と言わざるを得ません。

 古文献を調べてみても、「蘇我氏」と「尾張氏」を直接繋げる資料は見あたりませんし、渡来系の「蘇我氏」と、いわゆる欠史八代当時からの古豪、「尾張氏」とが、それこそ欠史以来の知り合いであったとは到底考えられませんから、「蘇我稲目」が大臣に任命された宣化朝の直前あたり、と勘ぐりたくなるのは当然でしょう。

 私は、継体朝で天皇家と接点を持ち、安閑朝で屯倉の設置に大いに貢献したものと考えています。「蘇我氏」と継体天皇との関係は、婚姻以上に深い関係だったと今は言っておきます。

 和歌山県隅田八幡神社所蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」(癸未年八月十日、男弟王が忍坂宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る)とあって、この男弟王が継体天皇、斯麻が武寧王であろうことは、「真説日本古代史」本編で述べてきましたが、この銘文は継体天皇と武寧王の

親密なる関係を表現しています。しかし、この二人を結びつける理由を説明できていませんでした。

 継体天皇と武寧王の間には、「蘇我氏」が介在していたのではないでしょうか。武寧王と「蘇我満致」はともに「昆支」の子であり、異母兄弟です。このような考えは決して間違いではないと思います。

『雄略紀』に引用されている『百済新撰』によれば、「──『百済新撰』によると、辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ、天王にお仕えさせた。そして兄王の好みを修めた。とある。」とあり、大和朝廷と深い外交関係にあったことでしょう。

 しかし、継体朝とそれ以前の王朝とでは皇統に断絶があったとも言われています。

『応神記』によれば、 「息長眞若中比賣を娶して、生ませませる御子、若沼毛二俣王。」

「またこの品陀天皇の御子、若野毛二俣王、その母の弟、百師木伊呂辨、亦の名は弟日賣眞若比賣命を娶して、生める子、大郎子。亦の名は意富富杼王。・・・故、意富富杼王は、三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫の末多君、布勢君等の祖なり。」とあります。

「息長坂君」とは近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地にした「息長氏」のことです。つまり継体天皇は「息長氏」と同族なわけなのです。継体は「息長氏」出身とまで言い切る学者も、決して少なくありません。ただし、継体天皇の擁立は「尾張氏」の力によるものです。

 それは、「尾張」の継体擁立当時の大型古墳が、関係他地域よりも圧倒的に大きいことから、国力の豊かさが知れるからです。

 また、継体の元からの后は「尾張連草香」の娘「目子媛」だったことからも、容易にわかります。

 8.「蘇我は息長の当て字」

 「息長氏」は「尾張氏」にも匹敵する古豪族ですが衰退の後、継体天皇の即位後、その威によって勃興してきた氏族であると考えられます。

 神功皇后は「気長足姫尊」(『古事記』では「息長帯比賣」)、姫の父、「息長宿禰王」も「息長」を名乗りますから、「男大迹天王は応神天皇の5世孫」伝承も、真偽は不明ながら、父がともに「息長」であったことからの派生であろうかと思われます。

 さて、その「息長氏」ですが、「息長」は“おきなが”と読みます。ところが漢音では“おきなが”と読めません。「息長宿禰王」は『古事記』による表記で、『日本書紀』では「気長宿

 禰王」と書きます。これも“おきなが”と読ませますが、常識的には“きなが”です。他には「磯長」・「科長」・「級長」・「師長」とも書き、これらはみな“しなが”でしょう。

 文字と発音では当然発音が先です。発音を聞き、さまざまな文字が充てられ、またその充てられた漢字がさまざまな地方訛りで発音され、それが繰り返されるので、このようなことが起こり得ます。

 「息長」は漢音では“xi”と発音します。これは「静かに」という意で使う「シーッ」とほとんど同音であるといいます。

 ところで、神功皇后の時の天皇は仲哀天皇です。仲哀は「足仲彦」といい“たらしなかつひこ”と呼ばせていますが、これが“そなかひこ”と発音できることに気づきました。

 「息長」も“そなか”と発音できます。するとどうでしょう。おおよそ「足仲彦」には名前らしいものがないといわれてきましたが、実は「息長彦」だった可能性があります。

 父が「息長宿禰王」で神功皇后が「息長(足)姫」なので、仲哀は入り婿だったと考えられ、「息長彦」を名乗ったのだとすれば、古代の姫・彦の関係にぴったりです。

 大阪府南河内郡太子町、聖徳太子の祖廟で知られる叡福寺は山号を磯長山といいます。太子町はもと磯長町といい、この磯長の地には聖徳太子以外に、敏達・用明・推古・小野妹子と4つの陵・墓所があります。

 これらに共通のワードは、「蘇我氏」です。つまり「磯長」は「蘇我」の転訛か、あるいはその逆かも知れないということです。

 話が脱線しましたが、「息長」と「磯長」が同音で発音されることを考えれば、「息長」と「蘇我」は、本来同音で発音されていた、と考えられるのです。

「木満致」が「蘇我満智」だったとすれば、渡来後「蘇我」と名乗った理由が説明できませんでしたが、「木氏」が「息長氏」に輿入れしたか、入り婿になり「息長氏」を名乗ったと考えれば上手く説明できます。

 「息長坂君」の拠点は滋賀県の旧坂田郡(米原市)でしたが、「滋賀」自体、「息長」の転訛かも知れません。

 つまり、xinagaのnaは助詞であり、文字は「しが」と書きながら発音は、“しなが”であったということです。古代は人名の姓と名の間に“の”を入れて発音しましたが、それと同じです。

 「息長」は表記文字であったと思われ、本来「蘇我」と書いて“そのが”と発音していたのではないでしょうか。

 「蘇我」と当て字したのは、「百済」を離れ「倭国」で再度興隆したという思いから、「我、蘇り」という観念が込められていると考えればいいのでしょう。

 継体天皇と武寧王との交流も、「息長氏」と同化した「百済木氏」が仲を取り持ったとすれば、無理なく繋がります。

9.「蘇我稲目は継体天皇の皇子」

 「蘇我氏」は「稲目」の代になって、突然繁栄した氏族のように思えますが、実際「蘇我」を名乗ったのは、「稲目」が最初だったと考えています。 

 「満致」の渡来は、門脇禎二氏の説が有名なのですが、『古代史を考える蘇我氏と古代国家』(吉川弘文館発行)の中で「志田諄一氏」は、「門脇説に対しては、次のような批判がある。『三国史記』の文周王の条に満致のなのみえないことをもって、満致の渡来の証とするが、文周王の治世は極めて短かく、記事も簡単で、そこから推論をだすことは困難である。また百済記によって、満致を木羅斤資の子とし、親日的な百済官人と規定して日本に往来した事実を認めたとしても、それが日本への定着を意味しない。もし定着の事実があったならば、『日本書紀』になんらかの影響が反映してもよいのに、満致定着を示す痕跡は皆無である。」

と挙げていられますが、確かにその通りだと思います。しかし「息長氏」を名乗ったとすればどうでしょうか。

 かつて私は、継体天皇に娘「麻積郎子」を輿入れさせた「息長真手王」こそ、「木満致」の「倭国」での名乗りかも知れないと考えていました。

「蘇我満智」so(no)ga(no) mati「息長真手」xi na ga(no) mate  

こじつけと言われればそれまでですが、この二人の名は完全に一致していると言ってもいいくらいです。ただし、この考え方には問題が残ることも事実です。

 というのも、年代差だけはどうしようもありません。継体天皇と「満致」の間には、少なくとも3世代の差があります。「高麗」と「馬背」を別人と考えた場合は、さらに1世代加えなければなりません。そこで「真手王」は「馬背」であろうと、考え改めています。

 「蘇我馬子」を“そがのうまこ”と読ませるのですから、「蘇我馬背」は“そがのうませ”でしょう。“う”は発声時にほとんど聞こえませんから、“そがのんませ”と”聞こえます。  

  「蘇我馬背」so(no)ga(no)(u) mase

  「息長真手」xi na ga(no)    mate 

 母音を比較検討すれば、こちらのほうがいっそう同音になります。「息長真手王」は、別の娘「広姫」を敏達天皇に嫁がせていますが、継体天皇の生年は450年、敏達天皇の生年は538年と年代的に無理があります。

 これについては、大正時代に発行された『大阪府全志』に掲載されている『北村某家の記』が埋めてくれています。

 「後繼體二年春、天皇行幸、百々石城大御殿に御せられ、后安部波延女・御女都夫良郎女追参せらる。天皇は産土神楯原神宮に参拝せんとて、息長眞手王を先導とし、御手洗池に禊祓し給ひしが、都夫良郎女は池の荒波に誘われて水中に流れ給ひしかば、息長眞手王の子息長眞戸王之を助けんとて水中に飛び入り、共に死せらる、是れより池を都夫良池と稱す、後に津夫禮池といへるは轉訛せしなり。天皇は都夫良郎女を息長眞戸王に嫁がし給ひ、平田の廣瀬の垣内の御料に二柱を葬れり。然るに息長眞手王の夫妻は、世繼の彦なしとて愁歎せられしかば、天皇詔して皇子阿豆王を下ひ賜い、眞手王の女黒郎女に配し、息長家を相續せしめ給へり。

               <中略>

 息長阿豆王の女比呂女命は敏達天皇の后に奉仕して、忍坂彦人太子を生み給いぬ。」

と記されていて、敏達天皇の后「広姫」は、「息長真手王」の養子で、継体天皇の皇子「阿豆王」の娘だったのです。

 「広姫」に気を取られているとうっかりしてしまいますが、「阿豆王」は「蘇我馬背」の養子であったということです。この「阿豆王」が、「蘇我稲目」だったのではないかと述べているのが、『新設日本古代史』(株式会社文芸社刊)の著者「西野凡夫氏」です。

 この本を書店の書棚で見たときは、そのタイトルに正直やられたと思いましたが(初回発表は私のほうが2年以上早いので)、氏によると、「古事記は継体皇子阿豆王を記録し、後世の訓古学は『阿豆』を『アツ』と読ませている。書記では『厚王』としている。然し、『阿豆』を『アマメ』と読み、これが転訛して『イナメ』となったとは考えられないだろうか。任那(ニンナ)を『ミマナ』と読む事例から、N音とM音の相互交替が考えられる。『ア』から『イ』への母音変化は『礼』(アヤ-イヤ)、『在』(アる-イます)などの読みがあり、『ア』から『イ』への相互交換が考えられるところである。従って、『阿豆』は『イナメ』(稲目)と読めるわけであり、息長阿豆王は蘇我稲目と同一人物となるのである。」ということであり、ほかにも蘇我馬子と崇峻天皇 蘇我蝦夷と舒明天皇(田村皇子、私のいう田村舒明)蘇我入鹿と山背大兄王(私のいう山背舒明)の3人の同一人物関係を想定しています。

 後の三例はともかくとして、「阿豆」=「稲目」は大いに興味をそそられるところであり、こう考えることにより、「蘇我稲目」が突然大人物として現れた理由にもなるのではないかと思います。

10.「葛城と蘇我氏」

 「稲目」が「息長氏」を名乗り「息長稲目」(蘇我稲目)となり、しかも継体の皇子であったとすれば、安閑・宣化・欽明天皇とは兄弟になるわけですから、「尾張氏」とは浅からぬ関係になります。命令できる立場であっても不思議ではありません。

 繰り返しますが「蘇我」は「息長」の読みに「我、蘇り」と文字を当てた名乗りです。

 婚姻以上の関係だったとは、こういうことです。

 そして「蘇我氏」もそうだったかも知れませんが、「尾張氏」が「葛木族」であったこと、「息長氏」もかつては「葛城族」と同族化していたこと(神功皇后こと「気長足姫」の母は「葛城高額姫」、父は「息長宿禰王」)から、「息長」を継いだ「蘇我氏」は、より「葛城族」色が濃くなるわけです。

 ただし、「蘇我馬子」のいうところの「葛城県は元私の本貫であります。」は納得できません。 本貫、すなわち本居・産土なのですが、葛城山系には「鴨氏」の奉斎した、高鴨阿治須岐詫彦根神社、葛木御歳神社、鴨都味波八重事代主命神社。

 「尾張氏」の祖神を祀った葛木坐火雷神社は鎮座するものの、「蘇我氏」に関する神社はありません。「蘇我氏」と言えば、橿原市曽我町の宗我坐 宗我都比吉神社が本命なのです。

そうは言うものの、「馬子」の主張は、このあたりに由来するものなのでしょう。

しかし、そんな理由では他者を納得させられない、というのが推古天皇だとしたら。そうです、葛城地方を由来にする氏族が、「馬子」のような主張をしだしたら、それをすべて認めなくてはいけなくなるからです。

 ある意味、推古天皇のバランス感覚が優れていた説話ですが、この推古天皇は『記紀』のいう「豊御食炊屋姫」ではありません。『新設日本古代史』本編で何度も説いている「物部守屋」の妹で、大大王『物部鎌姫大刀自連公』のことです。

 「乙巳の変」で「蘇我入鹿」が暗殺され、「蘇我」本宗家は滅亡しました。

 その後も「蘇我氏」は『日本書紀』に登場しますが、それは「蘇我」の傍系氏族ということになります。

 先に紹介した『古代を考える・蘇我氏と古代国家』では、「大化改新以後『日本書紀』に活躍が記される蘇我一族には、蘇我倉山田石川麻呂・蘇我田口臣川堀・蘇我臣日向・蘇我赤兄臣・蘇我連大臣・蘇我果安・蘇我臣安麻呂などがいる。このうち蘇我田口臣堀川と蘇我果安臣

の系譜については明らかでないが、そのほかは蘇我倉氏につながる系譜をもっている。このなかで石川臣を称し、天武十三年に石川朝臣の姓を賜わったのは、蘇我連大臣の系譜であった。」と述べています。

 ところが「蘇我」本宗家の「蘇我」は「息長」の当て字であることがわかると、もう一つの「蘇我氏」である「蘇我倉氏」は、「稲目」-「馬子」-「入鹿」の系譜とは、前述したとおり全然関係ないことになってしまいます。

 『日本三大実録』には、元慶元年の石川朝臣木村の上言に、「始祖大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国の石川の別業に生まる。故、石川を以て名と為せり。宗我の大家を賜わりて居と為し、因りて姓宗我宿禰を賜わる。」とあって、大和国曽我を本拠とするいわゆる本宗家と、河内国石川を本拠とする「蘇我石川氏」は、ともに「蘇我」を名乗るものの、その氏族の出自はまったく別であった可能性が高いのです。

 「蘇我満智」は異国出身者ですが、続く「韓子」・「高麗」の名は異国出身者の子・孫の名としては、あまりにもお粗末であり、作為的な命名の跡を読み取ることができる、という説もあります。

 「満智」は系譜上「蘇我石川宿禰」の子に当たりますが、両者に繋がりがないことがわかると、「石川宿禰」は後世「石川氏」にねつ造された疑いを考えなくてはなりません。無論、「韓子」・「高麗」についても同様です。