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空海の詩文を読む

2024.10.12 08:41

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-290.html 【空海の詩文を読む(その一)】より

想念で綴る大道-『遊山慕仙詩』(訳文 2018.5改訂)

高山は風が起こりやすく 深海の水量を測ることはむつかしく 宇宙空間の果ては分からない

これらの自然に関する考察は人に知があるからこそできる

カモとツルの足の長短にはそれなりの理由があり(『荘子』駢拇(べんぼ)篇に「カモの脛は短いといえどもこれを継ぐと憂い、ツルの脛は長いといえどもこれを断つと悲しむ。だから、自然の摂理による長短を気にかけることはない」とある)

蟻であろうが亀であろうが、大小の差によってその上に日が昇らないことはない

うわべだけの人物は似て非なるものを好んで本物を知らず 為政者は民衆の真実のすがたを映す鏡を欲しがりカラスの目は腐ったものだけを見 犬の鼻は汚らわしい臭いを嗅ぎ分けることに熱中し 人間は官能的な香水に惹かれるが それらすべては、糞ころがしが糞に執着するようなものである

他を思いやる心を無くすと人間は 方向を見失った犬や羊のように駆けまわり 弁舌は物真似をするオウムのようによどみないが その主張は賢明さや善良さからはほど遠く オオカミが鹿の類いを追いかけまわすように ライオンが草食動物に喰らいつくように(自分よりも弱いものを餌食にし)ささいなことで年中、激高し 他をそそのかしては傷つけ 必死に白を黒だと言いはり ほめたりけなしたりしてわざわざもめ事を作り出し 毒虫にどんなに刺されても

トラやヒョウのようにただ吠え、虚勢を張るだけ(真理を考えることなく)言葉で事実をいつわり、寄って集って嘘をいかにも真実であるかのようにしてしまうそうなると)誰が反省してその傲慢さを戒めるのだろうか ヨモギは荒地や土手の丘に群生し ラン科の草花は山地に茂る 太陽は矢のように運行し 四季が移るように人は逝く 柳の葉は春の雨に開き

菊の花は秋の霜にしぼむ 秋蝉が野外で鳴き コオロギはとばりのなかで哀しく鳴く

南の峰の(常緑樹の)松や柏であってもやがては切り倒されて薪となり

北東の墓地では(落葉高木の)ハコヤナギの葉がはらはらと散る 人は生まれるときも死ぬときも独り その一生は稲妻のように輝いてはすぐに消える ガンとツバメがこもごもやって来ては去り 桃の木は昔と変わらぬ紅色の花びらを地面に落とすが 花のように美しい人の容姿は年齢とともに失われ 白髪もめでたきことにはならない

古(いにしえ)の人は今では見えず 今の人もどうしてその寿命を長らえることができるだろうか 炎暑の日には岩の上で風に吹かれ 滝の冷たいしぶきに涼をとる 粗末な衣をまとい、ざれごとの歌を唄い 自然の庵(いおり)で酒を呑み、詩を吟じる のどが渇けば谷川の水を飲み 霞(かすみ)を食糧として腹を満たす 薬草の白朮(ビャクジュツ)で心臓と胃腸を調え 薬草の黄精(オウセイ)で栄養を補い体力をつける 山に照り映える錦の霞が住まいのとばり 雲は天幕となって空いっぱいに広がる(そのような山中での自由な生活を選択した人物に)銀河をも越える高地に登り、仙人となった王子晋(おうししん)や(反逆と暴力によって樹立した周を否定し)国の穀物を絶ち、弟の叔斉(しゅくせい)とともに首陽山(しゅようざん)に隠れ、山菜を食して清貧をつらぬいた伯夷(はくい)や万物生成のエネルギーを得て、無為自然に生きることを説いた老子(ろうし)や天子からその座を譲られたがそれを断って箕山(きざん)に隠れた許由(きょゆう)がいる(仙人の世界では)鳳凰(ホウオウ)という名の瑞鳥が高貴な梧桐(アオギリ)を選んで降り立ち、集うように、賢人が出現すれば、その下に賢臣が集まり伝説上の巨大な渡り鳥である鵬(ホウ)が北から南へと季節風とともに移動する崑崙(こんろん)山は西方の住まい蓬莱(ほうらい)の島は東方の端の住まい(であるという)

(許由が天子の座を譲り受けても、それはすでに治世が為されているところ現行の天子の代わりをするだけのことだから、その天下のつとめは名だけのものになると『荘子』逍遙遊(しょうようゆう)篇に記されているように)名目上の地位はその座の客に過ぎなく、絶対的な精神の自由の害になるだけだから今すぐに龍にまたがって大空を翔けよう飛ぶ龍はどこに向かうのか 広々として汚れのない彼方 汚れのない彼方とは無垢なる知のちからをもつものが住んでいるところ その場は知の原理という堅固な塀に囲まれていて その原理にしたがい生きる多種多様ないのちの家族は無数 その中央にいのちのもつ無垢なる知のちからの統合の象徴である大日如来が座る

いのちのもつ無垢なる知のちからとは何か

それはわたくしたち生きとし生けるものすべてに具わっているもの

その無垢なる知(生命圏全体の秩序に順応するための知/植物は太陽光を使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を合成し、その過程で生じる酸素を大気中に供給するが、動物はその植物が作り出した酸素と炭水化物を体内に摂取し、燃焼させてエネルギーを得、そのエネルギーを使ってタンパク質・核酸・多糖・脂質などを合成する。それら、生命維持のための基盤となるエネルギーと物質を自らの体内で作り出し、成長と生殖の循環を司る知/あらゆる生物が自らの衣食住の創造とその相互扶助によって生存の平等性を実現している知/対象を観察・分析し、環境への適応判断をする知/所作と他へのはたらきかけによって自らの意思を演じる知の五つ)が為す生の根本活動、身体(行動)・言葉(コミュニケーション)・精神(意思、又は神経反応)が(水と緑を蓄えた)地球上で繰り広げられるから 宇宙にかけがえのない"いのちの道場"が存在する

山(緑)と海(水)とで描かれる 天地はいのちのもつ無垢なる知を入れる箱

万象を認識という一点に含み 知覚と意識によってとらえるすべての意味がその中に記される

出処進退は自らの信念によるが、それに対する他人の意見は打たれて響く鐘やこだまのようなもの(けなしたりほめたりするのは人の勝手な反応)

議論の主張は成り立たず(『荘子』斉物(せいぶつ)論篇によれば、言い争う「アレかコレかの選択」「善し悪しの判断」は相対的なものであり、立場を入れ代えればコレはアレであり、アレはコレである。そうして、アレにもコレにも善し悪しが生じることになる。だから、議論そのものが無駄な行為である)

宇宙は人の頭の中の概念に過ぎないから歩き回るには狭く 大河や大海も一つの元素"水"の一滴から始まる(その海水の中で誕生した生命の)寿命は(太古から途切れることなく引き継がれて来たものだから、それらに)始まりも終わりもなく生きていることに限界はない

いのちのもつ無垢なる知の光は宇宙に満ち その知のちからによって、人が最初に発する「ア」の声のひびきが文字となって万物に意味が与えられ、真理が説かれることになった

その真理によって導かれた大道を仰ぎ敬い 大道と自己とが一体となるように願って身を引きしめよ 行く雲は生じては消え たなびき、空しく飛ぶ 愛にしばられることはつる草が伸び

繁茂して山谷に広がるようなもの それよりも禅堂に入り 清々として無垢なる知の中に遊べばよい(そうすれば)日と月は空と水を照らし 風や塵のような雑念に邪魔されることもなく

是も非も同じと知り 自他の区別はなくなる(こうして)瞑想によって会得する無垢なる知によって心の海が澄みわたれば万物への際限のない慈しみが広がりつづけるだろう――

カラスはみな黒いから見分けがつきにくく

同じ呼称でも、ところが変われば別のモノ・コトを指すこともあり

他人の心は、わたくしの心ではないから 人の考えていることは分からない

そこで、修行者の共通のビジョンとなるように 仏道における想念を綴り、一編の詩文にした

『性霊集』巻第一「山に遊びて仙を慕う詩」(序を省く)より

あとがき

 この詩文は文中に見るとおり、仏教の大道を自然の道理に託して表わし、修行者の想念を手助けするために書かれたものである。

 原文は漢詩であり、昔の詩人たちの「遊仙詩」に倣って韻を用い、詩は音律をもって創作されている。

「一読する方々には、どうか韻の技法のことはさて置き、含まれる内容を取り上げていただきたい」と空海が詩文の序に書いているように、現代語訳にあたって韻は無理だから内容のみに力点を置いた。

 したがって、詩の響きは原文に託すしかない。弘法さんにお許しを乞う次第である。


https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/post-291.html 【空海の詩文を読む(その二)】より

悟りの情景-『山中有何楽』(訳文)

山中に何の楽しみがあって こんなに長くとどまり、帰ることを忘れてしまったのか

一冊の経典『大日経』とつぎはぎの衣雨にぬれ、雲にしめり、風塵とともに飛ぶ

このまま、むなしく飢えむなしく死んで、何の得があるというのだ どんな師も、こんな修行をお認めにならないだろう

だが、君は見たり聞いたりしたことがないのか、中インドのマガタ国にある鷲の峰という名の山を釈迦が住まいとして、そこで多くの説法をされたことを 中国の五台山が文殊の庵(いおり)のあったことを(そのように山中の自然こそが真理の学び舎となるのだ)

わたくしは仏道を修行する者であり いのちのもつ無垢なる知のちからによって成る法界を住みかとして、人の恩を知る者でもある 天子がいて国が守られているから、安心して頭を剃って仏門に入れるおかげ

父母がその愛情によってこのわたくしを生み育ててくれたから、ブッダの尊い教えを学ぶことができるおかげ

それらのおかげがあるから、家と国と郷里から離れ

父母の子でも天子の臣下でもなく、独り貧しくとも安心して修行できるのだ

朝は谷川の水一杯で、いのちを支え 夕べには山霞を一飲みして、英気を養う

つりさがったかずらと細長い草を編んで着衣とし いばらの葉の上に杉皮を重ねた敷物がわたくしの座り寝るところ 天が慈愛をもって青空の幕を広げてくれる下がわたくしの住まい

その住まいに水の神である龍が恵みの雨によって白いとばりを垂れてくれる 野鳥が時おりやって来てさえずり歌い 山猿は軽やかに跳ねて、その見事な芸を披露する

春の花、秋の菊がわたくしに微笑みかけ 明け方の月と朝風がわたくしの汚れた心を洗い清めてくれる

今、この山中での修行によって浄化されたわたくしの身体・言葉・精神の三つのはたらきが、すべての生物が具えもつ無垢なる知(生命知・生活知・創造知・学習知・身体知)のちからによる、自然界ですべての生物が共に生きるための三つのはたらき、行動(身体)・コミュニケーション(言葉)・意思(精神)と同調している 一片の香を焚き、心静かにひとすじのけむりを見つめ(身体)、一口の経文(言葉)を唱えると悟りの境地(精神)が開く

一握りの季節の花といのちのもつ無垢なる知のちからを讃える一句

地に頭をつけて一礼し、天に向かって感謝する

この瞬間、仏法を守護するという八種の神々もつつしんで無垢なる知のちからに浄められ

すべての生物<ほ乳類・鳥と爬虫類・水棲類・昆虫類>が、それぞれのいのちに具わる、それぞれの無垢なる知のちからとそのはたらきによって共に生きているありのままのすがたを現わす

(『荘子』養生主篇「庖丁(ほうてい)、牛を解く」によると)無垢なる知のちからによって対象を観察し、牛一頭をさばけば、その大きさは気にならず、肉と皮、肉と骨の間のすきまが見えて、そのすきまを牛刀が自在に動くから刃こぼれはないというし

無垢なる知のちからの火によれば、そのわずかな火によってすべての煩悩は灰も残さずに焼き尽くされる

ここでは何ものも生じず消滅せず、悟りに要する果てしない時間も必要なく

認識作用・煩悩・死の恐怖・善行の挫折という修行を邪魔するもの、その他の無数の障害となるものも心配するに足らない

万物生成の根元となる宇宙に、いのちのもつ無垢なる知の光の輝きはあまねく広がり

その中で人知れず無為に生きることは、どんなにか楽しいことではないか

『性霊集』巻第一「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より