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泣き顔は認証されず夕焼雲

2024.10.12 08:44

https://www.youtube.com/watch?v=jCNyZPvo6yY

夕焼け雲 / 千昌夫 (歌詞入り)

作曲 : 横井  弘  作曲 : 一代のぼる

   【歌詞】

夕焼け雲に 誘われて  別れの橋を 超えてきた 帰らない 花が咲くまで 帰らない 帰らない

誓いのあとの せつなさが 杏子の幹に 残る町

二人の家の 白壁が ならんで浮かぶ 堀の水 忘れない どこへ行っても 忘れない 忘れない

小指でとかす 黒髪の かおりに甘く 揺れた町

あれから春が また秋が 流れていまは 遠い町 帰れない 帰りたいけど 帰れない 帰れない

夕焼け雲の その下で ひとりの酒に 偲ぶ町


https://marieantoinette.himegimi.jp/book-yamanoanata.htm 【山のあなた】より

     カール・ブッセ

     上田敏訳 『海潮音』より

山のあなたの空遠く「幸さいはひ」住むと人のいふ。噫ああ、われひとと尋とめゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸さいはひ」住むと人のいふ。

Über den Bergen

                Karl Busse

Über den Bergen weit zu wandern      Sagen die Leute, wohnt das Glück.      

Ach, und ich ging im Schwarme der andern,  kam mit verweinten Augen zurück.

Über den Bergen weti weti drüben,      Sagen die Leute, wohnt das Glück.      

カール・ブッセ(Carl Busse,1872-1918)はドイツ新ロマン派の詩人であり、作家でした。日本では、上田敏訳の「山のあなた」(明治36年「万年筆」初出、38年の翻訳詩集『海潮音』所収)の作者として有名です。

ずっと“幸せ”を捜し求め続けてきた。でも、“幸せ”は見つからなかった。それはとても悲しいことだったけれど、でも“幸せ”がないというわけではない。どこかに──、どこかに、きっとあるんだよ。

せつなくて、優しい詩です。“幸せ”を求め続けるのはだれでも同じです。

── われひとと尋めゆきて

私と同じように、“幸せ”を探しているたくさんの人がいた。でもやっぱり見つからなかった。

メーテルリンクの児童文学『青い鳥』で、幸せの青い鳥を求めて、幼い兄弟チルチルとミチルは旅をします。

けれど過去の国、未来の国、夜の国など、さまざまな場所を遠く旅して、青い鳥を見つけたのは自分の家でした。

この「山のあなた」の詩に続きがあるのなら、『青い鳥』のようであればいいなと思います。

幸せを求め続けて、とても大きな幸せを手に入れられれば、こんな素敵な人生はないのでしょうけれど。

でも“涙さしぐみ、かへりきぬ”人が、ほとんどの人でしょう。だからこそ、この詩が心をうち、愛され続けるのでしょう。

けれど、この詩はせつないだけでなく、とても優く感じます。

“山のあなた”という言葉が好きです。

小さな子どもが母親や祖母に「幸せってどこにあるの?」と聞いて、答えてくれたような気がします。

「幸せってどこにあるの?」「ずっと遠くの山の向こうよ」「友だちと行ったよ。でもなんにもなかった」「あんな高い山まで登れたの?すごいわね」「だって、“幸せ”があるって言ったから」「あの山のもっと向こうにあるのね。あなたがもっと大きくなったらきっと見つかるわ」この会話の中に、幸せはいくつあるでしょうか?

優しい母、友人、勇気、夢…。


https://www.tokyustay.co.jp/hotel/KZ/topics/2020/03/post_6.html 【ふるさとは遠きにありて思ふもの】より

タイトルの、この一節、きっと誰もが一度は目にしたり、或いは口ずさんでみたことがあるのではないでしょうか。

この一節を含む、「抒情小曲集」等、多くの著名な詩集や小説を生み出した室生犀星は、ここ金沢で生まれ、金沢の街を流れる犀川をこよなく愛した文学者です。

この一節だけを一読すると、故郷を遠く離れた地でその故郷を愛おしく懐かしむような内容に思われますが、実は東京へ向かう前に、郷里である金沢で詠まれた詩なのです。なぜなのでしょうか。

この詩は次のように続きます。ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの

よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

これは何があっても故郷には二度と戻らないという 決別宣言です。

金沢から東京へ向かう前に、金沢で詠まれたこの詩、どんな思いが込められているのでしょう。

室生犀星は、1889年加賀藩の下級武士と女中の間に私生児として生まれました。

生誕地には、現在室生犀星記念館が建てられています。

生後まもなく、近くにある雨林院というお寺に引き取られ、その後養子となりました。

実の両親とは会うこともなく、周りから私生児と揶揄され、孤独感を抱え育った犀星は、

小学校を中退し、金沢地方裁判所に給仕として働きますが、そこで俳人の手ほどきを受け、文学者を志し東京へ出ていくのです。

その後東京と金沢を行き来する中で、ある日金沢を離れる時に、この詩が生まれました。

雨林院のすぐ脇にある、犀川大橋(国の有形文化財です)

この橋を過ぎて、犀川沿いの「犀星のみち」と名付けられた道を進むと、しばらく経って室生犀星文学碑があります。

更に進むと桜橋から望む犀川の景観にたどり着きます。

犀星は1962年、東京・虎ノ門の病院にて生涯を終えました。

きっと時の走馬燈に映った景色は、こんな景色だったのではないかと思います。

人はふるさとを思う時、楽しかったことばかりではなく、辛かったことや悲しかったことも、一緒になって胸にこみ上げてきます。

それでも、ふるさとを切り捨てることが出来ないのはなぜでしょうか。

あなたのふるさとは何処ですか。


https://www.engakuji.or.jp/blog/34585/ 【遠きにありて思うもの】より

ふるさとは遠きにありて思うものとは、室生犀星の有名な言葉であります。

故郷を遠く離れて詠った言葉かと思うと、そうでもないらしいのです。

神奈川新聞の十二月十日「照明灯」の記事で知りました。

記事によると、

「有名な一節で知られる室生犀星の「小景異情」は遠方から故郷を思うのではなく、帰京前に郷里で詠まれた詩だという。

懐かしいはずの古里で疎外感にさいなまれ、二度と帰るまいと誓うー。そんな複雑な思い」が込められているのだそうです。

私なども故郷を離れて、もう四十年近くになりますが、そんな複雑な思いではなく、やはり単純に今も遠きにありて思うものであります。

先日毎日新聞の『余録』を読んでいると、

「マグロは縄文人も食べていたという。万葉集にはその古名「しび」の漁に材をとった歌がある」と書かれているのを見て驚きました。マグロの古名は「しび」だというのであります。

私の田舎では、まぐろのことを「しび」と呼んでいました。

マグロというのだと知ったのは、私など故郷を離れてからのことでした。

はじめは「しび」のことを、関東の人は「まぐろ」と呼ぶのだと思ったのでした。

しかし、「しび」と呼ぶ人は、ほとんどいないので、「しび」というのは田舎の方言くらいに思っていました。

それが、なんと万葉集にもでている古名であるとは驚いたのです。

私の故郷新宮市は今でも帰省するにはとても時間のかかるところであります。

しかし平安時代の頃から熊野詣でが盛んであって、皇室の方などもよくお参りになっているのです。

都から独自の文化が伝わっているという一面もある町なのであります。

「しび」がどのような経緯で使われるようになったのかは分かりませんが、不思議に思いました。

そしてそんな記事を読んで、故郷のことを思い出したのであります。

よく人から故郷に帰ることがあるのですかと問われることがありますが、ほとんどありません。

数年に一度くらいのことであります。

なんとなれば、私は修行道場のお世話をする役目を務めていますので、若い修行僧達を大勢あずかっています。

そのためには、なるだけ外出しない方がよいのであります。

出かけるにしてもできるだけ日帰りで帰るように心がけてきました。

しかし、新宮に帰るには、日帰りは無理なのであります。

ですから、講演などの公用があるときにしか帰っていないのであります。

それがこの年末に故郷新宮市で講演会を催してくださることになっています。

八年ほど前にも新宮市の主催の講演会に招かれてゆきました。

ちょうど紀伊半島豪雨から二年経った時でありました。

今から十年前の秋九月、集中豪雨で大きな被害を受けたのでありました。

大勢の人が亡くなりました。

町が泥どらけになってしまったのでした。

身内を亡くされた方もいらっしゃいます。

そんな被災した町の人たちに話をして欲しいと頼まれて新宮市の市民会館で講演したのでした。

その講演録は、私の著書である『祈りの延命十句観音経』(春秋社)に全文が載っています。

そのはじめのところに書いた文章を転載します。

「平成二十三年九月紀伊半島を襲った台風十二号によって、和歌山県は大きな被害を受けました。私の生まれ育った新宮市でも多くの方が亡くなりました。

平成二十四年の九月には、熊野川のほとりにできた慰霊碑でお経をあげたところ、市内の方々が百名を越えるほど集まってくださり、期せずして盛大な慰霊祭になりました。その折りにほんのわずかな時間法話をいたしました。

更に平成二十五年には新宮市仏教会、新宮市、新宮市教育委員会の主催で追悼講演会が開かれ、そこで話をいたしました。

その日も折からの台風の影響もあって、大雨でした。大雨洪水警報も出されて、講演会の開催も危ぶまれました。

地元の方も二年前を思い出すようだというほどの豪雨でした。

しかしながら、「念ずれば花ひらく」と申しましょうか、奇跡的にも講演会の小一時間前には警報が解除され、私が講演会場に着いたときには雨もあがり、控え室に入ると窓の外には、きれいな虹が見えました。

きれいな虹だなと市長さんと眺めていると、さらに西の空は見事な夕焼けに染まりました。

そんな中、新宮市民会館に千人を超える方々が集まってくださり、講演をいたしました。」

と書いています。

そして

「まず手を合わせて祈ります。第一に亡くなった大勢の御霊が安らかでありますように。

次に熊野の大自然が穏やかでありますように。

最後にこの熊野で暮らすみんなが幸せでありますようにと、心から祈ります。

今年で、故郷を離れてちょうど三十年が経ちます。」

というところから講演が始まっているのです。

ちょうど十年前に、この市民会館は建てかえの計画がなされていたのでした。

ところが、豪雨の復興の為に再建は後回しになりました。

そして十年で、ようやくその市民会館が、「丹鶴ホール」としてできあがったのでした。

私が卒業した丹鶴小学校のあった場所に、このホールはできあがりました。

丹鶴は、近くのお城の名でもあります。

丹鶴ホールのオープニングの行事のひとつとして私の講演会を催してくださるのであります。

なんとも有り難いことであります。

こんどの大ホールは800名収容できるそうです。

そこに800名の方を入れる予定だそうです。

800名も来てくれるのだろうかと思っていましたが、十一月の下旬にあらかじめ入場チケット配布したところ、なんと半日で800枚が無くなったのだそうです。

聞くところによると、雨の降る中を朝早くから並んでくれた人もいるそうなのであります。

そういう話を聞きますと、こちらも気合いが入るものです。

演題は、「ほほえみの種をまこう」としています。

豪雨から十年、いろんな悲しみ、苦しみを抱えながらも新しいホールもできて、これから未来へ向けて、少しでも明るい方へと進むように願いをこめて話をしてこようと思っています。

新型コロナウイルス感染症が今のところ下火なので開催できるのが幸いであります。