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【感想】NHKスペシャル「古代史ミステリー」

2024.05.24 02:33

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https://note.com/hayahi_taro/n/n91a1d11b8779 【【感想】NHKスペシャル「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」】より

2024年3月17日(日)21時 「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」を視聴しました

<始まる前に>

NHKスペシャルが古代史を扱うのは珍しいですね。卑弥呼なので、どう描くのか、大変楽しみです。

<NHKのあらすじ>

私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。

謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。

「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!

歴史ミュージアムに来館者(原菜乃華)がやって来ました。歴史ミュージアム司書(シシド・カフカ)が応対します。国のルーツを調べるという授業の課題です。館長(前川泰之)が加わります。3世紀は歴史的転換点を迎えていた、そのキーパーソンが卑弥呼です。

・卑弥呼 魏志倭人伝に登場する卑弥呼は謎に包まれています。距離や方角の解釈が様々で一説によると海の中にあることに。

・外交戦略 親魏倭王の称号を得たどのように大国と渡り合ったのか?

・卑弥呼とヤマト王権とのつながり 文字の記録が残されていないので、手がかりが少ないのですでも、最新の研究で明らかになってきています。

■邪馬台国はどこにあるのか? 有力な説とされているのが九州説と近畿説

■九州説 吉野ケ里遺跡(佐賀)国内最大規模です。10年ぶりの発掘調査で現れたのは石棺墓です。研究者は棺の蓋に目を奪われました、無数の線刻は宗教儀式との関連が指摘されています。「鬼道」呪術の一つ、巫女として政治を司ったとされています。

●卑弥呼 この国はいったいどうなるのか? 中国では道教が鬼道とよばれ、同じような儀式をしていたとも言われています。

・七田忠昭さん(吉野ケ里遺跡 委員長)「卑弥呼の時代の墳墓が見つかったのは成果です」

■近畿説 纏向遺跡200回を超える発掘調査、巨大な都市が築かれていたことが判明しています。そこに住む権力者が卑弥呼でしょうか?核心に迫る研究が始まっています。

・中塚武さん(名古屋大学)精密な年代測定法を開発、木材の年代を測定することで卑弥呼とのつながりを探ります。

●239年親魏倭王 纏向遺跡の木材の年代が近ければここに卑弥呼がいた可能性が高まります。炭素同位体比を調べることで気候データを調査してきました。年輪数が30年以上あったら年代が決められる可能性があります。纏向から出てきた木材の中で30年に達するものは1点しかなかったのです。変動パターンにぴったりあいました。一致したのは三世紀、木材を伐採したのは231年です。卑弥呼が生きていた時代と一致します。

もし纏向が邪馬台国の本拠地だったらどこに墓を造ったのでしょうか。

箸墓古墳は、巨大な前方後円墳です。魏志倭人伝によると大きく盛り上がった墓に埋葬され247年かその前後に亡くなったとあります。箸墓古墳は、240から260年に築造されたと想定されています。

・福永伸哉(大阪大学)250年前後で葬送しないといけない人物は一人で卑弥呼が可能性があります。

■歴史ミュージアム 質問「巫女のイメージがあるけど、呪いで国を治めることができるのでしょうか」新しいことが分かってきているのです。倭国は小国に分かれ、それぞれに王がいたことが分かっています。共立されたのが卑弥呼です。

■なぜ卑弥呼を擁立することになったのでしょうか?

●青谷上寺地遺跡 各地で力をふるった王たちなぜ女王を擁立することになったのか?

鳥取青谷上寺地遺跡

上の奥歯が発掘されました。人骨は埋葬されることなく

・濱田竜彦さん(鳥取県) 顎の骨は刃物でつけられたと見られる傷跡が、骨盤を貫く、金属の鏃。各地で見つかっています。大きな騒乱があったことが浮かび上がってきました。争いの原因の一つが気候変動です。激しく上下するグラフ干ばつと洪水など異常気象が頻発していた可能性が。食料を巡る争いがおきていたのではないかと考えられています。騒乱、危機を打開することが各地の王に求められました。その時生まれたのが邪馬台国連合勢力範囲は日本列島の西側に広がっていたものと云われています。

・寺沢薫さん(桜井市巻向学研究センター)

●諸国の争い 女王となった卑弥呼、戦いが始まります。卑弥呼は祭り上げられた立場、まとめるのは容易ではありません。大きな試練が狗奴国、長い闘いになりそうです。

魏志倭人伝に記されているのが宿敵「狗奴国」です。考古学的研究から分かり始めています。

●前方後方墳 前方後方墳は狗奴国の墓と見られています。東之宮古墳(愛知県)狗奴国の勢力範囲は、東側に広がっていたとも言われています。

・赤塚次郎さん(名古屋経済大学)狗奴国の一つの候補になるあいち朝日遺跡ミュージアム

鮮やかな赤色の「パレススタイル土器」入墨をした人物が描かれた「人面文壺型土器」(安城市歴史博物館)狗奴国の王・ヒミココ(卑弥弓呼)日本列島に巻き起こる騒乱、卑弥呼は難局をどう乗り越えていくのでしょうか

■歴史ミュージアム 小さな国が集まってできた邪馬台国連合、ユニークな形のお墓を造っていた双方中円墳、四隅突出型墳丘墓などこれらの古墳を組み合わせてできたのが前方後円墳だと言われています。最大のライバル狗奴国は前方後方墳がシンボル。手がかりは「魏志倭人伝」の親魏倭王ということばに注目します。

■グローバル戦略 東アジアで大変動があったことが最新研究で分かってきました。

・神澤秀明さん(国立科学博物館)青谷上寺地遺跡の人骨から思わぬ発見がありました。

渡来系の遺伝要素がかなり濃く受け継がれています。青谷上寺地遺跡は縄文と中国人の間にあり、DNAの近縁性が見られます。海を越えて混血したことを示しています。世界と深くつながっていたことが分かってきました。中国の戦乱漢の三国志の時代、難民が大量にいました。

・王勇さん(浙江大学) 中国で混乱が起きたとき、難民は東側に移動するのです。神話では蓬莱という理想郷があると信じられていました。朝鮮半島経由で倭国にたどり着いたのです。

大陸から鉄などが持ち込まれ、最新の武器が作られたのです。それまで、石の矢じりが主流でした鉄の矢じりは金属の板を貫通しました。大陸から最新の武器が輸入され、卑弥呼と狗奴国の争いは熾烈を極めたと言われています。このまま狗奴国との争いが続いたら、ますます民は飢え、国は荒れる卑弥呼は新たな策を打ち出します。魏に使者を送り、皇帝が後ろ盾になれば王たちの不満は消える。

●魏との交渉 魏は曹操が礎を築いた大国です。強大な軍隊を誇っていました。漢魏洛陽城、2300km離れた土地に使者を送っていました。魏は桁違いの大国、どうやって親魏倭王の称号を得たのでしょうか。

「三国志」

・戴燕さん(復旦大学) 魏呉蜀の対立関係を巧みに利用したと考えています。海陽市の研究が進む中、中国と倭国の密接な関係が明らかになっています。海上における覇権争いです。

呉を率いた孫権が鍵を握りました。雪壁の戦いで打ち破るなど勢力を拡大していました。

「三国志呉書」232年、孫権は魏の領海へ軍を派遣する計画が記されていました。補給基地が必要で、倭国に接近したと考えられています。朝鮮半島を足場に接触してたと考えられます。

呉の鏡が日本列島から出土しています。兵庫安倉高塚古墳出土の呉の鏡(対置式神獣鏡)です。魏との交渉の突破口だと考えられています。

●魏 洛陽城で 呉の背後を撃ち、挟み撃ちにできるのは我が国のみ。「理にかなっている」

呉と倭国が手を結べば不利な状況になり、逆に手を結べば牽制することも可能です。

魏の摂政「親魏倭王となす」そして金印を贈られました。

●倭国 「皇帝は私を選んだのだ、王と認めたのだ」皆がまとまりました。

卑弥呼は魏と呉と倭国のパワーバランスを利用し、魏から破格の支援を引き出すことに成功しました。優れた外交力を持っていたのです。

■歴史ミュージアム

残念ながらそうとは行かなかった、狗奴国との争いは止まりませんでした。魏志倭人伝にも書かれておらず謎に包まれています。しかし、日本列島は一つにまとまっていくことになる。

■狗奴国との争いの行方 前方後円墳に手がかりがありました。奈良文化財研究所

●AIで古墳の分布を調査  AI人工知能を用い古墳の分布を調べます。地形データを分析することで、前方後円墳を探し出すことが可能です。

高田祐一(奈良文化財研究所) 勢力の広がりがより詳細にわかってくるのではないかと思います。東北地方の大安場古墳 前方後方墳が多く作られていました。 AIはその場所に多数の前方後円墳の候補を示しました。実地調査に向かいます。

●福島県小野町 3次元スキャナを用いてさらに細かい地面の凹凸を調査します。

・橋本博文さん(新潟大学)・菊池芳朗さん(福島大学)

未知の前方後円墳である可能性が見えてきました。前方後方墳が築かれてきた東海や東北に前方後円墳が4世紀、増えていくことが分かりました。

・赤塚次郎さん「一つの画期になる」狗奴国との争い、前方後円墳の勢力が圧倒していくことになりました。見え案を分けたのは何か?

●箸墓古墳 土木考古学の青木敬(國學院大學)

巨大で堅牢な古墳を作る技術はそれまでの日本列島では見られないものでした。

中国からの人材技術的な指導とか供与がなければ作れなかったのではないか考えられます。

魏洛陽城では、盛土という技術が用いられていました。

■盛土技術を検証 鉄球を3mの高さから落とし、強度を調べます。 一種類の土では崩れますが、盛土はその姿をとどめました。悪天候を再現、水での耐久性を調べました。

水害が多発したと言われています。 盛土は水に強い層と水はけの良い層を重ねることで倒壊を免れていました。水害に強い土木技術を持っていれば、勢力を拡大するうえで有利に働いたでしょう。技術を供与してもらい、助けを求める関係があり、支配力を強化していったとみられます。

■卑弥呼の死

卑弥呼は3世紀半ばに亡くなります。死後この国を治めたのはヤマト王権

大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)歴代の王たちは前方後円墳に葬られました。卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳も前方後円墳です。

寺沢薫さん 「前方後円墳と卑弥呼はイコールなんです」ヤマト王権の最初の王ということになります。

■歴史ミュージアム「王たちをまとめ、外構にも力を入れ、国の礎を築くのに苦労したのだ」(卑弥呼)

■新たな発見 100万以上の道鏡があったことがわかりました。金属を加工し量産する技術がありました。技術革新をなしとげたヤマト王権それを牽引していったのが倭の五王と言われるリーダーでした・韓国で日本の前方後円墳を発見

-----おわり-----

■感想

今回NHKスペシャルを観ての感想。すごい、邪馬台国の全貌が明らかになった!といえるはずもなく、もやもや感だけが残る結果となりました。なんせ、2000字程度の魏志倭人伝では、全貌が分かるはずもなく、中国の研究も入れて何か分かったかのように装う番組でした。

青谷上寺地遺跡で矢じりが刺さった骨が見つかり渡来系だったというのはすごい発見ですが、それが倭国大乱にどう結びつくのか、イマイチわかりませんでした。

アジアからやって来た渡来人は日本に同化していったのというのが定説です。騎馬民族襲来説は否定されています。出雲と因幡の争いなのか、越勢力との争いなのか、想像するとおもしろいものがありますが、倭国大乱と結びつけた根拠が曖昧です。

狗奴国との争いにしても、どこにあったのかまったく解説されていませんので、イメージが膨らみません。場所に触れると邪馬台国の場所問題になってきて厄介なので、敢えて触れなかったんでしょうけど。なので、唐突に東北地方の前方後円墳とか言われても、理解不能です。

そして極めつけが、親魏倭王の話。軍事的な同盟関係を結ぶために親魏倭王を得たというのはどうなんでしょう。さすがに、無理があります。現代感覚で歴史を捉えるとこうなるということでしょうか。

このような軍事同盟を結ぶほどの国なら、魏志倭人伝も書き直さなきゃね、という感じです。

なんせ、魏志倭人伝であり三国志の0.5%の記述であり、倭国伝でもありませんから。

魏の陳寿が倭国のことを人伝に編集したのと同じように、NHKの編集者も邪馬台国のことをよくわからず編集したのでしょうね。

ということで、私も邪馬台国と卑弥呼のことを動画にしていますのでぜひご覧ください。


https://note.com/hayahi_taro/n/n297c3b10e4a6 【【感想】NHKスペシャル「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」】より

2024年3月24日(日)21時 「古代史ミステリー 第2集 ヤマト王権 空白の世紀」を視聴しました

<始まる前に>今日は倭の五王、空白の4世紀ですね。どんな新説が登場するのか、楽しみです。

<NHKのあらすじ>

古代史の謎を解くカギ「空白の4世紀」に何が!?

“国宝級の発見”東アジア最大の「蛇行剣」や前例なき「盾形銅鏡」が明かす驚きの技術革新。

史上初の統一国家「ヤマト王権」の力の秘密は?韓国で見つかった“謎の前方後円墳”。

風雲急を告げる東アジアの動乱。危機に挑む「倭の五王」の秘策は?宿敵・高句麗との激闘の行方は?最新科学や実験でダイナミックな戦略を徹底検証。私たちの国のルーツに迫る壮大なミステリーの幕が開く

■プロローグ

ヤマト王権、倭の五王の物語です。

■歴史ミュージアム

来館者(原菜乃華)と司書(シシド・カフカ)それに館長の前川泰之。ヤマト王権、日本の歴史始まって以来のすごい王権だったのです。前方後円墳は、ヤマト王権のシンボルです。

近畿地方から各地に拡大、連合政権が史上始めて統一国家を築きます。『宋書』倭国伝に登場するのが、讃・珍・済・興・武、いわゆる倭の五王です。実像は謎に包まれています。

倭の五王が活躍したのが5世紀、卑弥呼は3世紀、間の4世紀は空白の4世紀と呼ばれています。

■仁徳天皇陵(大仙陵古墳)

全長486mはエジプトピラミッドや始皇帝陵をしのぎます。なぜこれだけ巨大な力を持つようになったのか。

■空白の4世紀

●富雄丸山古墳(奈良) 発掘調査が行われ、大発見がありました。盾形銅鏡は蛇竜が掘られた世界にるいのない鏡です。日本列島で作られたと想定されました。巨大な鉄剣、2m37cm蛇行剣と呼ばれています。

・柴原聡一郎さん(奈良市埋蔵文化財調査センター)

一説には、ヤマト王権の安泰をねがって埋められたという蛇行剣は、X線撮影で、一本の剣であることが分かりました。

・奥山誠義さん

古代中国の鉄剣は1m前後で、蛇行剣は2m37cmと2倍以上、東アジア最大の鉄剣でした。

・岡林幸作さん(橿原考古学研究所)

技術革新が古代日本で起きていたと考えています。非常に特殊な高度な技術を駆使して作られた鉄剣が生まれてきました。

●どのように改良したのか?

・村上恭通さん(愛媛大学) 開いた口が塞がらない、驚くばかりでした。

●五斗長垣内遺跡(兵庫)

実験で炉を再現します。穴を掘り、木炭を燃やし、ふいごで風を送り温度を上げます。鉄を柔らかく出来る1000度に達しました。4世紀の炉では高温の範囲は、15cm、3世紀の炉と比べると範囲が広いと言えます。「羽口」、風の通り道となり、もともとは大陸で生まれ、日本で大型化、加工できるようになります。独自の工夫の結果でした。

「作りたい鉄器を作れるようになり、リーダーの言葉を実現するというチャレンジをしたものと考えやすいです」5世紀、ついに倭の五王の時代が幕を開けます。

●倭の五王・讃 讃は応神天皇にあたるとも言われています。

誉田御廟山古墳 全長425m、連合政権の基盤を固めたのです。

『宋書』倭国伝 倭王讃のもと激動の世界と対峙していくことになります。

■歴史ミュージアム

「最大の鉄剣を作れるほど技術がすすんだということだね」「桑・鋤・釣り針・斧・ノミ、鉄こそヤマト王権の源なんだ」倭王讃が現代に登場。グローバルな動きが見えていきます

■韓国の前方後円墳

2022年11月、韓国で前方後円墳が発見され大きな注目を集めました。合計15基、なぜヤマト王権のシンボルが朝鮮半島に存在したのか?朝鮮半島で生み出され日本列島に伝わったという説が浮上しました。副葬品にありました。「ねじり環頭大刀」韓国新徳古墳出土倭国のものとよく似た甲冑や鉄の矢じりなども見つかっています。「様々な議論がなされてきました。日本で作られた副葬品によくにていて、和人の墓であると思わざるを得ません」

●なぜこの場所に葬られたのか?

ヤマト王権は東アジアの動乱に巻き込まれ、重大な危機に直面していました。

中国では群雄割拠の乱世に突入、高句麗が勢力を拡大、新羅や百済・伽耶諸国を圧迫していました。この危機に立ち向かったのが讃です。

●国宝・七支刀(奈良石上神宮) 「百済、倭王」の文字が記されています。百済の王が倭国の王に救援を求める際に贈ったものでした。

●高句麗

広開土王は勝利を重ねてきました。倭国が百済に加勢したしたとの知らせが。「広開土王碑」には倭国との熾烈な戦いが記されていました。

「倭軍が朝鮮半島の中西部まで侵入した。城内に満ちあふれた倭軍を叩くため高句麗軍が攻撃に向かうと敵は退いた」ヤマト王権が高句麗と戦った真の理由はなにか?

重要資源が鍵を握っていました。大成洞古墳博物館(韓国金海)大成洞古墳から発掘された鉄挺です。鉄は貨幣のように使用されていました。

日本は輸入に頼り、鉄の採取が脅かされ、ヤマト王権は権力の基盤を維持できない恐れがあったのです。誰が輸入を独占するのかによって国の行方が決まっていたのです。

倭王讃は、東アジアの動乱に身を投じて行くことになったのです

■歴史ミュージアム

「ヤマト王権、想像以上にグローバル」高句麗で英雄と言われたのが広開土王、領土を飛躍的に広げます。ヤマト王権と高句麗との戦いどうなっちゃうの?

■倭国と高句麗の激戦

高句麗側の史料では、倭軍は鉄の産地、加羅諸国を拠点に進出したといいます。現れたのは騎馬軍団、最先端の軍事兵器でした。魏志倭人伝には、倭国には馬なし、見慣れぬ存在だったのです。

●高句麗の拠点・ソウルの夢村土城 馬の骨や歯が多く見つかっています。

躍進の原動力だった馬が国の宝として扱われていました。馬がいかに強力な平気だったのかを検証します。

●機動力

最高時速39kmを記録、スタミナにも優れていました。2日間で200km以上移動できたという記録もあります。敵の先手を取ることができるのです。

●攻撃力

徳興里古墳 高句麗軍の得意とする戦法、馬から矢を射つ戦術です。

・諫早直人さん(京都府立大学)

戦車や飛行機を持っているのと同じ軍事的な力の差に直結するものでした。

●起死回生の策

倭国は手痛い敗北を喫しました。

倭王讃は起死回生の秘策を生み出します。

卑弥呼以来150年ぶりとなる中国宋の皇帝への使者の派遣です。

●宋王朝 宮殿

宋の高官にヤマト王権倭王讃の使者が謁見します。

「時期尚早じゃ」(宋の高官)

大国宋を味方に据えようとした讃、グローバル戦略が見て取れます。

・森交章さん(東洋大学)

「死活問題として外交というものが重要な時期だった。宋にアピールするという戦略的意図があったと思います」

この頃、中国では北魏と宋が覇権を争っていました。

倭国が高句麗を撃破すればその脅威は低下すると考えました。

●宋の高官

「将軍号を授けよう」(高官)

『宋書』倭国伝

安東将軍の称号を得て、加耶、百済、新羅かやの軍事権も与えられました。

はたしてヤマト王権は危機を乗り越えられるのでしょうか?

■歴史ミュージアム

驚くべきグローバル戦略があったのです。

歴史書によると、中国系渡来人のブレーン司馬曹達を宋の皇帝に派遣し外交交渉を行うという戦略でした。

国際情報網があり、情勢の変化に目を光らせていたのだ。

さらなる秘策があったのです。

■倭王・武

高句麗に大敗を喫して70年後、倭の五王最後の一人、倭王・武でした。

雄略天皇陵

別名・ワカタケル大王

国宝・金錯銘鉄剣(稲荷山古墳)と銀象嵌銘大刀(江田船山古墳)その名を刻んだが見つかっています。

強力な支配体制を築いたリーダーでした。

●打倒高句麗軍

長寿王(20代)が広開土王の跡を継いでいました。

再び高句麗に戦いを挑んだ倭国、倭王・武にどのような秘策があったのか?

●鉄製の甲冑

思わぬ事実が浮かび上がってきました。

益生田古墳群、西都原古墳、小木原古墳、3つの古墳のパーツが一致したのです。

・吉村和昭さん(奈良県立橿原考古学研究所)

「部品単位で同じ調子で作っていける可能性はあると考えます」

朝鮮半島の鉄製の甲冑は量産しにくいという欠点がありました。

倭国では設計図を作り、量産体制をきずいていたと考えられるのです。

さらに、驚くべき秘策がありました。

それはかつて倭国を窮地に追い込んだ、馬です。

5世紀、近畿地方の遺跡から馬の骨が見つかっているのです。

百済から手に入れ騎馬軍団の養成をしていました。

どのような戦略があったのか?

●馬の分析

炭素同位体を分析し、馬の餌を突き止めます。

雑穀を与えていたことが分かりました。

さらに研究者はストロンチウムから生育地の特定、それは東日本でした。

そこから大和に大移動していたのです。

・丸山真史さん(東海大学)

その地の利を活かし、馬を量産していきました。

騎馬軍団を擁する倭王の軍勢、日本書紀には敵を大いに破ったと記されています。

朝鮮半島で手に入れた鉄資源、技術などで国内を統一していきました。

金井東裏遺跡(群馬)

甲を着て亡くなった武人、馬の骨が見つかりました。

保渡田八幡塚古墳(群馬)

角塚古墳(岩手)

造山古墳(岡山)

西都原古墳(宮崎)

前方後円墳は東北から九州まで広がっていきました。

馬は移動手段としても用いられ、重要なインフラとなっていきます。

・丸山さん

「馬を使うことで、移動できる、社会をまとめていくのに重要でした」

■歴史ミュージアム

卑弥呼のグローバル戦略、見事な外交手腕、そして倭の五王の国家戦略、国の礎を作ったのだ。

■富雄丸山古墳(奈良)

今年2月、木製の棺の発掘調査が行われ、副葬品が見つかりました。

青銅鏡、ヤマト王権の権威の証として崇められていました。

髪飾りとして使った「竪櫛」

葬られたのはどのような人物だったのか?古代史の謎が浮かび上がってきました。

●仏教伝来

6世紀半ば欽明天皇に新たな仏教が伝来、百済の王から伝えられたものでした。

人の心を変えねば、仏にかけてみたい」(欽明天皇)

ブッタの教え、漢字をはじめ、新たな知識が集まりました。

木造建築技術の寺院が続々と誕生します。

それとともに、ヤマト王権のシンボル前方後円墳が姿を消していきました。

激動の世界と対峙しながら壮大な戦略で国の礎を切り拓きました。

-----おわり-----

■感想

●韓国の前方後円墳について

『魏志倭人伝』に、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接している。

とある通り、3世紀、朝鮮半島南側には日本の領地がありました。

狗邪韓国、その後の任那日本府です。

前方後円墳であると判明していても、その後の政治的、民族感情のためか三つの円墳にされた古墳、それが慶尚南道固城郡固城の中心部にある松鶴洞古墳です。(大平裕著『知っていますか?任那日本府』)

つまり、あちらの国では前方後円墳では「まずい事情」があったということであり、前方後円墳は日本の古墳だと認識していたということです。

2万年前のヴュルム氷期においてまだ朝鮮半島は無く、その後温暖化によって朝鮮半島が形成されていきますが、日本と朝鮮半島は陸続きではありませんでした。

その後、朝鮮半島には長く人が居ない時代が続き、ようやく人が住みだしたのは、約5千年前からでした。

南からは日本の縄文人が、北からも今とは違う民族が移住してきたのです。

1929年に発掘された釜山市影島区にある「東三洞貝塚」では、日本の縄文土器や九州の黒曜石が多数出土しています。

任那や伽耶諸国を日本人が支配していたことは間違いないでしょう。

そして、百済も通訳がつかずに会話できたと私は見ています。

●倭王の比定

高校生向けに作られた番組らしく、倭の五王がだれなのか、応神天皇、雄略天皇以外の具体的な説明はありませんでした。

すこし期待していただけに残念です。

●倭の領域

第三回の宋への遣使で、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六カ国が日本領だと主張しますが、倭の一カ国だけが認められます。

この時の倭王が「珍」で、珍は讃の弟です。

高句麗と百済はこの中にありません。

高句麗については、日本領ではないことが明らかです。

百済については、建国時期が分かりませんので(通説では4世紀前半)、日本領ではないのか、建国していなかったのかは不明です。

『日本書紀』などを見ると、4世紀後半には日本に朝貢していた記述があることから、5世紀前半には一旦消滅していたのかもしれません。

●騎馬軍団との戦い

倭国が騎馬軍団に太刀打ちできなかったのは事実でしょう。

初めてみた騎馬軍団に恐れをなしたことでしょう。

その後、船での侵攻に変更しています。

6世紀になって漢字が輸入されたような描き方ですが、5世紀には外交文書を書けた、つまり漢字を書け、理解できたことがわかります。

第1回のまとめはこちら、又は下記のバナーからどうぞ。