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百済とヤマト王権

2024.05.24 02:12

https://www.rekishijin.com/19649【「謎の4世紀」に行われたヤマト王権の朝鮮進出】より

歴史人編集部

ヤマト王権の成立に重なる謎に満ちた「空白の4世紀」

神功皇后

朝鮮半島を服属させた「三韓征伐」の伝説をもつ。東京都立中央図書館蔵

 古代中国の文献には当時の日本(倭国)のことや、その交易(朝貢/ちょうこう)の様子が、たびたび登場する。裏を返せば、当時の日本列島に住む人にとっても、中国大陸や朝鮮半島は身近な存在であった。3世紀の邪馬台国や女王・卑弥呼についての記述は『三国志』(魏志倭人伝)に紹介され、『宋書(そうしょ)』には5世紀に朝貢した5人の倭王のことが記される。

 しかし、その間の約150年間、4世紀にあたる時期については中国の史書にみられない。このことが、ヤマト王権の具体的な成り立ちを分からなくしている。いわゆる「謎(空白)の4世紀」と呼ばれる時期である。当時の中国では魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の三国時代が終わり、五胡十六国(ごこじゅうろくこく)という動乱期に突入。439年に北魏(ほくぎ)が統一するまで戦乱が続き、統一国家もなく、倭国に目を向ける余裕がなかったという事情がある。

 しかし、重要な手がかりが中国・吉林省(きつりんしょう)で見つかった好太王碑(広開土王碑/こうかいどおうひ)に残されていた。この碑は高句麗(こうくり)の好太王の業績を称えるため、子の長寿王(ちょうじゅおう)が414年に建てたものだ。当時の朝鮮半島は、高句麗・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国による勢力争いが激化していた。碑文からは、高句麗を中心とする朝鮮半島の様子、倭国の動静が確認できる。百済は399年、倭と同盟した。高句麗王は百済を討つため平壌(ピョンヤン)へ向かうが、そこで新羅から使者がきて、倭との戦いに力を貸してほしいと頼んできた。そのため高句麗王は新羅を救援した。400年、5万の軍で新羅の王都にいた倭の大軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが新羅の王都を占領した。

 404年、倭の兵が帯方(たいほう/黄海道地方)に侵入してきたので、これを迎え撃って大いに破った。およそ、碑文にはこのようなことが刻まれている。百済や新羅より、海を越えて攻めてくる倭国との戦いを重視していたようにも読める。

百済とヤマト王権の関係と朝鮮進出の目的とは

『日本書記』の引用する『百済記』には「倭と百済が同盟して367年に新羅を討った」と記される。おそらくその証しとして、4世紀に百済で造られたとされる七支刀(しちしとう)が石上神(いろのかみ)宮(奈良県天理市)に残る。

『日本書紀』によれば、このときに朝鮮半島を攻めたのは第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の后である神功(じんぐう)皇后であったという(三韓征伐)。皇后は卑弥呼に比せられる見方もあるが、年代のずれもあってその可能性はほぼない。

 倭国(ヤマト王権)としては、朝鮮で最も強大な力を持つ高句麗が、百済や新羅を倒してしまえば、大きな脅威となる。それを阻止するためにも朝鮮半島への介入は必要といえた。ただし、ヤマト王権には半島を占領するという目的はなかったと考えられる。百済や伽耶(かや)などの勢力を助け、その関係を維持して権益を守る、ひいては高句麗や大陸の日本侵攻を防ぐことが狙いであったとみて良い。倭国では鉄が生産できなかったため、鉄の産地である朝鮮半島南部との関係維持も不可欠であった。


https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/yamato-oken/ 【大和政権・大和朝廷 /ホームメイト】より

「大和政権」(やまとせいけん)は日本で初めて成立した大規模国家で、現在の奈良盆地の東南部を中心とする豪族達の政治連合を指します。大和政権は、かつて大和朝廷(やまとちょうてい)とも呼ばれていました。しかし、この時代はまだ統一国家としての政府を意味する朝廷が成立していなかったことから、今では大和政権または大和王権と呼ぶのが一般的です。多くの渡来人(とらいじん:4~7世紀にかけて日本に移住した朝鮮や中国の人々)が登用され、彼らがもたらした先進の技術・学問が政治や文化の発展を支えました。

大和政権の成立と仕組み

大王が中心の古代政権

ワカタケル大王(雄略天皇)

ワカタケル大王

4~7世紀半ばまで続いた大和政権。皇室の祖先と言われる大王(おおきみ:大和政権の首長の尊称)を中心に、大和や河内(かわち:大阪府南東部)の大豪族や各地方の有力氏族などが結びついた政治組織です。

「古事記」や「日本書記」に「ワカタケル」という大王の存在が記されており、5世紀後半には九州から東北地方南部に至る広大な地域に勢力を広げていたとされます。

大和政権は支配していた九州を足場に、朝鮮半島南部の「伽耶」(かや)地方に進出。朝鮮半島南西部を治めていた「百済」(くだら)と連合して「高句麗」(こうくり)や「新羅」(しらぎ)と戦うなど、東アジアにおける存在感を増していきました。

統一国家への発展

大王と豪族は、連合政権においては同等の立場でした。しかし、6世紀になり「氏姓制度」(しせいせいど)という大王を頂点とする身分支配の仕組みができたことで、大王と豪族の間に上下関係が生まれたのです。

氏姓制度の「氏」(うじ)は、祖先の系譜を同じくする血族集団で、「蘇我氏」(そがし)、「物部氏」(もののべし)といった有名な豪族が知られています。「姓」(かばね)とは、大王が豪族に与えた役職の称号で、「臣」(おみ)や「連」(むらじ)などがあります。

豪族は、それぞれ役割を受け持ち政治に参加しており、地位や特権は世襲されていきました。大王は、7世紀頃には「天皇」と呼ばれるようになり、天皇を中心に権限や財源が一元化されて中央集権的な組織へと発展し、次第に朝廷と呼ぶにふさわしい国家の形が整っていったのです。

大和政権の施策

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)

大和政権の時代は古墳時代とも呼ばれます。鍵穴のような形をした前方後円墳は3紀後半に奈良盆地を中心に造られはじめ、7世紀の終わり頃まで各地で造られました。

その数はおよそ5,200基。全国に古墳は16万基以上あるとされるため、前方後円墳の割合は3%強に過ぎません。

その理由は、前方後円墳に埋葬されたのが大王やその一族、有力政治家に限られていたからです。大きな前方後円墳としては、「仁徳天皇陵」(にんとくてんのうりょう)の別名で知られる全長486mの「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん:大阪府堺市)や、425mの「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん:大阪府羽曳野市)などがあります。

これらが造られた5世紀頃は大陸との交流が盛んで、巨大な古墳は大和政権の力の大きさを対外的に見せ付けるための象徴と考えられています。

大和政権の外交

弥生時代から始まった朝鮮半島との交流は、古墳時代になってますます深まっていきます。

その頃の朝鮮半島は三国時代と言われ、高句麗・新羅・百済が激しい勢力争いを繰り広げていました。

そのような状況で、以前から日本と親交の深かった百済は、大和政権に軍事支援を求めます。日本は朝鮮半島に何度も兵を送り、高句麗や新羅と戦ったのです。それと引き換えに、百済は鉄製の武器や農具、「須恵器」(すえき)と呼ばれる土器などを日本に提供。

同時に高度な技術を持つ数多くの職人が日本に渡り、最先端の技術を伝えました。そのなかには漢字や仏教、暦などもあり、古代日本における文化や政権形成に大きな影響を与えたのです。


https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/d5ebb907633daf874314ddf741e04f98 【蘇我氏は全羅南道からの渡来人であって渡来氏族を統括した?:坂 靖『蘇我氏の古代学』】より

 蘇我氏渡来人説は、早くからありました。高麗時代に編集された『三国史記』では、百済は高句麗軍によって475年に都の慰礼城(ソウル)を攻略され、蓋鹵王は敗死したが、子の文周は木刕満致らとともに南方に逃れたとしています。一方、『日本書紀』では応神天皇25年(414?)の条に、百済の高官として木満致が登場しており、蘇我氏の祖先とされる蘇我満智宿禰と名が似ています。

 そこで、津田左右吉が早くに同一人物と説いたのですが、戦後になってこの説を唱えたのが、門脇禎二『新版 飛鳥ーその古代史と風土ー』(日本放送出版協会、1977年)です。同書が1970年に出された際は、門脇氏は蘇我氏は河内の石川から出たとしており、その後、渡来人説に転じたのです。

 しかし、『三国史記』では南方に逃れたとするだけで倭国に至ったとはされておらず、文周は熊津(光州)を都として王となっています。また、年代も60年ほど違っています。このため、賛成する研究者は稀であり、また渡来人説を取り上げる場合も、文献に関する議論がほとんどでした。

 そうした状況が続く中で、蘇我氏と関係深い地から出土する土器などの面から蘇我氏渡来人説を唱え、しかも倭国との関係が強調される伽耶諸国などではなく、朝鮮半島西南端の全羅南道出身と推測した最近の研究成果が、坂 靖『蘇我氏の古代学ー飛鳥の渡来人ー』(新泉社、2018年)です。坂氏は、奈良県立橿原考古学研究所に勤務して古墳や集落の遺跡などを調査してきたうえ、2004年には約1年間、韓国国立文化財研究所で研修をしており、韓国の発掘状況にも詳しい研究者です。本書刊行時の肩書きは、上記研究所の企画学芸部長となっています。

 坂氏は、まず「渡来」と「帰化」の語について検討し、また古代朝鮮諸国の歴史と考古学の発掘状況を概説します。百済は、熊津からさらに南の泗沘(扶余)に遷都した後になってようやく勢いを取り戻し、新羅が伽耶地域の諸国を併合していったのに対して、百済も少しづつ南進して領地を拡大し、全羅南道地域を統合しました。

 坂氏は、その百済王権とヤマト王権をつなぐ役割を果たしたのが、全羅南道の在地勢力であったとし、伽耶地域と同様に小国分立状態にあったこの地域を、韓国の学者たちにならって馬韓残存勢力と呼んでいます。

 奈良盆地にやってきた渡来人の多くは、出土する土器の共通性から見て、この全羅南道地域からやって来たと坂氏は説きます。また、北部九州には、ヤマト王権と百済の間をつないだ倭人たちがおり、この人たちは交易集団であって明白な国家への帰属意識を持っていなかったし、朝鮮半島南部にもそうした人たちがいたと見ます。全羅南道には、日本特有の前方後円墳がいくつも発見されており、相互交流の形跡が見られることが知られています。

 そのような人たちが存在したことは、香港から東南アジアにかけての水上生活者たちを見ても推測できますね。船の上で一生をすごすこの人たちは、季節や天候、その国の治安や経済の状態に応じて移動するのであって、どの国の住民かということは関係ないのです。特に古代については、現在の国家意識や国境を基準にして考えるわけにはいきません。

 さて、坂氏は、ヤマト王権と百済王権の間にあって、両方の文化に通じつつも、在地では実力を発揮できなかった氏族たちが、5世紀にヤマト王権に招かれて飛鳥に定住したのであって、その中で、技術を持った渡来人たちを束ねて頭角を現したのが蘇我氏の祖先だったと推測します。

 下の百済系土器の分布図(同書、118頁)が示すように、7世紀の飛鳥南部の官道沿い、つまり蘇我氏の本拠地に百済系の土器が出土しており、しかも漢江・錦江流域など百済の中央で発見されるタイプは少なく、全羅道で見いだされる系統がほとんどなのです。

 たとえば檜隈地域は、渡来人の集落が点々と確認されていますが、この地域の中心は、東漢氏の氏寺が築かれる檜隈寺周辺です。東漢氏は、蘇我氏の配下の渡来系氏族のうち、もっとも蘇我氏に忠実であったことは有名ですね。

 坂氏は、百済系の土器と墓の出土状況について詳細に論じており、それが肝心な点なのですが、ここでは略させてもらいます。坂氏は、かつてはヤマト政権と並ぶような勢力を持っていた葛城氏が、6世紀以後は蘇我氏配下となり、同じく蘇我氏配下の額田部氏とともに外交面で活躍しており、馬匹文化とも関係深いことに注意します。

 そして、このようにして蘇我氏が飛鳥で力をつけ、大王を迎え入れ、飛鳥を開発して先進的な方策を推し進めていったのであって「飛鳥」派であり、これについては「反飛鳥」の傾向の王族と氏族の動きもあったとします。

 坂氏は、蘇我氏の代々の邸宅と墓についても検討し、馬子の墓とみられる石舞台古墳が大王を上回るほどの力を示す巨大さであるのに対し、より開明的であった厩戸皇子の墓である可能性が高い叡福寺北古墳、およびそれと同時期・同設計の岩屋山古墳は、「小さくきれいに整備されたもの」であって、権力の象徴である古墳の意義が徐々に薄れていったことを示すとしています。

 つまり、斑鳩に宮を築いた厩戸皇子を「反飛鳥」の一人と見るのですが、どうでしょうかね。厩戸皇子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引き、また馬子の娘を娶っていますので、少なくとも、斑鳩に宮と寺を築いた頃は、むしろ蘇我氏の一員であって「飛鳥拡大派」であったように見えますが。

 肝心の土器や墓の説明をこの記事では省略してしまっているので申し訳ないのですが、この本を読む限り、飛鳥を都とした倭国では技術を持った渡来氏族がいかに様々な面で活躍していたか、それも百済中枢でなく、半島南端の全羅南道地域出身の人々がどれほど多かったかが明らかになったものの、蘇我氏について言えるのは、その人たちと関係深く、彼らを統括してその力によってのしあがった、ということまでであるように思われました。

 むろん、『扶桑略記』推古元年正月条に「(法興寺の)刹柱を立つる日、嶋大臣、幷びに百余人、皆な百済の服を着す」とあるのは、百済から技術援助をしてもらったためだけでなく、自らの氏族の出自の国であるためであった可能性もないではありませんが、確定するにはもう少し証拠が必要でしょう。ただ、本書は飛鳥の実態を知るうえで、きわめて有益な書物であることは間違いありません。

【付記】

土器から見た全羅南道地域と倭国の相互交流の状況、それが河内を中心として手工業を発展させて近畿の開発を支えたことについてPDFで読める最近の論文としては、中久保辰夫「百済・栄山江流域と倭の相互交流とその歴史的役割 (第2部 総論)」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第217 集、2019 年9 月、こちら)があります。