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地名が語る日本のルーツ

2024.05.23 07:34

http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-462.html 【地名が語る日本のルーツ 58 物部氏は女王を輩出した部族で、蘇我氏は倭王を輩出した部族】より

地名が語る日本のルーツ

結局蘇我氏の君臨した倭国は、新羅と唐の連合軍によって敗れる結果となったのだが、正に掟破りともいえる第三国を巻き込んだ「白村江の戦い」は、唐が絡んだ事によって新羅の筋書き通りには行かなかったのである。つまり唐が新羅と結んだ理由は、最初から倭国を属国にしたかったが為で、たまたま中国本土における「唐」そのものが、「梁」に取って代わられる時期と重なったが為に、その軍隊も中国へ取って返さざるを得なかったといった事が、日本が中国の属国とならずに済んだ理由なのである。自ずと倭国で従来まで使用された日常語は、全てこの時漢字に統一させられたとみるべきで、それぞれの部族によって異なる日常会話や日常語は、最初から漢字ではなかった事が明白になったのである。

これらの事を踏まえれば、記紀編纂者は倭国を唐に売ってまで政権を奪いたかった事を、絶対に記紀に残したくなかったし、悟られたくなかった、更に唐を味方につけた新羅による政権交代を正当化する為に、あらゆる手段を用いて日本の史実まで変えた事実をもってすれば、物部氏と蘇我氏の対立も記紀が仕組んだ完全な創作と言わざるを得ないのである。

記紀に描かれた守屋が仏像を川に投げ捨てた事が発端となった闘争、あるいは廃仏派が崇仏派を呪詛した話などは、子供の喧嘩とも言えるもので、それが原因で戦争に結び付くとは実際には有り得ない話。今までの事を踏まえた上での自身の推論が正しければ、従来の定説とされていた神道VS仏教=物部氏VS蘇我氏の闘争はまるで夢物語の話で、両部族は記紀における史実とは裏腹に、一枚岩ともいえる強固な姻戚関係にあったという事になるのである。結果的に蘇我氏と物部氏の対立は、守屋を誅しただけに終わる内紛で、実際には全く存在し得なかった話という事になってしまうが、少なくともこの時点での図式では敵対していたどころか、物部鎌足(=蘇我)姫の名が語る様に、物部氏(=百済)そのものが蘇我氏と結ぶ付く為に女王を輩出した部族で、その姫を皇后とした秦王=高句麗王がニギハヤヒ=倭速日と呼ばれた蘇我氏なのである。これだけで神道と仏教は対立どころか、仲良く共存していた姿が見て取れるのである。結論を言えば両部族の対立こそ、間違いなく記紀が巧妙に仕組んだトリックで、記紀編纂者が新羅政権を正当化する為にでっち上げた話、といった事になるのである。とにかく「大化の改新」同様、この時代における戦闘や事件は、記紀編纂者自身が今目の当りにしているかの様に描写がリアルで、明らかに創作感が強く、それが記紀に対して自身が不信感を持った理由の一つとなっているのである。

これまでずっと秦氏の謎を追い続けたお陰で、物部氏の謎まで紐解く事が出来たが、今まで挙げてきたこれだけの証拠が揃えば、謎とされていた秦王国の謎も解けたし、物部(モノノベ=フツベ=布都国=百済)が本来は百済と呼ぶべき国で、記紀は百済を物部といった部民に落としてまで、日本における歴史から百済を排除したかった事も判ったのである。つまり物部氏は記紀がその発覚を恐れて辻褄併せとして創り出した氏族で、実際には倭国王そのものを指す百済王だったのである。自ずとこの時代における倭速日(ニギハヤヒ)は茅淳王(=秦王)で尚且つ物部王(=百済王)、しかも朝鮮における分国高句麗や百済、更に新羅を含めた連邦国の最高位に君臨するのが、シャカ王の異名を持つ蘇我氏だったいう事になるのである。学校の教科書や日本史は、記紀に記述されたものが真実であるといった前提の下で編集された書であり、これを学習させられた現代人にとっては、蘇我氏や物部氏の対立関係を今でも信じて疑わずにいた、後世における記紀読者や日本国民すら欺き通していたという事になるのである。結果的にこの飛鳥時代における倭速日には、聖徳太子を含め、少なくとも三代に渡る人物の業績や事績が投影されている事も判ったのだが、記紀が蘇我氏と物部氏の対立を装う事によって、この時代における歴史を更に判り辛くしており、これが今に至るまで解明されていなかった最大の理由なのである。

次は日本の歴史を語る上においては、絶対に避けて通る事が出来ない、日本人なら当然誰もが教わる、教科書にも載せられたあの645年の出来事、「大化の改新」に関わった人物の謎に迫ってみたいが、この出来事は実際には「乙巳の変」が発端となるもので、事件は実際に起こったものかかどうか、未だ解明されていない謎とされる事件なのであるが、古代史研究家の方々のご指摘からも窺える様に、自身が色んな史書に目を通して研究を重ねた結果、この事件は記紀が大化の改新後における天智天皇政権樹立までの様々な事件や戦闘、その結果生まれた中大兄皇子や中臣鎌足における日本=熊襲(新羅政権)政権を正当化する為に、蘇我入鹿(ソガノイルカ)といった悪役を勝手に仕立て上げ、更にそれを誅した両人の正義を、記紀が読者に訴えかけたものとも眼に映ったのである。それまで蘇我氏において入鹿なる人物は、記紀には全く登場すらしておらず、この事件によって蘇我蝦夷は自害した事も描かれているのだが、この人物の事績は追い詰められて自害した倉山田石川麻呂(茅淳王=物部尾輿)とも重なる事から、この蝦夷は馬子の義理の父親に該当する歴代蝦夷の一人と判るのである。結果的にこの大化の改新に至るまでの事件は、全てが辻褄併せの架空の出来事とは言えないものの、前述した一部における事件を除いては、自身の中で蘇我入鹿の名を語って、勝手に記紀が創作した事件といった事で落としどころを得たのである。よって結論を述べるのであれば、蘇我入鹿を全く架空の人物とするにはその根拠も乏しく、意図的に情報操作された感のある記紀における数少ない情報では、蘇我入鹿のモデルは実際に存在したのかも知れないが、全く謎の人物!というしかないのである。次回は更に中大兄皇子の謎を掘り下げて行ってみたい。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-521.html 【地名が語る日本のルーツ 69 記紀が創作した蘇我入鹿の正体は中臣鎌足に討たれた孝徳天皇】より

地名が語る日本のルーツ

以前、中大兄皇子及び中臣鎌足等よって大極殿で殺害されたとされる、当時における最高権力者であった蘇我入鹿なる人物は、「記紀」が勝手に創作した人物で、実際にモデルとなる人物は存在したのかもしれないが、少なくともここでは天智天皇(中大兄皇子)に取って代わられた、政権交代を正当化する為に利用された架空の人物と語った事があったが、話が本筋から少し横に反れる事を理由に、敢えてこの人物に関しては避けて通って来た。今回は長きに渡って紐解いて来た藤原鎌足の謎もようやく終える事が出来た事もあって、学校教育の歴史においては必ず誰もが知り得る事になる、この「蘇我入鹿」なる人物に隠された謎を暴いてみたい。

ここではその名前を紐解きながら、実際に存在したのかどうか、あるいは存在したのであればその人物像やその謎の部分に迫っていく事になるが、この人物の名は誰もが今まで「ソガノイルカ」と読まされて来た筈である。蘇我はもちろん速日(ソカ)=シャカ(釈迦)の名前から当て字された名前である事は、今まで述べてきた事で充分お分かり頂けたとは思うが、入鹿はイルカ以外では「ジュカ」とも読めるもので、当時の発音に濁音が無かった事を前提とすれば「シュカ」と発音した事が分かる。自ずとこのシュカは発音が「シャカ」と重なるもので、これに当て字すれば蘇我(ソカ)になる事もお分かり頂けよう。つまり蘇我入鹿は蘇我ソカで蘇我(ソカ)を単純に重複させただけのものなのである。今まで紐解いて来た藤原鎌足の分身ウマシマジがそうであった様に、ウマシマジは馬子(ウマシ)馬子(マジ)と当て字する事も可能。他でもその傾向が記紀においては多々見受けられるのであるが、記紀編纂者は百済嫌いが先走り過ぎて、その時に登場した人物の官名は出来るだけ個人を特定し難くさせる為か、わざと単純化している傾向が窺えるのである。

結果的に蘇我入鹿なる人物は蘇我一族の中の一人?であって、蘇我が単純に重複された官名「蘇我入鹿」だけでは個人を特定することは不可能という事になるのだが、これが冒頭で述べた蘇我入鹿は記紀の創作した架空の人物といった事に繋がる話なのである。ただし、これだけで終わらせてしまってはただ名前を紐解いただけに終わってしまうので、ここでは蘇我入鹿の異名であるところの「林大臣」、あるいは「鞍作大郎」から今一度紐解いてみたい。

前者における林大臣の「林」はハヤシと読めるが、ハヤシの「シ」と「ヒ」はほぼ同じ発音で、「林」はハヤヒと発音する事も可能、これに当て字すれば速日(ハヤヒ=ソカ)になる事がお判り頂けると思うが、これは間違いなく「蘇我」を表したもので、「大臣」はポストとしての大臣ではなく、太秦(ダイシン=ウズマサ=ウチナ)の当て字が可能な百済(ホツ=太)と茅淳(=秦=チヌ)の支配した国名を表したもので、これは以前から述べている通りである。つまり「林大臣」は個人名を指したものではなく蘇我、百済、秦(茅淳)を支配した官名だったという事になるのである。もちろんこの官名が歴代倭王としての倭速日=孝徳天皇を指す事は言うまでもないが。

後者における鞍作大郎の「鞍作」はクラツクリと読む事とされており、自身がいろんな史書に目を通す限り、鞍などの武具を造った一族の名前であるといった事が定説になっているのだが、これでは余りにも短絡的過ぎ!確かに鞍は馬に乗せる鞍の事であるが、以前から何度となく述べている様に、一音に対して一字が当てられた当時の当て字には全く意味は持たせていないのである。自ずと鞍(クラ)は高麗(クレ~クラ=高国)の当て字という事も分かるのであるが、記紀が「作」として倭王を蔑んで付けた官名であるところの鞍作は高国(高句麗)王を指したもので、後に続く大郎(タロオ)は「太郎」と当て字を変化させるだけで、「太」をホツと発音した太王(ホツオオ)で百済(ホツ~ホヅ)王という事になるのである。つまり鞍作太郎は高国(高句麗)王でしかも百済王、結果的に高句麗王であり百済王である以上蘇我入鹿は倭王であった事も証明されたのであるが、これに一番相応しい人物を挙げるならば、数多い異名を持った当時の倭速日=孝徳天皇(=長髄彦)以外は考えられないのである。ここで蘇我入鹿=林大臣=鞍作太郎=孝徳天皇という図式が成立するのであるが、記紀においては蘇我入鹿を殺害に及んだ理由も含めて、大極殿で討った時の状況も事細かく描かれている。この記述内容が事実である事を前提とし、蘇我入鹿が殺害された(乙巳の変)結果だけを捉えれば、この「乙巳の変」は百済王子豊璋(=ウマシマジ=中臣鎌足)が百済将軍鬼室福信(=孝徳天皇)を処刑した話と全く重なる話で、流石に記紀編纂者もその事件の内容は把握していなかったのか、あるいは敢えて別事件としたのか、その処刑方法は非常に残虐であった事まで含めて、別記事として記紀には生々しく描かれているのである。

結果的に蘇我入鹿にその事績も含めて一番相応しい人物は、中臣鎌足及び天智天皇に討たれた孝徳天皇という事になるのだが、記紀が血塗られた皇統上における真実を伏せるが為、あるいは孝徳天皇(=鬼室福信)を中臣鎌足(百済王子豊璋)が処刑した事実は絶対に後世まで残す訳にはいかず、蘇我入鹿(ソガシュカ)といった単純な名前を勝手に創作した上で、その架空人物に罪人あるいは歴史上における悪人として汚名を着させた上で、政権交代を正当化するが為に、この実際に起きた事件を蘇我入鹿暗殺事件として葬り去ろうとしたと思えるのである。当然これが記紀読者にとっても現代人にとっても一番分かり易く、一番辻褄が合う話という事になるし、自身の出した最終的な結論としては、先に触れた様に蘇我入鹿は記紀が創作した架空の官名ではあるが、そのモデルは処刑された孝徳天皇(歴代倭速日)の事績が限りなく投影されたもので、どちらにしても今回も記紀に挿入された別記事や、蘇我入鹿に対して付けられた異名が見事にそれを解明してくれたのである。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-478.html 【地名が語る日本のルーツ 72 天智天皇の娘とされる持統天皇は間違いなく倭蘇我王「長髄彦」の娘】より

地名が語る日本のルーツ

前回は大海人(オオアマ)こと天武天皇の出自をその官名から紐解いたが、今回は天武天皇が再び倭国の女王にあった宝皇女(遠智娘=斉明天皇=推古天皇)の娘を皇后にして、今一度倭国の伝統ともいえる女王国家にしなければならなかったのか?その謎も含めてその皇后となった鵜野讃良皇女の謎に迫ってみたいが、この皇女は一般的には「ウノノサララ皇女」と読まれており、日本書紀における諡号では高天原広野姫(タカマノハラヒロノヒメ)天皇となっている。もちろんこの女性が持統天皇の事なのであるが、まず幼名とされる鵜野讃良皇女の官名から紐解いてみたい。

鵜野(ウノ)はウヤと読めば大国(ウヤ=オオヤ=倭国)と当て字が可能、讃良(サララ)はサラとそのまま読めば、咲く(サク=開く)の同義語とも言える開を「サ」と発音した開国(サラ=カイラ=カイヤ)の当て字が成立、もちろんこの国名は蝦夷(カイ)国(ヤ)の事で、これを通して読めば鵜野讃良皇女における本来の名乗りは「倭国之蝦夷皇女」という事が判る。この名前は明らかに孝徳天皇=蘇我蝦夷と蝦夷王女を受け継いだ形の官名といえるもので、その皇后であった斉明天皇(=額田姫王)も鏡(ケイ)王女と呼ばれた蝦夷王女、つまり倭国を滅ぼした天智天皇の妃になる以前の孝徳天皇皇后名で、その時生まれた娘の幼名が、自身が紐解いた様に「倭国之蝦夷皇女」である以上、記紀に記述された天智天皇の実の娘である事は絶対に有り得ないし、この女性が額田女(ヌカタムスメ)を名乗る以上、孝徳天皇と額田姫王の間に生まれた皇女といった事になるのである。つまりこれで天智天皇は敗戦国における皇后共々その娘(=皇女)までを、政略結婚としての人質という形で自身の宮に入れたという事が判るのである。

結果的に天智天皇の娘は鵜野讃良皇女ではない事が明確になったのだが、これは明らかに皇統上における辻褄を併せる為の記紀による創作という事になるし、もちろんその長女とされる大田皇女(=歴代倭殿皇女)も、後で草壁皇子と結婚した元明天皇も、間違いなく孝徳天皇との間に生まれた三人娘の一人だったのである。ただしこの三人娘が斉明天皇の連れ子である以上、自ずと天智天皇にとっては義理の娘といった事になるので、皇統上においては決して間違ってはいないのであるが、やはりここはかつて倭国と呼ばれた国が、再び仏教(蘇我氏=倭国)と神道(女王国家=邪馬台国)の両立した国を目指す為の、ターニンングポイントともなる最も重要な部分とも言えるので、皇統上における真実を究明する為にも決して避けて通る事は叶わず、記紀が情報操作をしたと思える小細工を正す為には、絶対にその真相を暴く必要があると思えたのである。結果的に蘇我氏が倭速日として君臨した、倭国の伝統ともいえる政治形態に回帰しなければならなかった理由は、ここにあったという事になるのだが、つまり一度は新羅の神道重視の政治形態(祭政一致)となったものの、国民は今まで蘇我氏が布教して馴染んで来た、仏教と神道の共存した政治形態を望んでおり、天武天皇もそれを承知の上で、記紀に描かれている様に、神道と仏教が共存した政治を更に推し進めて行ったという事になろうか。もちろんそれは鵜野讃良皇女が、後で天皇として即位した事実で充分理解出来るのである。

次は諡号となる高天原広野姫(タカマノハラヒロノヒメ)天皇の名を紐解くことになるが、高天原(タカマノハラ)は「高天」をコオーアマと発音すれば大海(オーアマ)を指したもの、「原」はもちろんワラと発音する倭国の事で、「広野」は以前紐解いた事のあるヒロ(=広)をシロ(=白)と発音してハク~ヒャク(=百)と読み、最後にヤ(=野=国)付ければ百国(ハクラ=クダラ)という事になるが、これは間違いなく百済を指した国名、もちろんここでもこの皇女が天智天皇と同じ新羅出身者ではなく、百済出身者である事を隠すが為に、記紀編纂者がわざと広野と当て字している事も判るのである。これを最初から通して漢字に表せば、「大海、倭国、百済」といった統治支配した国が官名と共に浮かび上がってくるが、これこそ天武天皇と同じ大海(タマ=丹国)と百済倭国(=藤原国)の国名が入った官名で、この時点で間違いなく倭国は藤原国と名を改めた事も判り、この官名は二人が間違いなく天皇と皇后の夫婦関係にあった事を証明する官名という事になるのである。

しかもこの「高天原」は三世紀に登場するコマゲ=熊毛を直接指すものではないものの、同時に天之国(=丹国=但馬=種子島)を表したもので、この夫妻のルーツは種子島(=熊毛郡=高天原)を振り出しに支配地を拡大していった、天孫族を暗示していたのである。もちろん前回触れた大海(=近江)は、支配した国を指すのと同時に、出身国を指す種子島の事で、これは前回紐解いた天武天皇が耽羅王であった事の裏づけともなるもので、大海人(オオアマ=凡海)一族が奄美大島から種子島、更に九州を経て済州島や近江(滋賀県)まで支配地を拡大していった事を、見事に証明してくれたのである。ちなみに天武天皇紀に多禰(タネ=種子島)に使人を遣わしたり、多禰人が来朝したおりに饗応したり、掖玖(ヤク=屋久島)人や阿麻彌(アマミ=奄美)人などに禄を賜わったり、更に鹿児島の阿多隼人や大隅隼人が朝貢に訪れたりと、やたら九州南部地区との交流が盛んに行われ始めた事も、天武天皇自身が先に触れた丹国出身者である故の話で、天皇崩御における儀式に真っ先に現れて弔辞を述べた人物は、大海の当て字ともいえる凡海(オオアマ)の名が入った、凡海荒鎌(オオアマアラカマ)とされているのである。自ずとこの凡海氏が大海人皇子の養育に関わったとされる人物という事も充分肯けるのであるが、これで都(藤原宮)があった明日香からはほど遠い琉球諸島一帯までが、後で富本(ホホン=フモト)国と呼ばれた藤原国が支配した国であった事が理解出来るし、やっとここで日本は富本国として統一の第一歩を踏み出した事になるのである。これは日本における最古の貨幣に描かれた富本(フホン=ホホン=フモト)の二文字が、見事にそれを証明してくれているのである。それと同時に天武天皇が種子島出身者(天孫族)である事を隠す為か、記紀はここでも多禰は種子(タネ=シュシ=都羅)の事で種子島を指すにも拘らず、わざわざ耽羅(タンラ=タラ)と記しているのである。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-522.html  【地名が語る日本のルーツ 74 藤原不比等は藤原鎌足の子ではなく孝徳天皇と斉明天皇の子】より

今回は冒頭におけるタイトルにも挙げた様に、以前藤原不比等は藤原鎌足の子ではないと述べた事の根拠や、それに繋がる証拠を示しながら、更に「記紀」が最後まで隠し通した藤原不比等の出自に迫っていきたい。

藤原不比等は学校教育の場で当たり前の如く教わってきた様に、一般的には「フジワラノフヒト」と読まされてきたが、普通に学んでいればあの藤原鎌足の子で、全国的に展開される藤原の姓は鎌足から受け継がれて不比等に渡ったものといった事は、古代史に興味のない方々でも充分認識されている筈である。当然ここでは「記紀」を盲信したこの誤った教育を正さなければならないのだが、何時もの様にこの不比等(フヒト)と読まされて来た官名が何を指しているのか先に紐解いてみたい。

まず「藤原」は以前紐解いた様に百済(フジ)と倭国(ワラ)の合さった倭国が日本と改名する前の名前という事が分かるが、不比等の不(フ)は夫(フ)に当て字変換して「オ」と読めば「倭」の当て字が完成する、比等(ヒト)はそのまま「ヒラ」と読めば「開」の当て字が完成、開(カイ)は以前から当て字変換してきた様に「蝦夷」と当て字する事が出来るが、これをそのまま漢字で表せば「倭蝦夷」となる事がお判り頂ける筈である。つまり不比等の名前の語源は単純に倭国における最高位の官名倭速日(倭蘇我)の蘇我を省いて残った名前といった事になるのである。もちろん何故ここで蘇我が省かれているのかは、このブログをずっと拝見して来られた方なら直ぐお分かり頂けるとは思うが、天武天皇に政権が代わって後の国名は日本(富本)で、その指導者における最高位に位置する官名は「真人」、つまりこの時点から蘇我の称号は全く使用されていないからなのである。この蝦夷(カイ~ケイ)が何を指しているのかといえば、孝徳天皇における異名蘇我蝦夷、あるいはその皇后でもある斉明天皇の異名鏡(ケイ=蝦夷)王女=蝦夷王女、更に以前紐解いた持統天皇における名乗りも倭国之蝦夷皇女、つまりこれだけで不比等はかつての倭速日夫妻から同じ蝦夷の名前を譲り受けた皇子で、しかも持統天皇と不比等は兄妹であった事も分かるのである。自ずと敗戦国家とならなければ孝徳天皇の跡継ぎは間違いなく不比等という事になるのであるが、これで藤原不比等が藤原鎌足や天智天皇の実子でないことは明白!以前触れた様に天武天皇と雌雄を決した「壬申の乱」における最高責任者藤原鎌足の子とされる不比等が流罪だけに終わる事は決してないし、戦国期においても同様、敵として滅ぼされた側の大将の一族が郎党共々根絶やしされた事実をもってすれば、鎌足の息子がそのまま生かされる事は絶対に有り得ないのである。

ここからは不比等が孝徳天皇と斉明天皇の実子である決定的ともいえる証拠を挙げてみたいが、不比等の母親は車持与志古娘(クルマモチノヨシコノイラツメ)とされている。この「クルマモチ」と読まされている「車持」は、そのまま読めばシャジ、シャモチ、あるいはシャモヂとも読めるもので、当て字変換すればシャは「輿」に、モジは「百済」になる事が分かる、つまり以前触れた事のある「輿」はミコシの事で尾輿(=神輿=ミコシ)、もちろん百済は物部(フツマ~ホツマ)を指した国名、両者を合わせればあの「物部尾輿」の官名が完成する、これこそ以前紐解いた事のある神道における最高神ともいえる百済御中主(百済ビシュヌ王=天御中主)の称号で、孝徳天皇(=蘇我蝦夷)が物部守屋を討って得た称号、車持の後に続く名前であるところの与志古娘はさして重要とも思えない官名なのであるが、ここで敢えて紐解けば、与はヨと読めば「輿」に当て字変換可能、結果的に与志(ヨシ)を輿志に置き換えるだけで読み方はシャシ、つまり車持のシャシという事になる。最後に残った古はそのままコと読むだけで高に当て字変換可能、ここでシャシは車持と与志(ヨシ=輿志=シャシ)のシャシが重複している事が分かるのであるが、これを最初から通して漢字に羅列すれば、「車持与志古娘」の官名は物部尾輿(=車持)、物部尾輿(=与志)、高句麗(古=コ=鎌)という事が判る。もちろん娘は姫の事になるが、この官名は物部鎌姫(=斉明天皇)と間違いなくかぶる官名である。もちろんこれも証拠の一つといえるものである。

今まで述べた事を踏まえれば、藤原不比等は間違いなく孝徳天皇と数多くの異名を持つ斉明天皇との間に生まれた、倭国王としての正当な跡継ぎだったという事が分かるのである。もちろん先に触れた女王持統天皇とも兄妹関係で、後に持統天皇と天武天皇の間に生まれた草壁皇子に仕えた事で不比等の才能は見出され、そこから更に立身出世の階段を上がっていったものと考えられるのである。

ちなみに不比等は軽皇子の擁立でも功績があったとされるが、軽皇子が「文武天皇」として即位後に娘の宮子が皇后として嫁いでおり、藤原朝臣の称号からも窺えるように、本来の藤原氏は処刑された藤原鎌足や流罪になった一族ではなく、間違いなく孝徳天皇の実子藤原不比等を始祖として始まったものという事が明確になったのである。結果的に蘇我氏は政権こそ奪われたものの、孝徳天皇の血脈は藤原不比等や持統天皇から繋がる王族、あるいはその息子や娘に至るまで、戦国期を経て現在に至るまで未だ脈々と受け継がれているのである。ここで既にお気づきかとは思われるが、草壁皇子の息子である軽(カル)皇子(後の文武天皇)の軽は正しく蝦夷のケイ、やはりケイ~カイはどこまで行っても蘇我蝦夷(=歴代軽皇子)から繋がる名前であり、地名蝦夷(エゾ=北海道)や甲斐、あるいは群馬県や栃木県の毛野(ケイヤ=蝦夷国)、更に津軽に繋がる地名は一族が更に関東から北海道まで間違いなく移動進出した事を物語るものであり、カイ(軽、兄、開、毛)は明らかにその国名が地名として刻まれた部族の誇りとも言える名前だったのである。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-523.html 【地名が語る日本のルーツ 75 群馬の古名「上毛野」は甲斐などと同様、蝦夷国から発展した地名】より

地名が語る日本のルーツ

今回は前回からの流れで蘇我蝦夷(ソガノエミシ)の官名の一部であるところの、一般的には「エゾ」と読まれる蝦夷(エミシ=カイ)が数世紀に渡る末、蝦夷国としてどこまで勢力を延ばしていったのか、蝦夷の当て字も含めた地名から紐解いてみたい。

まず蝦夷の当て字であるカイ~ケイは、「記紀」に登場する王名や皇子名などの当て字として主に毛(けい)、開(かい)、軽(けい)、兄(けい)、鏡(けい)などがあるといった事は今まで例を挙げながら述べて来たが、もちろん蘇我を代表とするシャカの当て字も同様それに伴う形で全国展開されている。この蝦夷国はそのまま当時の発音として読めばケイマ、ケイナ、ケイヤ、カイヤ、カイラなどとも読めるのだが、国を指す「ヤ」=野が使用されている群馬県の古名「上毛野」と栃木県の古名「下毛野」、前者はカミツケノ、後者はシモツケノと読むが、毛野だけ取り上げれば「ケノ~ケイノ」、このケノをケイヤと読めば「毛国」、あるいは「蝦夷国」と当て字が可能な事はすぐお分かり頂けるだろう。つまりこれがかつて大阪に都を構えた蝦夷国(=軽国=毛国)が、更に奈良県の「戒」を経て更に東国まで移動進出した証なのである。もちろん大阪の淀川畔にある「毛馬」の地名も直ぐそれと分かるものであるが、その北に位置する高槻(タカツキ)市はその地名の由来は定かではないものの、そのまま読んだだけでコオツキ~コオツケ、つまり上をコウと読んだカミツケ=上毛と同じ発音、これだけで高槻(コウツキ)も上毛(=コウツケ)の当て字という事が判るのである。しかもこの高槻の名の起こりは神武天皇(=ここでは天智天皇)東征における功績として、あの倭国を裏切ったウマシマジ(=中臣鎌足)にこの地が与えられたから、といった説も残っているのである。

先に触れた毛野の頭に上が付く上毛野は「上」をコウと読んだだけで当て字として高蝦夷国になる事がお判り頂けると思うが、「下」は本来は「シ」あるいは「ジ」と読むもので、「シ」の後に「ン」を付けた茅渟(=チヌ=チン=シン~秦)への当て字が可能、つまり下毛野は秦(チン)毛国で茅渟蝦夷国の事なのである。この二つの名前が意味するものは、かつての分国朝鮮高句麗が滅び茅渟(秦=天)蝦夷国として明らかに独立した名前、自ずと両者は同じ国という事なのである。古代この地を統治した氏族は上毛野君、あるいは下毛野君と呼ばれるが、この両君の始祖は三世紀にまで遡ることになるが崇神天皇皇子「豊城入彦」となっている。もちろんこの人物は魏志倭人伝に登場する「都市牛入」の事で、以前この名前を紐解いた様に、素直に読んだだけでトシギイリ~トチギイリと、限りなく豊城入(トヨキイリ=トチギイリ)の官名に近く、しかも念の言った事に当て字を変化させれば正しく「栃木入」、これで栃木県の語源は間違いなく豊城入(都市牛入)からくるものと分かるのである。この皇子は四道将軍の一人という事になっており、剣を東に向かって振り下ろした事からといった理由が付けられているが、正しく東国に派遣されたのである。ただし三世紀における邪馬台国の都(鹿児島神宮)を視点とした東側は都城市あるいは宮崎市で、都城(ミヤコノジョウ)はそのまま読んだだけで「トギ」と発音可能、これで三世紀に豊城入彦が支配を任された地は紛れもなく都城で、近世に東国と呼ばれた関東では絶対に有り得ない事がお判り頂けただろう。本気で日本のルーツを知りたい古代史ファンの方であれば充分お分かり頂けるとは思うが、三世紀に鹿児島にあった邪馬台国が、豊城入彦が東国に派遣されたといった理由、あるいは上毛野氏の始祖が豊城入彦というだけで、関東まで覇権が及んでいた話など、卑弥呼の墓が近畿にある話と並んで有り得ない話で、古代史研究家の方々があれだけ長い時間を割いて研究されて来られたにも関わらず、とにかく表面に現れた情報だけを短絡的に捉えた説や、結論を出したにしてはその根拠や発想が余りにも乏し過ぎる説が多い様にも思えるのである。

それは津軽地方を狭義における青森県とする解釈や、「渡島」をワタリシマと読んでそのまま北海道と解釈したりする事と同じ事で、以前述べた様に「渡島の蝦夷」は間違いなく「テシマのカイ」の事で孝徳天皇における異名「豊日国の蝦夷」、どう考えてもこの地名は天之国(テシマ)の当て字に繋がる現在の天満(テンマ)で、北海道ではないのは明白!もちろん蝦夷国が長い年月を経て移動した先がかつて蝦夷(エゾ)地と呼ばれた先住民族「アイヌ」の居住地なのであるが、当然アイヌの人々は蝦夷国の民が日本としては最終的に移り住んだ土地という事になるだろう。その現在まで伝わる風習や風俗、更に本土とは全く異なる言葉や文化は正しく先住民族と呼ぶに相応しい人々のものである。

ちなみに「津軽」の名は記紀に記された「軽津の蝦夷」が語源となるもので、先に触れた淀川沿いにある毛馬(ケイマ)の地名が残る周辺、当然当時でも入り江の一部となっていたとも想像が付く、大型船の出入りが可能な「津」と呼ばれる地形で、ここが軽津に該当する地域、他にアゲタと読まされて秋田県とされた飽田(ホウデン~ホゼ)も百済(ホゼ)と当て字すれば自ずと「百済の蝦夷」の事で、かつては沼であった伝わる大阪「中津」同様、これも以前紐解いた様に中は間(ハザマ)の同義語で百済津を指したものという事になろうか。当然山梨県の古名「甲斐」も北海道同様蝦夷一族が長い年月を重ねながら移動し住み着いた名残ともいえる地名なのである。古代史に興味を持ち始めて既に数十年経てしまったが、自身が疑問に思った事や「記紀」における話の辻褄や話の筋が通らない事は、今までこの場を借りて数多いすり合わせを重ねながら、その根拠や証拠挙げながら全て答えを導き出したつもりである。それと共に自身が疑問に感じた部分は、古代史ファンの方々や歴史に興味を持たれる一般読者の方々であれば、誰もが疑問に思う事でもある。もちろんそれは記録として「記紀」や風土紀などにも残されているのだが、記紀編纂者における意図の感じられる情報操作、あるいは各氏族による目線や立場の違いから少し異なった情報となっているのが現状でもある。当然この限りある情報を紐解きながら、後世に建国に至る本当の真実を伝えて行く事が一番大事な部分で、色んな説が勝手にまかり通る中、これを一本化する事が自身も含めて後世における現代人の役割といった事になるのではないだろうか。


http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-entry-576.html 【地名が語る日本のルーツ 76 遣隋使として有名な小野妹子の正体は?】より

地名が語る日本のルーツ

今回は蘇我入鹿と同様、今まで話の本筋から少し外れるといった理由でその本当の正体をを暴いていなかった、学校教育における場で誰もが学んで来た、あの遣隋使として有名な「小野妹子」の本当の正体を暴いてみたいが、この人物は実際に中国側の「隋書」によって「蘇因高」として記録が残されており、随行者「鞍作福利」と共に国書を携えて607年に隋に渡った事が記されている。もちろん後で隋の皇帝からも国書を預かり翌年には帰国しているのだが、一般的にはそのまま発音した形で「ソインコウ」と読まれている。ここではっきり判る事は、隋書に記載されている事や事績が共通する事で「小野妹子」と「蘇因高」は紛れもなく同一人であるという事である。ここでは念の為に実際に同一人だったのかどうかを、今まで行ってきた当て字変換によってその官名から紐解いてみたいが、小野妹子の呼び名は「オノノイモコ」と誰もが教わって来た筈である。それが故に女性ではなかったのか?といった短絡的な説もあるのだが、まず官名の一部である小野(オノ)が実際には支配したどこの国を指すのか紐解いてみたい。

「小野」は素直にそのまま「オヤ」と発音すれば倭国(オヤ)の当て字が完成する事が判る、妹子(イモコ)は実際にはマイコ、あるいは発音の変化によってマコと発音する事も出来るが、この「イモコ」こそ少し訛りを加えて発音した「ウマコ」の事で、当て字すれば馬子(ウマコ)になる事がお判り頂けよう。もちろんマコ~マイコと発音しても馬子(マコ)に当て字変換可能で、ウマコが以前紐解いて来た様に太国皇子(太国子=ウマコ)=ダイコクオウジという事であれば、結果的に小野妹子の官名は「倭国の太国皇子」で、倭国の百済皇子という事にもなる。後者における蘇因高の「蘇」はそのまま「ソ」と発音出来るが、これに助詞である之(ノ=ヶ=ガ)を付け足せば蘇ヶ=ソガと当て字する事が可能、もちろんこれは隋国側が「ソガ」の「ガ」を助詞であると解釈した事で、「ガ」が省かれている事が判る官名という事になるのだが、これは間違いなく蘇我(=蘇ヶ=ソガ)の事で、因高(インコ)は少し発音を変えて読めば「インコ~イモコ~イマコ」、自ずとこの名も先に触れた馬子(ウマコ~マコ)の事で、この名前こそ「ソガインコ」と隋国側が聞き取り、それをそのまま漢字に当て字した官名で「蘇因高」という事になるのである。当然倭国の使者であるが故に「倭の=オヤ=小野」は官名から省かれたものとなっているが、これで小野妹子は間違いなく蘇因高と同一人で、しかも蘇我馬子とも同一人という事が判るのである。この小野妹子こそ歴代蘇我馬子の事で、遣隋使の派遣された607年頃における百済皇子(太国皇子)の事なのである。もちろん馬子は官名なるが故にそれに該当する人物をこれから探さなければならないのだが、取り合えずそれに相応しい人物は二名挙げられる事が判った。その中の一人が茅渟王(=倉山田石川麻呂)娘の入り婿となった物部守屋で、以前崇峻天皇と同一人として紐解いた人物、もう一人は自ずとその崇峻天皇を暗殺して王位を得た孝徳天皇という事になるが、両人とも茅渟王娘の入り婿となった義理皇子に当たる人物(ルーツ54を参照のこと)である。この二人のどちらかが間違いなく遣隋使小野妹子として派遣された人物という事になるのだが、特に記紀におけるこの時代の記録や情報は歴史の流れを全く無視したものとなっており、天皇在位年数や即位における順番の改竄、あるいは同一人と判っているにも関わらず、敢えて天皇諡号(用明天皇や推古天皇)を変えて記載した皇統上における重複記載、天皇諡号から支配していた新羅だけを敢えて消し去った官名、更に即位の正当性を持たせる為にその辻褄合わせとして朝鮮分国王を勝手に天皇にし立てて皇統上に載せた(敏達天皇など)といった具合で、この動乱の時代における記録は相当改竄されているとみるべきで、結果的に百済本国の存在を記紀から消し去る為、あるいは新羅を正当化する為に行われた記紀における偽情報では、該当する人物の特定は至難の業という事に落ち着いたのである。自身は物部守屋(=崇峻天皇=歴代蝦夷皇子)を討ってその官名を得た次の軽皇子(=ケイオウジ=兄皇子=蝦夷皇子)、つまり百済国(太)と蝦夷国(兄)を支配した官名が裏付ける太兄皇子(後の孝徳天皇)こそ、小野妹子に一番相応しい人物であると推測(確率的には95%)したのであるが、、、 どちらにしても同じ時代をリアルタイムで共有した二人の百済皇子(馬子)の一人を特定する事はほぼ不可能といった事になろうか。

ちなみに小野妹子における随行者の一人「鞍作福利」の官名を紐解けば、鞍作(クラツクリ)は以前紐解いた様に高句麗王の事、福利は今まで当て字変換で紐解いて来た事で充分お判り頂ける様に、福利の福(=ホク)を百済の事とし、「利」を人(リ)に当て字変換すれば「福利」は百済人を指したもの。つまり官名「鞍作福利」は高句麗の支配を任された百済人(=倭国人)という事になり、隋国と朝鮮高句麗とは同じ大陸内において繋がりがあり、中国語を話せた事も理由になると思われるが、自ずと通訳として随行した事が判るのである。もちろん鞍作福利は分国としての朝鮮高句麗王であるが故に、記紀には帰国した事が記載されていないのであるが、実際には通訳として随行しただけでそのまま朝鮮半島に残った事が判り、記紀に小野妹子と同時帰国した事が記載されていないのは当然の話なのである。もちろん高句麗本国は時代と共に国名を変化させた蘇我氏が代々支配した秦国(=茅渟国=天之国=テシマ)の事で、隋の使者によって秦王国と呼ばれた茅渟王(=秦河勝)が支配した豊日国(テシマ)の事なのである。