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蘇我鞍作(入鹿)

2024.05.25 06:55

https://kakuyomu.jp/works/1177354054894409413/episodes/1177354054897913286 【第15話 蘇我鞍作(入鹿)】より

 蘇我氏の4代目 蘇我鞍作くらつくりは、一般に"逆賊"として広く認識されている。

 彼は、自らの子を皇子と呼ばせ、父 蝦夷と自らの墓を"大陵おおみささぎ""小陵こみささぎ"と称するなど、傍若無人な振る舞いをしていたが、645年 天皇家の乗っ取りを謀ったとして、中大兄皇子,後の天智天皇らによって、親子ともども誅滅された(乙巳の変)。

 近年 発掘された小山田こやまだ古墳は、一説には、鞍作の父 蝦夷えみしの"大陵"かと推測されているが、それが事実だったとすれば、造ってからすぐに破壊された形跡から、その際の暴風エネルギーが いかに凄まじかったかが窺うかがえた。

 因みに、乙巳の変において、飛鳥板蓋宮で 鞍作が暗殺された後、蘇我氏の館に集まったのが、高向氏と東漢やまとのあや氏である。彼らは、一旦 蝦夷とともに戦う素振りを見せたが、将軍 巨勢徳多こせのとくたの説得によって 蘇我氏の館を退去。翌日、蝦夷は 館に火を放ち自害した。その際、『天皇記』『国記』その他の珍宝が焼けている。

 高向王と宝皇女の間の子である"漢皇子あやのみこ"が 天武天皇の正体であるとの説を私は支持しているが、この高向王を 私は蘇我氏の4代目 蘇我鞍作だと疑っている。

 なお、"高向王=蘇我鞍作"説は 既に存在するが、その中で、"漢皇子=天武天皇"は採られていなかった。また、"蘇我鞍作の子=天武天皇"も 一部で見受けられるが、その説では、高向王のことには触れられていなかった。

 用明天皇の孫 高向王が蘇我鞍作であった場合、鞍作の母,すなわち蘇我氏の3代目 蝦夷の妻は皇女だったのではないかと私は壁越推量している(酢香手姫皇女:用明天皇の娘)。蝦夷の父である蘇我氏の2代目 馬子は 第33代 推古女帝との不義が囁かれており、蝦夷の子である鞍作にも同様の噂が立てられていた。この時期、蘇我氏と皇室との間で 血の交配が男女を換えても行われていたのではないかと私は憶測している。

 蘇我馬子 — 蝦夷 — 鞍作(入鹿)

  ‖密通?     ‖密通?

 推古女帝     皇極天皇(宝皇女)

  ‖        ‖

 敏達天皇 — ⬜︎ —— 舒明天皇(田村皇子)

 ところで、蝦夷は 第33代 推古女帝の後継者問題が持ち上がった際、自らの一族とは血の繋がりの薄い田村皇子(舒明天皇:第34代)を皇位に推しているが、もしかすると、その一因として、田村皇子の妻 宝皇女と自らの息子 鞍作との関係があったのかもしれない。

 宝皇女と用明天皇の孫 高向王との間の子 漢皇子あやのみこを、究竟 私は 蘇我宗本家で"皇子"と呼ばれていた人物だと愚慮している。

 漢皇子は 天武天皇こと大海人皇子の正体だと目されているが、私が 漢皇子の父 高向王その人だと検討している蘇我鞍作の別称蔑称は入鹿いるかであり、2人の間には関係性があることが窺われた。大方、これは暗喩だったのであろう。イルカは 海の生物だった。

 このような例として、他に 蘇我氏の2代目 蘇我馬子と 聖徳太子こと厩戸皇子の関係があると私は心当てをしている。聖徳太子は 一部で怨霊おんりょうであると狐疑されているが、その所以は 彼が本当は即位したにも関わらず、それが無かったことにされたからだろう。然しかして、その理由は 太子が 実は天皇の皇子ではなく、馬子の子だったからではないかと私は恐察していた。当代天皇の黄櫨染御袍こうろぜんごほうを聖徳太子33歳像がお召しになる広隆寺の秘儀は、現在もなお行われている。

 正史『日本書紀』の内容は、時の権力者の都合によって、大きく改変されたことが予想されるが、多分 その代わりに隠喩が残されたのだろう。

 あと、私が 蘇我鞍作(入鹿)と大海人皇子の親子関係を疑う根拠として、ある意外な人物への不可解な位階の贈呈があるが、その件については 最後の方で述べる。


https://kakuyomu.jp/works/1177354054894409413/episodes/1177354054898055196 【第16話 天武と蘇我】より

 私は、壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)を 蘇我氏と関係する人物だと目算している。

 かの内乱において、紀氏や巨勢氏等の蘇我系豪族が大海人皇子側に加担。勝利を収めた大海人皇子は その後、蘇我氏の本拠地 飛鳥で即位していた。

 蘇我氏は "鳥"を一族の象徴としていた節があるが、天武天皇の亡くなる時の元号を"朱鳥"といい、天武天皇の時代が中心となった文化を"白鳳文化"といった。

 大海人皇子は、天智天皇(第38代)から「お前に位を譲ろうか?」と誘いをかけられた際、事前に「お言葉にお気をつけ下さい」との忠告を受けているが、かの忠告を行った者の名は 蘇我臣安麻呂。この時、大海人皇子は 頭を剃って吉野に隠れ、事なきを得た。

 爾後、天智天皇が亡くなり、壬申の乱へと繋がるが、かの争乱は 朝鮮半島の一国 新羅と中国王朝 唐のどちらと同盟を結ぶかの争いであったとも考察されている。

 このうち、前者新羅と天皇家は 欽明天皇(第29代)の時代から宿敵関係にあったが、乱後、天武天皇は 新羅と遣使を交換し、唐との遣り取りを断絶。このような政策が採用されたのは、彼が 従来の天皇家とは異質な血統の持ち主であり、全方位外交を行う一族の出身だったからかもしれない。

 ちなみに、私は 天武朝は"第二次蘇我王朝" だったのではないかと愚慮している。壬申の乱という大乱に勝利を収めることができたのも、先代があったからだったのではないだろうか? 天武天皇を、漢の高祖 劉邦に擬なぞらえる見解が一部で唱えられているが、それだけでなく、天武を漢王朝の再興者 光武帝(後漢の初代皇帝)に擬ぎする見解も、確かに存在していた。

 天武天皇は、神話の中で 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)を 天照大神あまてらすおおみかみに比定していたのではないかと私は当たりをつけているが、ともすれば、そこに 天武にとっての先代がいたのやもしれない。その時代、中国王朝 隋に使節が派遣されているが、そこ『隋書』には男王(アメタリシヒコ)の名が記録されており、また、『国記』『天皇記』といった歴史書が編纂されていた。