Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

春星へかよふ寝息となりにけり 清濁あわせ飲む

2024.10.12 08:30

Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事

おはようございます。『長所 欠点』

庭好きな私は、庭の敷地は、もちろん 樹木や石などに使われている素材にそれぞれ個性があることに気がつきます。それは地心、木心、石心と呼ばれるものです。

それぞれに長所も欠点もあります。なので、良い庭は長所を引き出し、欠点をカバーする庭だと言われています。

木や石も一番良い表情が、見る人に自然に伝わるように工夫したり、石の組み合わせで、欠点を補うものとのことです。

ならば、「欠点をとってしまえ」ということにはならないらしく、それぞれ尊重し合って組み合わせることがポイントなのだ。まるで、人のことのようですね。

素敵な一日をお過ごしください。


Facebook竹元 久了さん投稿記事🌷【あいまいな日本とは、?】

抜粋(長文)

🔵西欧では理解しがたい感覚

 他国の人が日本にきて、感覚的におどろくことには、日本の湿度の高さがあるようです。

 そして、次に 清濁あわせ飲むという気質。

 三つめには、西洋からはアニミズムともとらえられている自然への畏敬の念と多神信仰と陽を拝むという点です。それらが日本人の心の奥深くに浸透しているという、この三点こそ、西洋のキリスト教や 中東のイスラムには理解しがたいところではないでしょうか。 

🔵日本人にとってはあたりまえ多湿

 な~んだとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。そうなのです。

この三点は、日本人にとってはあたりまえのことであり、なにもいまさらという共通した感覚なのです。日本の湿度も外国で暮らしてこそ、その違いに気づけます。

水のしたたる緑濃い、有り難い環境も生まれた時からいる者にとってはあたりまえのことなのです。

🔵あるがままをうけいれる心清濁あわせ飲む心

 地域で子育てをしてきた思いやり、村意識、連帯意識もわずらわしいといえばそうかもしれません。しかし、その本質をしれば、障害者もあたりまえのこととして暖かく受け入れ、子供も神からの預かりものとして尊び慈しみ育ててきたという、あるがままをうけいれれる広い心、魂の本質を知る美徳を持っていたと思うのです。

着物から布団布へ、ゆかたからおむつや雑巾へと、おくどさんや火鉢の灰で道路の穴ぼこを埋めるなど、日本の豊かな緑の山々も日本人が、慈しんで守り育ててきたものなのです。

どんなものの生命も尊っとぶ環境保全、リサイクル型のライフスタイルを持っていたわけです。

 そして、陰陽一対、表裏一体 身土不二などの思想は清濁あわせ飲む気質となり、西欧の完全主義や黒白をつける主義、根こそぎ主義からみると、そのあいまいさは、とても理解しがたいものととられるに相違ありません。

🔵子も神からの預かりもの多神信仰

 日本人こそ自然と一体になって自然と自分とをしきらず、内も外も一緒、出入り自由で過ごしてきたと思います。

「史記」にもあるようにあらゆるものに神を見、音霊の響きに神を感じてきたのです。

聞こえ見える神だけでなく、大宇宙のおおもとの隠れ身の神々を述べているのは「史記」だけだとも言われています。

そして「一寸の虫にも五分の魂」四つ足は食べないとか、八百万の神とか、お地蔵様とか、道祖神とか、ご神木とか・・・これらが、ただの風習だけでなくその心や魂を、日本人は無理なく無意識下に感じれとれる心をまだまだ持ちあわせていると、私には,思われるのです。

🔵日本とは

 しかし、この三点こそ、他国にとっては感覚的に理解しがたい″日本のあいまいさ″をつくってきたところではないかと思われます。

しかし、この三点こそ、古来よりの(一)瑞穂の国、(二)浦安の国、といわれ(三)日の本、といわれてきた日本のおおもとを示すものであるようにわたしには思われるのです。     

🔵精神的次元

 これらの点は、実は精神的にかなり高い次元を表わしている事柄のように私は思っています。

ですから、西欧的な物質的対立的な世界の国々からみると理解しがたい日本、感覚的にもも理解できない、あいまいな日本として、とらえがたく映っているところではないかと私には思われます。

というのも、この精神的なとらえ方が、西洋とでは、表と裏のごとく違うので、西洋人には、とても理解しにくいところだと私には思われるのです。

しかも、日本人自らも、もはやその古来よりの日本的な心を忘れてしまっているので、今やその心は形骸化しつつあるようにわたしには感じられ、残念に思われるところです。

特に、その日本の心は、戦前に軍国教育や軍部により歪められてしまったので、へたに日本的なものというだけでアレルギーを持っている方も多いように思われます。

そして、ひたすら西欧化の道をひた走り、追いつけ追い越せをめざした戦後に生まれアメリカ的戦後教育、3S政策をうけてきた多くの日本人にとっては、本来の日本の精神的な心は既に無意識領域にまで追いやられてしまい、ごくごくわずか残っているにすぎないと思われるのです。

 それ故に、今や、その信念のなさや自信のなさとを会わせもって、その大切と思われる日本の精神の次元の高い事柄もただ ″あいまいさ″ として笑われてしまう状況になってしまっているように私には思われるのです。

 🔵日本人のアイデンティティー

 人間にとって、胎内での265日、一日が千年につく進化の過程でうける自然の気は、その人の気質を決定する程に重要なものです。

 そして、母親の血液という物理的なものの大切さも勿論ですが、母親の精神的なものも大いに胎内でうけて生まれてきます。

これが、昔からいわれている「胎教」の大切さです。

「三つ子の魂百まで」という、三才までの急激な成長の折りの養育のあり方も、その人の後の性格を決定しかねないほどの影響力を持ちます。

ですから、大きく人間としてのあり方も、その民族の遺伝子の記憶からくる血統的なものと、個々の魂のあり方からくる霊統的なもののふたつのからみあいともいえます。

 そこで、人間が大きく成長する為には、その基礎とも規範ともなる民族的な支えがまずは必要とされます。                                      

 日本人にとってそれは、太古の響き、大和言葉の響きを伝える”日本語”だと私は思うのです。

宇宙と同様、人間にとっても「はじめに言葉ありき」なのです。

そして言葉からうけるより根源的な響きこそ、その民族の性質を形作ってきたものではないでしょうか。

そして、その言葉の波動がよく響きあうあ、湿度の多い日本の気候も又、日本民族の拠り所となるものであり、それら全てをうけた太古からの魂ともいえる大和魂」ともいうものが、まずは日本人としてのアイデンティティーといえるものだと私には思われるのです。

🔵民族にとって言葉の大切さ

 どの民族にとってもまず、その言語の響きはその民族を何千年も培ってきた波動であり、民族の母なるもの、その人間にとっての根源的なものといえましょう。

そして、日本人にとってはまず古代縄文からの大和言葉のひびきであり、その言葉の響きあえる魂こそ、日本人のアイデンティティーといえるものであると思います。

そして、人は母胎を基礎とし、基盤として、自分を形づくり、根っこから十分に栄養を吸収し、消化して、大きく育ってこそ、改めてそこを土台にし、のりこえて、大きくジャンプできるのです。

そして、今度は世界に通じる、まさに人類共通の普遍的な宇宙意識というものに繋げていけるものといえましょう。

日本人のアイデンティティー

(一)瑞穂(みずほ)の国

🔵水のしたたる日本

 日本は湿度の多い国です。

5年半前に家族で1カ月半アメリカをキャンピングカーで横断したことがありました。

あちらのカラカラの空気と乾燥した大地は色気も水気もなくて、バリバリのしわしわおばさんになって帰ってきました。 そして7月の日本に着くと、これまた湿度70%で、プールにつかったままという感じの水気たっぷりの空気に溺れそうになりました。                          

 さほどに、日本は水気のしたたる国と思い知りました。

でも人間の体の水気も65~70%ですから、日本の空気は体内と同じく、みずみずしく生命の育まれる環境にあるのです。

放っておいても雑草がおいしげる有り難い国なのです。

水もしたたる美人というごとく、日本はもともと水のきれいな、水のしたたる国土なのです。

しかし、現代の日本人は生まれた時から、自然から遠のいて育っていきます。

かような温室育ちですから、先祖が感じていた自然への畏敬の念や、神を敬う気持ち、感謝の心を忘れるにつれて、この恵まれた日本の自然環境とそこに住む人間とがじつは不二のものであるという感覚を忘れてきているのではないでしょうか。

 自然環境と人間が切りはなされていくにつれて、環境への思いやりや後始末

ということも忘れてきました。

世界でも有数の恵まれた環境にぬくぬくとつかっていながら、その有り難さに気づこうとせず、畏敬の念も遠のき、傲慢になってきているのではないでしょうか。 

●🔵瑞穂の国″″水と火の国″日本

 湿度とは水気であり、水は″瑞(みず)″であり、日本は昔から″瑞穂の国″といわれていました。瑞は瑞祥(ずいしょう)の″瑞″で、めでたいしるしのこと。

 そして勿論″水″であり″雨″であり″天″でもあります。

水こそ生命をやしない育てるのになくてはならないものであり、″生命の火(炎・ほ)″を燃やすには水が必要とされるのです。

 そして″ほ″とは、炎の″ほ″です。又、傑出して秀れている、伸びゆくものという意味をもつ言霊(ことだま)です 。日本は水のあふれる国、生命を養い育てる水と生命の炎の燃える国なのです。  水と火は表裏であり、陰陽であり、めでたいしるしのあらわれいづる国であると、古来より言われてきたのです。

🔵日本を作った米こそ完全食物

 又、瑞穂の″穂″は、″禾″果本科の米に恵まれている国の意味なのです。

米こそ、その字からも分かるように、四方八方の気を全て持つ素晴らしいエネルギー源の食物です。

そし実そのままの、米文化こそ、魂に気づける近道であること。

昔から修行者は精進食をしました。禾本科(禾)を口にすることは″和″の精神を分かること。

ですから、日本人が米の有り難さを忘れ、米を食べなくなってきた頃から、どんどん日本の伝統のもつ良いところまで、忘れられてきてしまったように思われます。 

 (二)霊(ヒ)の元 日本

🔵霊の元″日本

 そして、瑞は″みいづ″つまり″霊出づ″ともいえるのです。

これは霊の出現を意味しています。つまり霊の生まれた誉(ホま)れある国。

古来よりの古神道でいえば″日本こそ地球で唯一霊の降りた傑出して秀れた国″という素晴らしい意味をもっている国名なのです。

霊の生まれた国、魂に最も近い国、″霊の元の国″それが日本だということなのです。  

″日本(ひのもと)″は、″霊(ヒ)の元″であり″霊的なおおもと″であるという誉れとプライドを日本は古来より持っていたようです。 

🔵霊の故郷は日本

 光は東方より来たり、と古今、西欧でいわれてきていました。

もともと光であり霊的なものは、東洋より発したということが、西欧でも昔から伝えられているところです。 又、日本の古神道などでも言われているようです。

しかし、本家本元である日本人は、昔も今もそれを忘れてしまったのだともいわれています。

マヤ文明の子孫があの空中都市の文化を忘れ去ったように・・・。

聖徳太子の「日生ずる処の天子・・・」の頃はまだ覚えおられたかもしれません。

🔵日本の神霊が世界に散らばった

 日本の古神道に言わせると、地球の霊的な大もとは霊の元から派遣された魂であり、その霊的な分家である世界各地の魂はまだ歴史も浅く、それらを覚えているのだそうです。

だから、日の出る東方をめざして、叙福もマルコ・ポーロも不老不死の妙薬を求め、輝くジパングを捜してやってきたのだそうです。

 これも、壮大なる古代ロマンの一つかもしれません。

ですから、ジンギス・ハンも2回も神風の吹く日本に畏怖を抱き、二度とやって来なかったのかもしれません。

 太古日本の神々が世界各地に散っていったという壮大なスケールの神話の伝承も伝え聞かれるところです。

🔵日本の霊的な許容量は広大であること

 昔から次々と他国の文化をとりいれながらも、それらをみごとに自分のものとして消化してきた日本の実力の根源は、そもそも日本のもつ心の広さではなかったでしょうか。

霊的な親ともいえる程の霊的許容量の大きさに根ざしているという背景があるからのようにも思わされる所です。

 これこそ、清濁あわせ飲めるという背景であり、他国の人が脅威にも感じ、戦後″さるまね″といわれながらも西洋の科学技術を消化吸収して、トランジスタをはじめより高度で精妙なテクノロジーへと高めていけた優秀な能力もここに根ざしているように感じられるところです。 

🔵素晴らしい日本語

 例えば、中国の漢字が仏教伝来とともに伝わった時も、太古の大和言葉の言霊の響きは、何千もの漢字にみごとふりわけられたのです。つまり、縄文の太古からの響きは、宇宙の響き、自然の響き、生命の響きともいえる根源的なものでありながら、且つ細分化された漢字全てを用いてあらわせたほどの、内容の深みと幅を持っていたといえると思います。ここにもすばらしい消化吸収と融合がみられます。 

🔵平仮名は大和言葉の響き

 平仮名の発明も元々50音の響きもっていた大和言葉があったからこそ、平仮名が上手に用いられるようになったのです。 この平仮名こそ、大和言葉の復元ともいえるものです。

そして日本語こそ、大和言葉の響きと漢字との二つ、陰と陽とのすばらしい融合ともいえる完成度の高い言語であると私には思われます。

太古の大和の響きの平仮名を混じえた日本語があったから、日本人の意識も知能も精神性も、世界の内でより優れて高い程度を維持し続けてこれたのではないかと、日本語の陰陽のバランスの良さに私はおそれいってます。

🔵太古の響きは神々の名という真言(マントラ)にある

 大和言葉は、太古縄文の響きをもつ言葉です。

そして、平仮名混じりの日本語は太古の響きを伝える原初的な言語といわれています。

「始めに言葉ありき」と聖書も述べているように、始めに響きが、波動が、うなりとなって風がおきて宇宙の創成は始まったのです。

大和言葉の響きは宇宙の大元の響きともいえるものです。

ですから八百万の神々の名前の響きは、太古宇宙にみちみちていた言霊の響きであり、さまざまな作用をもつ真言(マントラ)をあらわす力のあるものなのです。

🔵大和魂

 大和言葉の響きのもつ霊的な世界。それが、いわば「大和魂」ともいうものなのです。

しかし、聖徳太子が人間のエゴの防波堤を作らんがために仏教を取り入れ、形を作り、目にみえる段階をもうけたりしたことは、これまでにない人間の欲望を増し、外へと目を向わせ、権力や財力、名誉、地位, 知識、競争心などこの世の中のことごとに心を向けて、あまたの政治的な争いに血も流されるようになってきました。                          

 又、徳川三百年の儒教の悪影響も人間本来の自由を忘れさせ心を檻に閉じ込めてしまったかのようにみえます。 明治以後の富国強兵からはじまり戦前の軍部が誤って行き過ぎてしまった ″大和魂″の一億総懺悔の下で、戦後は、その大切な日本の、太古からの心の芯である日本の″魂″までも売り渡したかのように大和心は姿を消し、アメリカの消費文明が使い捨て文明に圧巻されるようになったのです。

🔵大戦後の科学教育

 そのうえ、霊的なものや心や魂や神などの内面的なものは、それらが分からない西洋科学によって、非科学的にものはあやしいとされて切って捨てられ、さわるべからずのレッテルをはられてしまいました。

 そして、一般人が自然な信仰心を持つことさえ、うさんくさく、宗教くさいものとして眉をひそめられてきたので、ますます日本人にとって自分の拠り所となる魂を見失われ、心の芯が虚ろになってきたと思われます。 そして、狭く表面的な科学の枠のなかで、心を忘れた急激な経済発展をしてきた日本は、自分自身のアイデンティティーの欠如にも気づかず、ひたはしりに走ってきました。心の空洞にむなしい風をふかせたまま、日本人としての心を喪失し魂まで追いやってしまったのです。

(三)浦安の国日本

🔵霊的なプライドの高い日本

 日本のことを昔、浦安の国といっていたことをご存じですか(神武記にあり)。

浦とは裏であり、心のことを表しているのです。                  

表が″面(おもて)″であり表面であり、裏こそ″内面″″目にみえない心″であり大切なものであること。そして、日本は古来より″浦安の国″、″心安らかな国″としての霊的な自負をもっていたわけです。

🔵裏の大切さ

 ″霊出づ″でも述べた様に、裏も内面のこと、霊的なことを言っています。

奥のこと、秘めたこと、隠されているもの、裏こそ大事としていたのです。

裏とは、前でなく後ろです。裏とはみえない心をいうのです。

うらさびしい、裏方、裏がき、裏切る、うらむ、うらやむ(心病む)、裏づけする、うらなう(裏なす・心をよむこと)、裏腹、うらもとなし(心許なし)、うらぶる、裏話、裏金・・・・・。

🔵黒白の世界は未熟

 うららか・・・浦島太郎の行った竜宮こそ、時や空間の支配をうけない心の故郷だったのかもしれません。浦島とは心の島、霊的な国。そして、そこにはもっと深い意味もよむことができます。日本人の感性には、いつもこの表裏一体であり、こちらとみれば、またあちらという、ものごと全てに表裏あり、陰陽ありをみてきました。黒か白かとはっきりできないものごとの微妙な両面を感じとれる感性を持っているのです。宇宙の摂理がまさにそれなのです。皆、同じ生命なのです。   

全てを包括するものが宇宙であり、又それは全にして一でもあります。ですから、どちらともいえないという思いがいつもその根底にあるわけです。

敵か味方かという争いも上の次元から見ると、ありありと裏も表もみてとれるのですから笑止千万なのです。西欧的な黒白で断ち切る世界、自分の判断の枠しか認めれない世界は、大変に危うい世界であり、対立や戦争を産むものであり、次元の低い世界であり未熟な思想だといえましょう。                             

 ☀これからは 女性が 文明のたてなおしを

🔵これまでの文明は男性意識、表層意識

 いわば、古事記でいいますと、見えない神が七柱ありまして、つぎに対をなす神が、五対で十神あります。その最後の一対がイザナギの神イザナミの神でありこの五対の神々は

二神で一対であります。陽陰一対でありますが、順序があります。

 先にきた男性文明で、ここまで追込まれてしまった現代文明は、次に来る女性の文明で建て直しをされねばならないと、わたしには、おもわれるのです。 

 🔵女性がジャンプし気づく時

 しかし、そこには、新たな女性的な価値観に目覚めなくてはなりませんし、そして新しい皮袋がいります。

何より女性が、自分自身の価値に目覚めねばならない時が今きているのです。

女性がこれまでの男性意識から抜け出して、より包括的な、日本的な心といえる

ものに女性的な意識により目覚めて、自信をもって生きていかねばならない時がきていると私には,思われるのです。

 新たな女性的価値観とは、生命の意識であり、共生の意識なのです。

皆が一人一人が違ってて、あたりまえだということを知識でも、感性でも分かりあうことです。

そして、違っていることを尊重しあい、違いを互いに学びあい、育ちあい、高めあって、喜びあう意識のあり方です。

これまでの男性的な意識、敵対意識や上下関係やそして物質的、世間的にとらわれる意識ではありません。いわゆる女性的な母性の心であり、精神的な意識、それも広い愛と感謝の心、慈しみ育む心だと、わたしは思うのです。 

 🔵自信のない時は感情に左右される

 女性は、男性のエゴが勝手気ままに踊るのにつごうのよい価値観を押し付けられてきました。 そして、男性の足元に卑下するごとき気持ちで、奴隷の悲しみの心で生きてきた人が多かったでしょう。

それは、自分の真実の価値に気づいていなかったのです。 

男性と対等である女性としての、自分自身の本当の価値というものにきづいていない焦燥感、自分の内的な芯である魂にであっていない空しさは、怒りや苛立ちを生み、自分自身を確立できていない思いは他人の幸せを妬みをすねたり、ひがんだりするなどします。

芯に気づいていない時は、表面的な感情にふりまわされがちになり、真底からの喜びになかなかであえないものです。     

🔵順序であって、対等である

 ですから、大和の国日本は古来より、男が前で女が後ろ、男が表で女は裏、男は表玄関で女が奥、男が外で女は内・・・(フェミニズムの人が聞いたら怒りそうな書き方ですが)。

これは、あくまで順次であって陽陰で一対、表裏一体ということをあらわしているのです。

  どちらが偉いとかではなく、全く平等なのです。男と女は互いに支えあい、助けあってこそ共に豊かに生きていけると私は,陰陽の考え方でそう思っています。

男性女性の性だけでなく、気質の陰陽もあることもわかっていただきたいと思います。 

たとえば、真にその人間性に目をむけるなら、その人の気質の向かうほうでの、陰陽なりの役割分担もされてくるともいえましょう。                         

 いわゆる男尊女卑的な考えは根本を取り違えているのではないでしょうか。

男だけが偉いかのようにとりちがえて、怒っていらっしゃる女性も多いようです。

しかしながら、ここに気づいていただければ、いらぬ対立意識はうまれないでしょう。又、自らをよしとする自信もついてくるともいえましょう。男性側に偏っている現代の意識と同レベルで反発していると、次は自分で自分の首をしめかねない状況に陥るかもしれないことに気付いていただきたいと思われます。 

 🔵奥の方こそ大事

 子供を産む性である柔らかで力の弱い女性は、ごつくて強い男性に守らせるのですよ。

二人の子供ですからね。乳をふくませている時、お腹の大きい時、外をかけまわれませんからね。ですから、食べ物を見つけて運んでくる人、お金を稼ぎ運んでくれて、外周りのことをしっかりしてくれて、いらぬ心配をしなくてよい配慮をしてくれる、よき働き手である男性が対として、つれあい(パートナー)として必要とされるわけです。

 むしろ奥の方が重要であり、大切なのです。奥は上(かみ)であり、神であり、髪の長いうちのカミさんこそ亭主にとっては怖い存在なわけなのです。

トリこそ真打ちです。右は切り、左は抱く手です。男は右に刀を持ち、女は左に赤子を抱きます。玉座の右が右大臣で左が左大臣、舞台は向かって左が下手、右が上手、玉座からみて左の方が重要なのです。

左大臣もおひげの方で右大臣は若いほうと、御簾の奥におわします・・・とお後にひかえている方がじつは重要人物で、大切な方なのです。

アマテラスオホミカミもイザナミの左目を洗ったときに生まれた神です。そして、日のアマテラスオホミカミも水のスサノオノカミもともに力をあわせて世界を支えておられと神道ではいってるように聞きました。 

🔵女性が自負と自信を持つ

 何故、こんなに男性が暴走してしまったのか。それは、女性が自分の真実の役割を知らずにいたからです。女性が自分のなんたるかをしらず、卑屈になり、自覚と自信を失っていたから、女性としてのブレーキ役が果たせなかったのです。大切な内なる心を受け持ち、生命を産み、預かり育むという大切な役割と意識を持っている大事な性であることを自らが忘れてしまっていたのです。男性という性の役割より以上に、人類を育て存続させるためになくてはならない重要な役割を受け持っているというプライドが萎えてしまっていたのです。

 心の支えとなることで、男性を仕えさせ、女性としての役割を果たすという自負と喜びを持って生きることすっかり忘れてしまったのです。男性と対等にその役割を受けもって、世の中に貢献し、実は後見として、男性を操って動かしていくのだという程の自負とプライドを育ててこなかったのです。エゴの強い男性のつごうのよいように教育されてしまい、女性の意識は目覚ぬまま泣き寝入りをしてしまっていたと私は,思うのです。            

「世の女性よ 今こそ 真実に 目覚める時です

   自信と自負をとり戻す時がきたのです」

🔵世界にはばたく日本

 日本人が世界に通じるものとなるには、何より真実の″大和魂″への回帰が必要だと私は思います。阪神大震災でも基礎が深く丈夫なたてものは壊れませんでした。また、見える所の新しく軽くてしなやかな建物もたおれませんでした。植物も根を十分にはれば、大きく育ちます。人間も同様です。日本人はまず日本人としての魂の基礎固めをした上で、その上に柔軟で軽やかな新しい心、とらわれらない自由で楽な心を構築するならば世界に通じるたくましい人間となれるでしょう。

そして、本来の大和魂は21世紀の新人類の魂のあり方を指針するものだと私は思います。

🔵古きを訪ねて新しきを知る

 日本人としてのアイデンティティーの確立を基盤として、現代ではその目覚めた新しい感覚を、新しい皮袋に注ぐことが必要となります。それは、決して敵対意識や根こそぎ意識、統一意識や上下意識ではありません。

それは表面的な形や固さでなく、見えない心と心が響き合う意識です。共振作用で相互にメジャーな方向へと響き会いながら、相乗作用でさらに高めあっていけるものです。

そして、宇宙や自然にひとつとして同じものがないように、それぞれの響きの違いを楽しみながら、互いを尊重しあいながら、違いを生かしあって助けあって、心から心へと広がっていけるものなのです。

心と心で響きあえる、感じあえる、その広がりが今、世界中で響きあおうとしているのです。

そして、その響きを一番難なく感じることのできる民族は、大和言葉の響きを言語とし、宇宙と自然と共感できる″大いなる和の精神″を自ずと身につけてきている私たち日本人といえるかもしれません。 


Facebook長堀 優さん投稿記事

先日お会いした迫恭一郎氏のご著書「『からだ』という神様」より。

 この本では、"中今に生きる"というテーマについて、三人三様の感性でとても大切なことが語られています。

 健康に生きるとはどういうことなのか、私なりに考えなおす良い機会になりました。

◎ 矢作直樹先生

 中今状態というのは、「今ここにいる」「今この瞬間に意識を置く」という表現になります。

 いっさいのとらわれも、あらゆる執着もない、中庸というもっとも安定した穏やかな心の状態。ストレスのない、リラックスした状態です。

 そのようになれば、自分の内側に気を巡らせることも、その場を浄化することも、いとも簡単にできます。

 仏教用語でいうと、「刹那」に捉えられるのですが、それよりも「涅槃」に近い意識状態といえると思います。

 中今の状態は何かに集中するということではなく、むしろリラックスしている状態です。

 力を抜いてボーッとする感じで思考をほとんど使わないのです。

 中今になる方法として、自分が無心になれるものを何か見つけて、それに取り組んでみること、

 大切なことは、自分の内側に目を向け、感覚を開いていくこと、

 外側に何かを探し求めなくても、ただ自分の中に存在しているものを思い出していけばいい、

 目覚めという意味では、その方が早いのではないかと思います。

・・・・・

 さらに、矢作先生は、本書のなかで、

 「霊性というのは、この世の次元と他の次元な両方を理解できる、繊細で豊かな感性のこと、

 縄文のはるか昔から日本人がもともと持っていたもの」

 とも指摘されています。

 先日、野村行徳美香さんからいただいた質問、「霊性と感性について」に対する一つの考え方が、このお言葉の中にじつに簡潔に示されているのではないでしょうか。ストンと腑に落ちてくる思いです。

◎ 保江邦夫先生

 「中今を生きること」とは、今という瞬間だけを生き切ることです。

 人は「今ここ」を離れると、たちまち心がさまよいはじめ、まだ見ぬ先のことに不安を感じてしまうものですが、今この瞬間に生きていれば不安は生じてきません。

 自分の中心軸にとどまり、「中庸」を意識することでグラウンディングができ、最もバランスの取れた中庸のエネルギー状態で生きることができるのです。

・・・・

 保江先生によれば、一連の研究により、すべての細胞を取り囲むのは単なる水ではなく、光と錬成している水であるといいます。

 そして、この水と錬成する光というのは、「エヴァネッセント・フォトン」というエネルギーの粒とされます。

 つまり、「エヴァネッセント・フォトン」は、生命力、生命エネルギーそのものともいえるのです。

 保江先生は、迫恭一郎氏が世界で唯一手掛ける完全反射のダイアモンドの光はこのフォトンと同質と指摘されます。

 迫氏は、人とダイアモンドの相性をチェックするために、ドイツ製の医療機器であるEAVを用いていますが、このEAVにより、人が中今、中庸のエネルギー(数値50)にあるかどうかを調べることができるそうです。

 そして、ダイアモンドの光により身体のエネルギーが中庸になれば、不調和だった心身のエネルギーが調和して安定し、本来の免疫力、治癒力、生命力が自然と発揮されると指摘します。

 言葉をかえれば、「エネルギー的にもっとも安定していた本来の自分自身に戻る」ということになり、矢作先生、保江先生が語る中庸の意識と重なってくるのです。

 完全反射のダイアモンドの光によるエネルギー療法は、近未来の波動療法において、ニュートロン、メタトロン、マナーズ音響療法などとともに、重要な選択肢の一つとなっていく可能性を感じさせます。

 未来医療への希望が広がる一冊でした。

 ・・・

 写真のキャプション欄に動画配信のお知らせを掲載させていただきます。

 内外の豊富な映像情報の分析に基づいた講演会です。

 日本のメディアがまったく伝えないなか、世界では、政治や経済の報道も、感染症の扱いも、大きな変化が起こりつつあるようです。イラクでは、ついに金本位制に基づく貨幣制度が開始されたようです。

 二元化の極限を迎えた世界から、未来に向かう一元化への道が示され始めた今、

 原爆を落とされても相手を恨むことなく、清濁合わせ飲む、表裏一体、という世界に類を見ない感性を持つ日本人の精神性が、とりわけ重要となっていくことは間違いありません。

 私たちは、なんという興奮すべき時代に生まれあわせたのでしょうか。この一瞬に意識を合わせ、粛々と未来へ向かっていきたい、あらためて思います。