オーディナリー 下
地獄の沙汰をも飲み込んで(現行未通過×)
寒さが和らぎ温い空気を纏い始めた時節特有の、うすぼんやりとした青空にぼっかりと浮
かぶ白雲。
ほんのいっとき前までは頭上にあった光景も、今や墨を半端に垂らした星の無いどんよりとした空にぎらついたネオンが下品に光る有様へと変わっていた。
なにも空間事転移してきたという意味ではない。
気の持ちようという意味ではそれほどに突拍子もない展開であったわけだが、かような超常現象が早々にあるわけではなく、思ってもみなかった状況変化が齎されたという事実があるだけだ。
日中に仰せつかっていた業務を終えて帰路を辿っていた伊武は、ぽつぽつと頭に浮かべた目論見通り季節の和菓子を買い、自宅ではなく馴染みの教会へと向かっていた。
ヤクザ者である伊武に馴染みの教会があるというのも可笑しな話だが、懺悔や奉仕活動に赴くわけではなく、会いたい人物がいるといえば大分に人間臭く、あり得る話にスケールダウンするだろう。
それすらもよくよく考えてみれば、教会側にとってあまり快いものではないはずだが、その教会の者たちは大らかなのか気が良いのか、はたまた会いたい人物その人が特別彼らに愛されているのか。咎められたことはなかった。
理由がどれであったとしても伊式に都合の良いことは変わりないが、願わくは後者が大きくあればよい。
そんなことを思い浮かべながらあともう5分も歩けば目当ての教会前、といったところで無情にもスマホが呼び出しの着信を告げ、心待ちにした邂逅はあえなくご破綻となったのだけれど。
「伊武さぁん、本当に遊んでいかないの?」
もうこんな時間かよとか、本当に自分が来る意味はあったのだろうかとか、一通り無情について脳内で嘆いていたところ、鼻にかかった甘ったるい声が背後から掛けられる。
振り返れば、一人の女が小首を傾げて伊武を見上げているところだった。
綺麗な栗色に染まったの髪は艶やかなパーマが掛かっていてふんわりと肩を覆い、目に痛いネオンの下にいてもはっきりと分かる程度に大きな瞳はふんだんにマスカラ補強された長いいまつげで囲まれている。
少々サイズオーバーの上着を羽織っていて、一目に体形は分からないものの、覗いた手首や足首は大変細く、小柄で愛らしい女といった雰囲気の女。
しかしネオンぎらつく薄汚れた路上であっても堂々とした立ち振る舞いから、彼女が水商売の女であるというのは顔見知りである伊式でなくとも容易に察せられることだろう。
呼び出しの着信は彼女から、正確には彼女の所属する店舗から組の兄貴分へ、そして伊武へと回されたものだった。
なんでも以前から執着心が強く、少々問題のある客が彼女に付き纏っており、店側としても毅然と対応していたのだがここにきて脅迫まがいのことまで言い出すようになったのだという。
難癖から彼女の尊厳を傷つけるような罵声、その癖彼女を心から愛しているという矛盾した一方的な告白、そして会ってくれなければ云々と。
最早こういった業界では珍しい話でもないが、男の脅し文句の一つが店長には引っかかった。
どうやら、あるヤクザ組織の名を出したようなのである。
なんでも自分はそこの幹部だとか、若いのに乱暴させてもいいだとか、興奮しすぎて呂律の怪しい怒声であったので詳細は掴めないものの、もしもその男が本当にヤクザの幹部であるなら見過ごすわけにはいかなかった。
なぜなら、男が口にしたヤクザ組織は店のケツ持ちである伊武たちが属する組織と反する、いわゆる敵対組織の名であったからだ。
本来戦争でも仕掛ける目的でなければ、敵対組織の息がかかった店で遊ぶ、増して問題を起こすようなことなど日常からするものではない。
繰り返すがヤクザたちとて毎日諍いや争いを起こしたいわけではないのだ。
見栄と矜持で虚勢を張って、避けるべき争いは避けて時期を見たい、それなのにこの横暴と考えるとどうしても女を手に入れたかった男の嘘、ブラフであるという見方も否めない。
だがそれで所詮と構えていて、本当に仕掛けられたら事が事だ。
たった一人の馬鹿音が引き起こしたマッチ棒程度の火種が、爆発的に引火して大きな戦争になる話は珍しくない。
そうなってからでは遅い、戦争は起こすなら”こっちに大義名分がなければ”いけないのだ。まさか店舗の女が乱暴されましたで戦争に応じる訳にはいかない。
よって、兄貴分から伊武へ女の…というか、今夜行くという男の予告を受けた店の護衛任務が授けられた。
結果から言うと正直あまりにも呆気ないもので、男は実際に裏社会の男ではあったが幹部とは程違いチンビラに毛が生えた程度の小物だったのだ。
確かに敵対組織に属していると言えばしているのだが、下部組織の更に下、平のヤクザどもに管理させている反グレ集団の一人で、件の組織の幹部に仕事のおこぼれを貰っているという手合いのようだった。
あれほど脅したのだから今日はきっと相手をしてもらえるだるうとでも思っていたのか、
勇み足で鼻と股間を膨らませて来店した男であったが、部屋に待ち受けていたのは愛しの
栗毛ではなく、夜叉の如き伊武である。
「真川組の伊武だ」と一言自己紹介してやっただけで彼はぶるぶると震え、唇の色が真っ白になるほど色を失った。
それからは可愛いものだ。己が本当は誰なののか、彼女に相手してほしくて見栄を張った、迷惑をかけて心から反省している、と。
そうしろとは一言も言っていないのに、頻りに額を床に擦り付けて許しを請うので、次はないと凄むだけで、実に、非常に、穏便に話は済んだのである。
その場では謝ってみせただけという可能性もなくはないが、あの怯えきって定まらない焦点と、今にも粗相しそうなほどの大袈裟な体の震えは演技ではなさそうであったし、第一問題を起こしたとて上部組織の助力が得られそうな立場ではない。
いざ事に発展したところで敵対組織は「そんな男知りません」と手のひらを返し、伊武の組織も「なら適当に始末しておきますね」で終わる。
本当にただ、終わってしまうだけの話になるだろう。
男が山中でバクテリアに還るか、海中で小魚の餌になるかはさておいて。
つまり、実動時間としては正味30分程度で済んでしまったのだ。
何時に来るとは言わなかったせいで女の出勤時間に合わせることとなり、結局数時間は待機室で暇を持て余すことになった。
代わる代わる待機室に戻ってくる下着姿の女たちを適当にあしらい、時折愚痴など聞いてやり、つまらないテレビのバラエティを観て…気が付けばもはや深夜である。
己が出張るほどの話だっただろうか、店の者がここは真川組の持ち物だと言ってくれれば終わった話なのではなどと、伊武が疲労を嘆いても仕方がない。
無論、大ごとにならなかったことは僥倖に違いないのだが。
「遊ばねえよ。いつも言ってんだろ。」
「え~、つまんなあい。まゆの即尺に評判いいよ?」
己のことをまゆと源氏名で呼んだ女が愛らしい容姿に似つかわしくない下品な単語を口走るのに、伊武はたっぷりと嫌悪を込めて眉間に皺を寄せた。
裏社会で生きる伊武に上品を説く謂れもないが、自身や男が口にするのはともかく、なぜか女性が品の無い言い様をするのに少々引っかかる心地があるのだ。
生まれからいって特殊で育ってきた環境が考察できない伊武は、恐く古風な男という“設定”がどこかにあるのだろう。確認のしようもないが。
何が可笑しいのか、まゆは不快そうな顔をする伊武を指さしてきゃっきゃと笑うと、あまり残念でもなさそうに伸びをしながら残念だなあとそのままのことを口にした。
「汚いおじさんのばっか咥えてて嫌んなっちゃった。偶には格好いいので口直しさせてよ」
「見たことねえだろうが、ふかすな。俺は嫁以外じゃ勃たねえ」
「まぁたそれ~。いいなぁお嫁ちゃん大事にされてて。私も彼氏ほしい」
いずれにしても本気ではないのだろう、こうして軽口を叩いている彼女の表情は、嫌な客の対処に追われていた割には明るい。
金銭で愛を売る彼女たちは、寂しさを抱えていることも多い。
彼女も自身の美貌を売り物にしながら、いつか出会う幸福の形を探している。
現在はそれに向けて奮闘中といったところか、伊武との軽口は日常の中の箸休めに過ぎない。
「ともかく、今日はありがとう。店長からもお礼とかなんか、行くと思うけど」
「ああ。まあ何もなくてよかったが…まだ暫くは気をつけるよ」
気易く、明るい彼女の肩を軽く叩くと嘆息を零し、お仕着せのような注意を促して手を離
す。
手のひらにすっぽりと包まれてしまう薄くて丸い肩だが、やはり震えてはいなかった。
埃っぽさと深夜になってもなお喧騒の絶えない派手な道を抜け、閉静な住宅街を越えてし
ばし。
ようやく何時間も前から焦がれていた思い人の居宅へ到着した時には、すでに深夜という時間も抜けてそろそろ一番鶏でも鳴き出しそうかという頃合いだった。
まだ日が昇るような季節ではないものの、人通りの全くない静けさと、相反した木々のぎわめきなど街中のそわついた雰囲気は、これから一日が始まるという意味を内包しているように見えた。
早朝の静寂を壊さぬよう、慎車に目当ての部屋の前まで歩を進めるが、もちろん誰にもすれ違うことはない。
あたりは相変わらずしんとしていて、近くに住まう者も、目当ての人物もまだ眠りの中にいるにようだった。
預けられた鍵をそっと鍵穴に差し込めば、かちゃりと難なく開錠した小気味のいい音が落ちる。
時間からしてこの程度でも随分と響いて聞こえたが、家主を起こしてしまうことはなかったらしい、覗き込んだ玄関も室内も、まだ暗くて安穏とした静寂に包まれていた。
そのままそっと室内に足を踏み入れて、勝手知ったる風に真っ直ぐ向かったのは寝室だ。
見てみれば、想像に難くなく愛しの君、恋人であり伊武の唯一の救い、宵闇その人がその名の通り艶めく夜空のような髪をしっとりと枕に散らし、深い眠りについていた。
思わずしげしげとその寝顔を眺めてしまうが、滑らかで柔らかそうな白い類も、締麗に生えそろった但し飾り気のないまつ毛も、とても穏やかな寝息を奏でるばかりで起きる様子はなかった。
それに何やらひどく安心してそっと微笑むと、ちらと時計を振り仰ぐ。
彼が起きる時間まではどれほどあるだろう、そもそも今朝は仕事があるのだったか。
自分の方は…どうにでもなるだろう。ただ彼のぬくもりを感じられたら。
いくつかの他愛もない思考を経て、しかし別段劇的な変化があるでもなく、伊武は己の着衣をネクタイ、ベスト、シャツと一つずつ剥いでいく。!
返り血などない、しかし一日着倒した外着なのだからどうしても埃っぽくはなっていて、それを持ち込むのを厭うただけのこと。
見咎める者がいる訳でもなく、さっさと一糸纏わぬ姿へと布を剥ぎきると、ベッドをあまり軋ませることなく彼の隣に潜り込んだ。
枕の隙間から腕を差し込むようにして抱き寄せると、体中いっぱいに彼の体温が広がって交じり合う感覚がして、胸の奥底が実際の温度以上に温かくなる。
自分よりも低い位置にある頭に頬を摺り寄せれば、柔らかな髪の感触と彼自身が持つ匂いに包まれて、抱きしめているのは己だというのにまるで彼に抱きすくめられてあやされているような気持になった。
暖かい、心地よい。嬉しい、愛おしい、幸福だ。
湧き上がる様々な感情のすべてが優しくて、伊武はあっという間に眠気に苛まれ、あとほんの1時間ほどで彼が飛び上がって驚くであろうことを頭の隅に思いつきながらも、緩やかに微睡の世界へと誘われていった。
~約1時間後の一幕健全編~!
「わっ、わああああ!!伊武さん!!どうしてここに居…いや、それより…服…!なん、なんで、は、はだ、裸で…あいた!!」
「ん…宵闇、起きたのか。何してんだ狭いベッドで後ずさったらそりゃ頭ぶつけるだろ」
「何ってそれはこっちの台詞です、よ、よしよししてないで説明してください!」
「説明って…会いたくて来た。服はベッドが汚れるから脱いだ」
「脱いだって…私、部屋着用意したって前に言いましたよね」
「言われたか。お前の顔見たら一秒でも早く抱きしめたくて」
「…っ、心臓に悪いから…着てください」
「硬いこと言うな。そういえば本当は土産があったんだけど…」
「お土産ってこの袋ですか?…桜餅?」
「ああ。でも予想外に帰るまで時間がかかってな、もう乾いちまったか。」
「そう…ですね、でも嬉しいです。この間季節のお菓子の話したの覚えててくれたんです
ね」
「当たり前だろ。お前との話は忘れないよ」
「…ありがとうございます。で、でも最近類が丸くなったってシスターにも言われたので…半分こにしましょうね。」
「?気にするほどのことか?」
「気にします!」
「そういえば和菓子が乾いちまった時は、バイシートに包んでオープンで焼くと餡子が入ったそういうパイみたいになって旨いって聞いた」
「なんで今それを言うんですか!!!!」
~約一時間後の一暮不健全編~
「わっ、わああああ!!伊武さん!!どうしてここに居しいや、それより…服・・!なん、なんで、は、はだ…裸で、あいた!!」
「ん…宵闇、起きたのか。何してんだ狭いベッドで必ずきったらそりや頭ぶつけるだろ」
「何ってそれはこっちの台詞です。よ、よしよししてないで説明してください!」
「嫌じゃないだろう?ドキドキしてるのが伝わってきてるぞ」
「そ、それは…好きな人にこうされたら…当り前じゃないですか。って…ん…なにするんですか!」
「可愛い顔するからだろ。宵闇、もっと俺のこと見て、触れさせてくれよ」
「っ、だめ、だめです…こんな、まだ…朝なのに…」
「男が朝に催すのは自然の摂理だろ、なあ?」
「あっ、そんな…だめです、捲らないで…」
「お前ももう期待してる。ほら、一緒に握って」
「あっ、あっ…こんなの、恥ずかしい」
「ん、ちゃんと出来ていい子だな。そのまま気持ちよいように擦っていいぞ。こっちは俺が…可愛がってやる」
「ひあ!指…はいっちゃ……」
2024.5.26 初稿