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空海の生涯

2024.05.24 06:46

https://rekisisuki.exblog.jp/15990190/ 【空海と冶金】より                   

空海の生涯

空海は774年、讃岐に生まれ、密教を大成した平安初期の僧であり、日本中の人が「お大師様」として信仰する超人的な活躍をした「弘法大師」のことである。                     

出自は蝦夷なのか

讃岐国多度郡屏風ケ浦に、佐伯直田公(さえきのあたい たぎみ)の三男として生まれた。

父は豪族でかつては国造であった名門である。

出自は多説あり、大伴氏から派生した佐伯氏、他にヤマトタケルの東征に随行した功績で

蝦夷を統括する讃岐の佐伯氏となったという説である。

当初、蝦夷征伐で三輪山付近に俘囚(ふしゅう)としておかれた蝦夷が、行い正しからずと地方に分散され別所となる。統括した役人は同じ蝦夷であったといわれる。

空海の先祖が蝦夷であったといわれる由縁である。母は阿(あ)刀(と)氏で秦氏系である。

神童だった真魚(まお)

幼いころから勉学に優れ、15才(788)で新京長岡京にでて、叔父安刀大足に漢学を学ぶ。大足は伊予親王に学問を教える学者であった。

空海はすさまじい勢いで勉学に励み、後に空海自身が、真理の追究、根元的な疑問のため知識を身に付けたと語っている。

そのころ奈良仏教は腐敗堕落した仏教といわれ一般庶民からかけはなれ、農民は疲弊していた。自身の歩む道として、庶民の上に立つ官吏や寺僧に魅力を感じることができない状態であった。

金星を飲み込む

18歳(791年)ひとりの沙門(しゃもん・私度僧)勤操(ごんそう)に出会い、虚空求聞持法(こくうぐもんじほう)の行法を授かる。

50、70、100日のいずれかのうちに100万回真言念誦を唱えると8万4千の経典の智慧が備わるというもので、記憶法のことである。

ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ が虚空求聞持法の真言である。沙門に惹かれた空海は、大学を辞め出奔する。

ここから24歳(794年)ころまで阿波、土佐、伊予など山岳修行に励む。

あるとき、四国室戸岬の崖上に座し、一心に求聞持法を修していた時、心は澄み渡り、万象を包むような気持ちになった。体は大自然と一体となり、彼方に明けの明星金星が勢いよく近づき、いきなり空海の口に飛び込む。空海は簡潔に「明星来影す」と記している。

こうした体験を記した「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。

「三教指帰」

戯曲風につづったもので、亀毛(きぼう)先生(儒教)虚亡穏士(こもういんじ)(道教)仮名乞児(けみょうこつじ)(仏教―空海自身)がそれぞれの説を主張し、最終的に仮名乞児の唱える仏教に全員が敬服する内容。

空海はこの真言密教の素晴らしさは仏教であると確信したが、日本に十分伝わっていないことを、嘆いた。

入唐の決意

修行を重ねるうち、密教根本経典のひとつ「大日経」に出会う。

*密教根本経典

① 大日経・・胎蔵法

金剛頂教と並んで密教の根本聖典。大日如来(毘廬遮那仏)が宮殿で金剛サッタや菩薩たちに悟りを説いたもの。

② 金剛頂経・・金剛法

大日経で示された悟りを実践的に把握し、悟りの心の観察や瞑想の方法を示す。

金剛界曼荼羅は仏の悟りの境地で、これを観想することにより智慧が自分のものになる。

③ 理趣経・・絶対的な現実肯定、

すべてを空に見て悟りを開き、現実にある欲望を清らかであるという。

根源的な欲望、性愛も清らかであるということから、空海死後、立川流という真言宗も成立する。最澄はこの経典を借用したいと申し出て空海に断られることになる。

空海は、経典の意味、修法、真理を知りたいと思った。しかし、日本にはそれを伝える人物がいないため入唐を決意する。遣唐使の最低条件として官僧にならなければならないので、

東大寺で得度する。時に804年空海は31歳になっていた。

困難な旅が続き、長安についた空海は梵語、儒教、道教、景教、イスラム教、ゾロアスター教、その他あらゆる宗教を学ぶ。

また。書道、文学、詩、絵画、音楽にいたる唐の最先端の文化も身につける。

きわめて優秀な日本人の噂は皇帝(順宗)にまで届き、交流するようになる。

「五筆和尚」の話が残っている。

異国人の空海に密教を伝授32歳(805年)青(しょう)龍寺(りゅうじ)の恵果阿闍(あじゃ)梨(り)に会い、10年はかかるといわれる密教の両部の灌頂(かんじょう)と、阿闍梨位の伝法(でんぽう)灌頂(かんじょう)を、わずか3か月という短期間で伝授してしまった。

なぜ異国人の空海に伝授されたか。

① 勉学、修行により灌頂する素質を空海が身につけていたこと

② 恵果の弟子に密教を継ぐべき弟子がいなかったこと

③ すでに中国では密教が下火になっていたこと

恵果はインドから中国に伝わった密教を空海に託し、日本での大成を願った。

帰国した空海の使命

密教をもって衆生を救う使命を決意した空海は、薬子の乱で乱れる都に行き、810年(37歳)高雄山寺で鎮護国家の大法「仁王(にんのう)経法(ぎょうほう)」を修した。

験あってか薬子一味は捕らえられ、時の帝、嵯峨天皇に認められ、45歳(818年)高野山下賜を願い出て勅許を得た。

名声は高まり修法、教団整備、寺の造営、膨大な著作と多忙を極めるなか、超人的な行動力で、密教浄土の具現にむかった。

満濃池の造成、請雨など行い、東寺を下賜された。

日本ではじめての庶民の学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を東寺の隣に創設した。

八葉の高野山の地形

高野山の地形は、1000メートルの山々に囲まれた深山の平地で、八葉蓮華(はちようれんげ)に囲まれているようであった。

八葉蓮華とは泥の中に咲く蓮を、迷い(泥)の世界にあっても染まらず悟り(種実)を開くこと。胎蔵曼荼羅の中央に中台八葉院が描かれ、その中央は大日如来である。

空海は高野山の土地そのものを曼荼羅と考えたので、高野山に修行の場としての寺院を作り始めた。

59歳(832年)高野山で万灯万華会(まんとうまんげえ)を修した。

その3年後62歳(835年)高野山で入定(にゅうじょう)する。

921年 醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう)を賜る。

入定―元々は瞑想することだったが、不死の命を得る意味になった。

空海の死についてはじめは「入滅」といわれ、10世紀に仁海が「入定」といい、それから空海は未だ奥の院に生きているといわれている。

弟子、実(じち)慧(え)の記録には荼毘にふされたとある。

仏陀の捨身信仰からこの伝説が生まれたと思われる。(五来重著空海の足跡)

空海と水銀    

空海と同時に遣唐使として出発した最澄は留学1年、費用は全額国家負担、金銀数百両といわれる。空海は無名の僧で留学期間20年、費用は全額自己負担であった。ところが空海は在唐2年で無理やり帰国してしまう。(無断で帰国したため許しがでるまでしばらく大宰府に滞在した)20年分の在唐費用を2年で使ったことになる。

恵果のもとで密教を学んだ際、密教道具、道具の作り方、写経してもらう人への謝礼、他にも土木、冶金技術、医薬品の作り方など様々な技術を学んできている。

その上短期間で準備するための人件費もあることから莫大な費用を払ったと思われる。

その財源が、金属にかかわる人々「山の民」であった。

①空海と水銀と高野山

高野山の地中には銅や水銀が埋まっている。高野山は中央構造線の上にあり、四国霊場、

空海開創寺院の多数が中央構造線上にある。

真言宗の霊場付近には水銀鉱床があることが多いのは構造線に鉱物が多いことを知っていたと思われる。高野山の開創以前は、狩場明神(かりばみょうじん)と丹生都比売命(にゅうつひめのみこと)が地主神であった。前者は狩猟、後者は水銀を意味する。

水銀は道教の煉丹術に珍重され丹(に・たん)、丹生(にゅう)地名は水銀産地である。

山野を巡っているうちに高野山をみつけ、八葉に囲まれた水銀が埋まる土地が欲しかったので、朝廷に賜るよう申し出た。空海自身、丹を薬として用いていたといわれる。

晩年頭に癰(よう)(悪性のできもの)ができて苦しんだといわれているが、これが水銀中毒ではなかったか。

②山の民(鉱山特殊技能集団)

鉱山技術を持つ人々は、もとは渡来人で海の民から山の民になった人々である。

海の彼方からやってくる来訪神を崇拝し龍神、恵比寿も海神である。

この古代の海洋宗教は山岳崇拝に変容していくのだが、海に囲まれた四国にはまだ修行の場として存在していた。四国八十八か所の巡礼の成立の背景には、この辺路(へじ)修行があり、海洋を遥拝修行する。

聖も「火じり」が語源で、火を熾す(おこす)人である。

火を熾して護摩壇で修することで、岬で行えば灯台の役目にもなった。

空海も幼いころからもともとあった修行者の行場で修行をしていた。

空海は厄年のとき四国を一巡したといわれ、空海死後「空海にまみえたい」との願いから八十八か所が成立した。

そのうち遍路という文字に変わっていったという。

山の民は鉱山特殊技術集団として大仏鋳造時に富も得たことと思われる。

四国、熊野と空海の修行中彼らと接触し交流があったといわれる。

山は異界であり、異質な人々であり、修験者、鉱山師、狩人、木地師など大和朝廷に

追われた「まつろわぬ民」の血筋もいたであろう。

すでに水銀の鉱毒がわかっていて回避できる技術や、煉丹術、鍍金技術など、唐で学び、山の民に情報提供する約束があったかもしれない。

空海の語学は入唐以前から堪能だったといわれ、もともと渡来人の血筋の山の民から語学も学んでいたのではないか。

お経の読みは呉音が多かったが「理趣経」は漢音(長安)である。

空海の死後も高野山を支えた人々は山の修験者(山の民も含む)達で、僧たちが支える東寺と長い期間いろいろな権利をめぐり揉めることとなる。

弘法大師伝説は入定した空海を行基の行いと重ねて、高野山が語ったもので、東寺資料では空海は亡くなって荼毘にふしたとある。

③水銀

自然水銀の辰砂(しんしゃ)は薬として用いられ鎮静、催眠の効用があり、毒性は低い。

辰砂HGS・・別名賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱、日本では丹(に)と呼ばれた。古墳の内壁や石棺の赤色顔料として用いられた。防腐作用がある。

水銀HG―汞(こう)、みずかね。各種の金属と混和し、アマルガムを作る。

古代の水銀中毒

辰砂から作られた薬を服用して不死を求める背景には、辰砂の赤色が血液につながる思想があったと思われる。辰砂を加熱すると硫化水銀が還元されて水銀が生じ、水銀が酸化すると

又硫化水銀になるという循環的過程に永久性を見出し、不死不老をと結びつけたと葛洪(3世紀・道教研究家)の著書にある。

秦の始皇帝や前漢の武帝は道教の煉丹術をとりいれ仙丹を作らせた。

皮膚がかさつき高熱をだし、精神異常になったという。唐の皇帝21人のうち6人は水銀中毒であったという。日本の天皇のうち淳和、仁明天皇(空海の時代の天皇)は「医心方」による金液丹を服用し効果があったとされる。

金液丹 ー水銀を仙薬にまぜ火にかけると、金ができると信じられていた。

丹薬ー 服用すれば7日で仙人となる。向精神作用があり、頭が冴えて軽くなる。

ダラニスケー陀羅尼助 古代、水銀がふくまれていたという。

五石散ー 五個の鉱物で作られ砒素を含んでいた。

     効用は覚せい剤に似ており、精神を快活、昂揚させる。

水銀、砒素を含む薬は空海がいた長安では流行していた。

丹生鉱山

三重県多気郡多気町にある鉱山。中央構造線上に位置し、水銀を産するが多くは鶏冠石、石黄が多い。この鶏冠石と石黄は混同されることが多いが、石黄は雄黄のことで、いずれも薬として重用され、ヒ素の化合物である。

ここの水銀は縄文時代から採掘されており、奈良大仏の鍍金(水銀50トン・金9トン)にも使われ、後の伊勢白粉が作られている。

大仏の鍍金での公害は有名な話だが、現在蛍光灯に使われる水銀は年間5トンで、いかに多くの水銀が使われたかわかる。

若草山に木が生えていないのも水銀によるという説がある。伊勢白粉はそのものに毒性は低いが製造過程での水銀中毒が起こっている。

水銀と塩を混ぜて蒸し焼きにすると白い粉になる。鎌倉時代に中国から製法が伝えられ、化粧品、腹痛薬、皮膚治療薬、梅毒薬、堕胎薬、シラミ駆除薬などに使用された。

梅毒薬ではモーツアルトが梅毒になりその薬で水銀中毒になり死亡した説がある。

空海が水銀を服用した場合の目的即身成仏の完成を目指し、防腐作用を体に行き渡らせるために服用した。

水銀は服用すると腎臓を冒し、毒が体にまわりだすと肝臓が冒される。空海には肝臓障害もあった。

日光二荒山

日光を開山した勝道上人が神橋でであったのが深沙大王(辰砂)大王で ふたら を にっこう と読み替えたのは空海とおわれる。日光には産鉄民の伝説がある。

空海と伏見稲荷

空海が東寺の五重塔を建立するのに伏見稲荷の山にある木を使った伝説がある。

今でも稲荷祭として東寺近くの御旅所、東寺、伏見稲荷と巡業する行事がある。

参考図書: 真言密教の本(学研)空海の足跡 山の宗教(五来重)空海(三田誠広)

空海の風景・街道をゆく「高野山の道」(司馬遼太郎)沙門空海(渡辺照宏)

真言密教と古代金属文化・空海と錬金術・空海のミステリー(佐藤任)

鬼の日本史上・下(沢史生)  

参考HP: ウイキペディア・エンサイクロメデイア空海・・坂東千年王国・伏見稲荷


https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20160113-001.html 【弘法大師少年の日 空海は大峯山に登っていた(1/2ページ)】より

奈良県立橿原考古学研究所長 菅谷文則氏

論2016年1月13日

すがや・ふみのり氏=1942年、奈良県生まれ。68年に奈良県教委文化財保存課技師に採用され、県立橿原考古学研究所研究職技師に。飛鳥浄御原宮跡や法隆寺、唐招提寺、大峯山寺など多くの発掘調査に携わる。95年に滋賀県立大教授、2008年に同名誉教授。2009年4月から現職。山の考古学会元会長、奈良県山岳遺跡研究会顧問。

未解明多い少年期

昨年は弘法大師空海が高野山を開かれてから1200年にあたる仏縁の年だったので、4月から5月にかけて大法要が行われた。

空海が高野山を開くことができたのは、弘仁7(816)年6月19日に嵯峨天皇に上表して高野の地を賜ったからだ。このことは、上表文の全文が「続遍照発揮性霊集補闕抄巻9」に残されていることからはっきりとしている。上表文の読み下し文は、次のとおりである。

「空海少年の日、好んで山水を渉覧して、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向つて去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり」

高野の地を賜ることを願う上表文は、嵯峨天皇の勅が下され、認められた。こうして、現在の高野山の地は真言の霊場となったことは、よく知られている。

上表文には、「空海少年の日……」と書かれている。少年の日がいつかについては議論があり、確実な年齢を決めることができない。それを知る手掛かりの一つは、律令制では男子は20歳から60歳までが正丁として税を支払い、兵となり、力役が課せられた。立派な大人である。数え年20歳以下は少年となる。

仏門に入る前の空海は、佐伯眞魚という名前であった。空海は延暦10年に律令制の官吏養成の大学に入っている。大学入学の年齢は、やはり令によって13歳から16歳と定められていた。空海の経歴は不明の点が多い。確実な史料では、上表文による少年の日から、遣唐使の留学生となる直前の東大寺における授戒まではよく分からず、議論が多い。この小文はこのことを議論するものではない。空海少年の日に、吉野から南へ1日、さらに西へ2日進んだことによって、高野の地に到着していたということについて、私の意見を述べたい。

従前から、弘仁7年の上表文の後半、つまり高野を賜ったことは、事実として認められていたが、前半についてはほとんど議論されることはなかった。

平城京から長岡京に遷都されたのが、延暦3(784)年であり、この前後に空海は大学に入学している。空海少年の日は、まさにこの頃であったといえる。ところが、上表文による高野への出発地点は吉野である。これまでの歴史資料では、吉野を起点としてから南へ1日の解釈ができなかった。吉野の地が、吉野川であれ、吉野離宮の宮滝であれ、その南は果てしなく続く山また山であった。この吉野山地を修行の場とする修験は、早くとも9世紀以降に始まったと考えられていたのである。

昭和58~59年に吉野山から二十数キロも南の大峯山(海抜1719メートル、古くは金峰山)の重要文化財大峯山寺本堂の半解体修理が実現された。その修理工事に合わせて、本堂内陣と外陣の地下発掘調査を実施した。その結果、大峯山頂に奈良時代の天平末から天平勝宝(749~757)頃には、確実に宗教施設が形成されていたことを確認できた。西暦900年頃には、現在の大峯山寺本堂の外陣の中央に方形に石を組んだ護摩壇が造作されていた。その後も、わたしたちは吉野山から熊野までの修験の奥駈けの考古学調査を進め、多くの新しい事実を確認した。

大峯山頂から、海抜1700~1800メートルの山稜を南へ、ほぼ9時間から10時間で弥山(1895メートル)に達する。そこでも8世紀、つまり奈良時代中頃の土器類が出土したことを確認した。吉野から弥山までの山稜には、奈良時代中期には、宗教活動が行われていたことを考古学の調査によって確かめることができたのだ。

類例ない出土品も

大峯山頂での奈良時代の出土品のうち、もっとも注目すべきは、奈良三彩(表面に緑、白、褐色の釉薬をほどこした陶器)の破片であり、ガラス製の経軸端(巻物式の仏典の軸木上下に嵌め込んだ装飾品)である。奈良三彩片は、奈良時代の首都である平城京域においても、大寺と高位の貴族の邸宅のみから出土している。一種のステータスを表す陶器であった。ガラス製経軸端は、出土品は大峯山頂出土を除いて一例もない。正倉院にのみ伝えられている。

この類例のきわめて少ない出土品は、奈良時代中期に吉野から大峯山頂までの急峻な宗教の道を開いたのは、木樵でも狩人でもないことを示している。もちろん、木樵や狩人の細径を利用したことは十分に考えられる。平安時代初期、つまり9世紀初頭の吉野は、現在の吉野山から、さらに高い奥千本のあたりであったことも、出土品から確認できた。

再び、空海の上表文に戻ることにする。伝承によると、空海は大安寺僧勤操について、虚空蔵求聞持法を教えられたという。それは大学に入る前の少年の日のことであったらしい。それよりも30~40年前には、すでに大峯山への宗教の道は形成されていたのである。空海はその道をたどったと推認することは、何ら問題がないように思う。

大峯山の開山は、役小角であるとされている。江戸時代の1799年には光格天皇から、神変大菩薩の号を勅諡され、今日でも大峯を中心とする修験の修法においては、名号をいくどもいくども念じる。ただし、全国的には、役行者または、行者の名の方がよく知られている。役小角は『日本書紀』の次に勅選された『続日本紀』文武3年5月24日に衆を惑わしたという罪名で捕らえられ、伊豆に流されたと明記されている。そして、翌年になくなり仙人となり、仙界に移ったという。

山の考古学研究会

どのようにして仙人となったかについては、『日本霊異紀』に書かれているのが早い。大和の葛城山で修行したのち、吉野の金峯山に至ったことなどが、詳しく記されている。『続日本紀』は、797年にできている。『日本霊異紀』は弘仁年間の著述とされ、その時間間隔は20年に満たない。これ以後は、役小角が金峯山の開山となり、宇多上皇、藤原道長・頼道・師道らの登山修行となる。院政期の大峯登拝つまり御岳詣は、都の一大イベントとなっていた。

従前の修験研究、ひいては日本仏教史研究では、藤原道長以前の大峯山登山は、伝承の域を出ないものとされていた。大峯山の考古学・美術史研究は、昭和12年に東京帝国博物館から刊行された『金峯山経塚遺物の研究』の石田茂作、矢島恭一両氏の研究で末法思想による埋経を中心に論じられたからである。考古学では昭和40年代以前は、奈良時代と平安時代の土器の識別ができなかった。考古学が未発達であった。今日ではそうではない。わたしたちは、『山の考古学研究会』を組織して、全国各地の霊山といわれる山々の考古学研究を進めている。多くの山が、奈良時代に早くも人々が登山していたことを確認した。大峯山脈の研究はその成果の一つであった。

ふたたび空海に戻ると、空海は讃岐から上京して、仏教と出合ったのち、まもなく大峯山、当時の金嶺(かねのみたけ)に登り、木樵か狩人などの先導のもとに、西に2日間を歩き、高野山に至ったと思う。空海の上表文の前半を、考古学による大峯開山史を用いて解釈すると、上表文の「少年の日」から高野山を賜るまでが理解できる。上表文は、同時代の人の目や耳に触れるものであり、虚偽を書くことは許されなかったと考えるべきで、少年の日の吉野から高野への記事も実事としてよい。空海研究の一点を考古学から解釈したい。