2024年5月19日 ペンテコステ礼拝
「聖霊がくだる」 使徒言行録2章1~13節
〈50日目の祭り〉
ペンテコステという言葉は、ギリシャ語で50日目という意味です。キリストの復活から数えて50日目に天から聖霊がくだり、弟子たちの目が開いて伝道をはじめたことを祝います。日本では結婚50年目に金婚式をお祝いしますが、イエス様が復活して50日目のお祝いがペンテコステです。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)
この「五旬祭(50日目の祭り)」という翻訳が、もとのギリシャ語の聖書ではペンテコステとなっています。実は、この日に聖霊がくだったのにはわけがあります。使徒言行録1章の8節で、イエスさまが約束をなさったからです。まもなくあなたがたの上に聖霊がくだるから、その日を待って旅に出て、地の果てに至るまで私の証人であることを伝えなさいという命令です。
その約束の通り聖霊がくだったときの様子が今日の聖書で、ペンテコステの聖霊を「約束の聖霊」と言います。伝道というのは、いくら頑張っても聖霊が与えられなければうまくいきません。神様のご計画ですから、神様の聖霊が与えられるまで待たなければならない。クリスチャンにとって「待つ」ということは、大切な人生観です。たとえば先週皆さまとお墓の前で礼拝をしましたが、その帰り道で大事なバッグを落としてしまいました。お墓に戻って見ても、届けを出してもダメでした。でも、心のどこかで良い知らせを待っていました。幸い3日目に男の子が拾ったという良い知らせが入って来ました。
教会も同じです。途方に暮れながらも、いつも心のどこかで良い知らせを待っている。この良い知らせのことを、ギリシャ語では「エヴァンゲリオン」と言って、「福音」と翻訳されますが(福音書の「福音」です)、本来の意味は「良い知らせ(good news)」です。
〈聖霊〉
さて、二千年前のきょうペンテコステの日に、どのように聖霊が与えられたのでしょうか。聖霊のシンボルの一つは炎です。
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(3節)
聖霊を与えられるとイエス様について炎のようにしゃべりだすので、「炎のような舌」と言われています。聖書では舌は話をすることのシンボルで、「炎のような舌」と言えば、熱心に語ることを言います。このことをよく表しているイエス様の言葉があります。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その炎が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカ福音書12章49節)
聖霊の炎で火をつけられた弟子たちは、ちょうど山火事が四方八方に燃え広がるように「地の果てまで」(1章8節)イエス様の救いを伝えました。その炎は時間を超えてこんにちの私たちの教会にまで燃え広がり、いまなお燃えている。その山火事の最初の火元が、はるか2000年前のペンテコステです。
教会は空間をも超えています。教会は私たちのための教会でもあり、地域のための教会でもあり、究極的には世界が平和で互いに愛するようになるための教会です。この究極の目的がかなった世界を「神の国」といいます。
〈多言語の奇跡〉
神の国の姿は、ペンテコステのときに姿を現しました。習ってもいない外国語をしゃべりだし、しかも世界中のあらゆる言葉でしゃべり出しました。これを多言語の奇跡言います。聖書では風や息は聖霊のシンボルです。神様の息が吹きかけられて弟子たちは息を吹き返し、自分でも知らない言葉をしゃべりだしました。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(4節)
これに続いて、いろんな国の名前がずらりと並んでいます。これは現代風に言えば、私がロシア語で話し出し、隣の人がウクライナ語で話し出し、その隣が中国語、その隣がドイツ語で話し出したといった具合に、いろんな国の人々が聖霊によって一つになったということです。
いろいろな国の言葉をしゃべり出したと言う事は、国の差別も人種の差別もない世界が訪れたということになります。これはキリスト教が理想とする世界で、異なる文化や言語を持つ人々が、共通の信仰と理解を通じて一つになることができるという、神の国のビジョンを表します。神さまのメッセージは全人類に開かれている。すべての人々は「神の愛」を共有できる。多言語の奇跡は言葉や文化の違いや宗教の違いをのり超えて、互いに理解し、和解し、平和的に共存することが可能であるという、現代にも通じる希望を表しています。
「御国を来たらせたまえ」というイエス様の祈り(主の祈り)は、このような神の国を実現のための祈りですが、同時に私たち自身がそのような世界を実現するよう努力しなさいとの呼びかけです。
〈神の偉大なわざ〉
「神の愛」の実現は、現代のことばで言えば適切な福祉サービスや医療の提供、教育の機会などが等しく提供されていることも含まれますが、物質的な豊かさよりもむしろ精神的な豊かさです。私たちがよく知っている「おもてなし」の心にも似ています。おもてなしというのは相手に敬意を持って、心を込めてもてなします。相手の立場になって考えて最善を尽くす。ちょうど「雨ニモ負ケズ、風ニモマケズ」の詩のような世界。「あらゆることを、自分を勘定に入れずに、よく見聞きし、分かり、そして忘れず、東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い」。そのような聖霊によって私たちが神業(かみわざ)のようにふるまう国が神の国です。
わたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っている(11節)
先週は、NHKの「首都圏ネットワーク」で東上線沿線の特集があり、最寄り駅の大山駅周辺が放送されました。大山駅のハッピーロード商店街は、今や観光スポットです。そんな大山の地にある教会として、これから先どのように「神の偉大な業(わざ)」(11節)を語っていくのか、2000年前のペンテコステで火がついた山火事をどんな風に燃やすのか、皆様と共に考えて歩みたいと思います。