日本人の宗教観 ― 八百万的思考の源流へ
http://moon21.music.coocan.jp/ronbun.html 【◆対談シリーズ「日本人の宗教観 ― 八百万的思考の源流へ」】より
(全3回の内の1回目のみUP、『中外日報』2006年4月8日掲載)
〈対談者〉
玄侑宗久(作家・臨済宗僧侶)+鎌田東二
鎌田 玄侑さんの小説の世界では、霊的、心理的な現象と科学的な理論や説明の両方が重要な構成要素として出てきますね。サイエンスの部分を加味しながら仏教の持っている可能性を探り当てようとしているというところが、仏教をテーマにしている作家の中でも際だっていると思います。
玄侑 鎌田さんは神道の言葉に息を吹き込み直しているというのをすごく感じるんですけれども、神道の場合には基本的に言挙げをしないので、言葉自体が摩耗していなかったというところがありますね。だから鎌田さんが使われたときに、なるほどこういう意味だったのかと割合初めて認識する人が多いと思うんです。ところが仏教の言葉は、もう消費され尽くしたというか、そのまま使ってもそのネーミングの心が伝わらない。だから私はそれを言い直そうとしているんです。そのときに現代人の感性の中で捉え直すので、どうしても科学的な用語などが入ってきますね。
鎌田 それは仏教が持っている知の構造に新たな関係の補助線を添えることによって、本来仏教が持っていた構造の本質を新たな照明のもとに浮上させてこようとする営みですね。
玄侑さんのようなポジションというか役割は、現代においても本当に面白い位置にあると思うんです。生きた仏教の感覚世界や人間関係の中から柔らかい形で現代に対応するソフトを生み出していく。そして、仏教にはこういう面白いソフトがあるんだということを小説やエッセイや講演やさまざまなことを通して表現している。この点が、今までの仏教をテーマにした小説や作家とはやや異なりますね。お坊さんが文学を語ることはいろいろな形であったし、作家でかつ僧侶というのは、今東光や瀬戸内寂聴さんなど著名な方々が何人かいるわけですけれども。
玄侑 小説家が坊さんになったというのとはちょっとちがうかもしれませんね。
鎌田 玄侑さんの場合は、坊さんから小説家になったというところと、禅宗の坊さんでしかも科学と仏教を結びつけているというところも含めて、その立ち位置は非常にユニークですね。
玄侑 私と近い立ち位置で思い浮かぶのは武田泰淳さんですね。武田さんは浄土宗の寺の出身ですが。
鎌田 小説世界としては少し近いかもしれませんね。ただ、武田泰淳さんはお寺を離れて小説家を基本にしていた。日常的に檀家とのつきあいをしながら同時に小説家でもあるという人は本当に特異といえるんじゃないですか。
玄侑 以前、取材に来られた新聞記者の方が、「お寺をやめて専業に小説を書かれませんか」というようなことをおっしゃったんですけど、私はこの現場を離れる気はないんです。陰陽でいったら陰の部分というか、坊さんとしての現場が私の根っこだと思うんですね。それを空論にしたくないから私は小説を書くのだと思います。それから、鎌田さんは法螺貝一つでトランス状態になるのかもしれませんけど、私は小説を書いて、自分で作り上げた小説世界のラストシーンに近づいてきたときの、あれ以上の恍惚はないんですね。論理を超えた世界を論理を使いながら構築していくという、この快楽(けらく)というか。
鎌田 その辺が現代に受け容れられる感覚なのかなとも思います。遊戯性というか、神道的にいうと神遊び、遊びの部分ですね。それは芸術とか芸能とか神の世界と通じていて、快楽にもなり、喜びを分かち合うことにもなっていく、直会的な部分ですね。純粋エネルギーや神の力を皆で分かち合っていく方法論。そこで、小説世界と禅的メディテーションと遊戯的イマジネーションが融合するわけです。
玄侑 小説を書くときには、過去の人が瞑想とか修行によって得た結果を示すというような、いわゆる布教という考え方は私の中にはないんです。
鎌田 そうだとしたら、飽きられてしまうと思いますね。もしそれが説教という形だったら、一冊読めばつかめるし、三冊読めばもうだいたい全部わかってしまうでしょう。だけど遊戯の世界というのは、一つの良い音楽を繰り返し聞くようなものですから、反復して読みたい、聞きたいという欲求が生まれてきますね。
玄侑 鎌田さんの歌のCDも本当に飽きさせませんね。
鎌田 そう言ってくれるのは希有な人です。マレビトですよ、あなたは(笑い)。
◇◇◇
鎌田 玄侑さんの小説に『アブラクサスの祭』がありますが、あの中に浄念と玄宗という二人の和尚が出てきますね。あれはまさに玄侑さん自身が二人に分裂して自分の世界の中でぶつかり合いながら、若いころの玄侑さんと老賢者風禅僧がないまぜになって出てきたり、ルー・リードとかパティ・スミスとか僕も大好きな音楽家たちがたくさん出てきたり、いろんな要素が詰まっていて非常に面白かった。
あの中に出てくるものは、やはり小説家になるべき玄侑さん、つまり仏教から離れても小説というものを必要とする精神と、たまたま運命的に子どもの時からぶつかってきた仏教と再び出会い、結び直していこうとしている、この辺の緊張の中で生まれきた創造物だと思うんです。だから玄侑さんにはお坊さんになりきれない部分があるのではないかと思うんですよ。
玄侑 なりきれないというか、そういう妙な坊さんがいてもいいだろうというところですね。
鎌田 例えば円空はお坊さんですけど、仏像を彫り続けて行く中で本当に独創的な、言葉でいろいろな人が語るよりも、あるいは他の仏師がつくる仏像よりも仏の精神性・霊性を浮かび上がらせて、仏と神が一体になったような新しい仏像世界を作った。そういう意味では円空の中にもともとある情念というか感性が、仏であり神であるような造形的形態をとったわけですね。玄侑さんの仕事にも、それに近いものを感じるんです。
玄侑 仏教的にいうと業なんだろうと思いますけど。自分の中ではほどきたいんですよね。でもほどくためには一回結ばないと気が済まないというか、一回結ばないとほどけないというんですかね。
鎌田 中上健次の小説に「十八歳、海へ」とか「灰色のコカコーラ」とか、初期に書いたものがありますね。その後、『岬』で芥川賞をとるわけです。玄侑さんは『水の舳先』とか『中陰の花』から小説家として世に知られるようになったわけですね。けれども僕は『アブラクサスの祭』の方がむしろ精神的には初期の作品で、『中陰の花』とかの方がその後の作品に思えるわけです。
玄侑 実際には『アブラクサスの祭』を後に書いたんです。
鎌田 そうですか。僕はあの作品に、『岬』以前の中上健次の精神的彷徨の世界に近いものを感じて、非常に面白いと思ったんです。あれが後から出てくるというのも面白い。
玄侑 あの辺はかなり連続していて、噴き出るように四作くらい一気に書いているんです。その中に『アブラクサスの祭』もある。
鎌田 狂気というか、危ない部分を大量に含んでいるじゃないですか。登場人物もそうだし、作品世界そのものが。でも『中陰の花』とかはきれいに収っていて、読み手も安心して見ていられるし、カタルシスもある。ところが『アブラクサスの祭』には生な渾沌があって、しかも「南無アブラクサス」という言葉も出てくるから、まさに日本的仏教グノーシスがそこにあり、ロックがあり狂愚がありということになると、もしあれを最初に出していたら、玄侑さんに対して世間は今のような安定した受け止め方をしていなかったと思う。
玄侑 それは、どの作品でデビューするのが良いかという編集者の配慮ですね。
鎌田 ところで、『中陰の花』にも初期の作品にも拝み屋とか霊能的な要素が出てきますね。それは玄侑さんの日常の暮らしの中にシャーマニズム的世界が土壌としてあったということですか。
玄侑 ありますね。
鎌田 そういう世界や現象と坊さんとしての立場は、折り合いが付きがたくありませんか。
玄侑 要するに、場面は常に個別ですよね。教義とかコンセプトを優先しないというのが私の基本的態度です。
鎌田 それは極めて禅的ですね。
玄侑 たぶん禅だからそう言えると思うんです。そう言えない宗派もあると思うんですね。われわれのコンセプトからすればそんなこと起こるはずがないということを平気で言う人もいるわけですよ。でもそこに寄り添うところからしか始まらないわけですね。
鎌田 玄侑さんの作品には、民俗的、民間信仰的宗教世界が描かれているので興味を持ったんです。僕は宗教人類学者の佐々木宏幹先生と『憑霊の人間学』という本を十五年ほど前に出しているんですが、佐々木先生は禅宗や日本の仏教を教義で考えてはいけないと言うんです。生活の場面の中の仏教のありようを見なければいけないと。佐々木先生は気仙沼の出身で家は曹洞宗のお寺だった。そこで、あの辺りの拝み屋さんをよく見聞きしていた。生活の中での仏教の信仰形態と、いわゆる曹洞宗教団の宗教世界の間には乖離というかギャップがある。そこのところをつかんで、日本人の宗教世界をまるごと捉えていく観点が仏教側からも必要だということで、宗教人類学からシャーマニズムと仏教の関わりを研究されている。そういう世界を学者の側からアプローチしたのが佐々木先生で、小説家として表現の場で捉えたのは玄侑さんですね。曹洞宗と臨済宗のちがいはありますけど、禅宗から日本人の生活の中での仏教を、あるいは仏教が息づいている民俗世界をとらえた希有なお二人だと思っているんですよ。
玄侑 臨済宗にはむしろいると思うんですが、曹洞宗の中でそういうとらえ方をするのはかなり勇気がいることだと思うんですね。ただそれぞれの宗派が抱えている教義や概念も、もとはミクスチャーですよね。例えば禅宗で読む陀羅尼は真言宗の真似をしていますし、塔婆も最初に始めたのは真言宗ですからね。日蓮もかなり積極的に進めましたけれども。
鎌田 日蓮も密教の影響を受けていますね。僕は神道の中でも「神神習合」があり、さらに神仏習合、神仏儒習合があり、キリスト教が入ってくると神仏基習合になったのが実態だと思うんです。仏教の中では仏仏習合というのもあった。そしてさらに民俗世界まで降りていくと、アニミズムを土壌にしつつ神仏習合的な世界が現出してきますね。
玄侑 密教も、もとを辿ればヒンドゥー教でやっていたことをお釈迦様が禁じたわけですけれども、三つだけ例外を許したんですね。毒蛇に噛まれた時と歯痛の時と腹痛の時はおまじないをしても良いと。最初は全面的に禁止したんですけど、その三つだけについてはおまじないが効くから良いというわけです。そのちっちゃな穴がどんどん一つの奔流になるのが密教ですよね。やはりお釈迦様というのは賢い方だったと思いますね。その三つを許したことが私は良かったと思います。その三つというものは密教以外の各宗派にも流れ込んでいるわけです。
鎌田 面白いですね。僕は実はジャイナ教が好きでしてね。ジャイナ教に興味を持ったのは、全共闘世代の教祖的人物であった作家の高橋和巳を通してなんです。高橋和巳は『邪宗門』とか『生涯にわたる阿修羅として』とかで、ジャイナ教のことをしばしば取り上げているんです。僕は大学時代に三枝充悳先生から仏教概論と法華経を学んで、その中にジャイナ教について講義があったんです。僕のジャイナ教に関するソースは主にその二人に由来します。
玄侑 そうですか。ジャイナ教の発生地であるヴァイシャーリーをお釈迦様はかなり気に入ってますね。ここはジャイナ教開祖のマハーヴィーラの故郷でもあります。仏教と共にバラモン教に対立したのがジャイナ教ですが、信者もけっこう共通していたようですね。
鎌田 ジャイナ教には白衣派と裸行派(空衣派)があります。白衣派は穏健で、不殺生もほどほどにということで白衣も着る。だけど裸行派は不殺生戒を厳格に守って、最終的には断食死していくことを理想としているという。それを聞いたとき、宗教や哲学の極致がここにあると思ったんですよ。不殺生して自分を殺してしまうわけですから、ある種矛盾ですね。しかしそれこそが、最も不殺生を行じていて、全体世界への供養になるという発想ですから、言ってみれば「絶対矛盾的自己同一」みたいな、矛盾しているんだけどその中で世界を解脱に向かわせるような構造を持っている。『邪宗門』の中でも、神道系新宗教の千葉潔という指導者が、最後にジャイナ教のように断食死していく場面が描かれている。僕は高橋和巳がジャイナ教の裸行派に惹かれたということも含めて、ここまで極端に行くのかというところに、良いとか悪いとかを超えて人間の持つ想像力の威力を感じるんですね。仏教はそれに比べてずいぶん穏健なんですよ。まさしく、中道。
玄侑 いや、仏教においても不殺生戒というのはかなり大きなファクターで、「安居(あんご)」と「遊行」という期間の区別も不殺生戒に基づいています。虫がたくさん出てくる時期は踏む可能性が高いから安居する。まぁこれは、仏教だけの習慣ではなくて、当時のインド宗教界すべてに共通しているわけですが。
鎌田 安居というのはどういう概念ですか。
玄侑 一ヵ所に留まって集中的に修行や瞑想にふけるんです。お釈迦様は個人的には遊行したいけれども、弟子の養成のためには安居したほうが良かろうと。だから竹林精舎とか祇園精舎、あるいは大林精舎の寄付も甘んじて受けるんですね。これは仏教のごく初期にはなく、弟子たちはみな遊行しながら布教していたわけですが、外からそのことに非難の声があがって定めたと言われます。お釈迦様とすれば、定住すればいらないものを所有してしまって必ず汚れる。それはわかっているけれども、弟子の養成のためと納得して非難に応えたということでしょう。雨期の初めの満月の翌日から三ヶ月ないし四ヶ月ということですが、これは不殺生戒に大きく関わっています。この時期は草木が成長して動物たちも繁殖します。それらを殺さないように、基本的には設定されたわけです。それから農耕を禁じるのも、土の中の虫を殺すかもしれないからということですね。不殺生戒から托鉢というものも生まれてくる。
仏教の中の不殺生戒は、現在の状態をみていてもあまり目立たないですけれども、例えばドイツに仏教が伝わったとき、ドイツ仏教会のような組織ができるんですが、そこで奇妙な決議をするんですよ。仏教はすばらしい考え方だけれども、受け容れるにあたっては不殺生戒は除く。それは除いて仏教を受け容れたいというわけですね。
鎌田 でも不殺生は第一の戒律ですからね。
玄侑 要するに、不可能な戒律なんです。しかしそれでも目指すということの意味が、ドイツ人には当時分らなかったと思うんですね。不可能だけど目指す、というのは、ヘタをすると、不可能なものは目指しようがないだろうというところで開き直ってしまうわけです。でも不可能でも目指すというのは、やはり何というか、人間に美しさをもたらす原理だと思うんですね。
鎌田 ジャイナ教については、仏教に比べれば研究も少ないと思うんですが、ジャイナ教が広がらずに仏教がこれだけ広がったことにはさまざまな要因がありますね。裸行派のような徹底した思想と実践を生むジャイナ教は、広がりようのないものを根本的に抱えていたと思う。窮極のところに行き着く指向性があるわけですから、教団として大きくなれないような構造を持っていた。お釈迦さんは三つのまじないを許したけれど、マハーヴィーラはそれも許していないんです。そして非常に厳格な裸行派のようなものが出てくる。白衣派も、穏健派といっても仏教に比べればはるかに徹底していると思うんですよ。
玄侑 ジャイナ教となると、私はむしろイデオロギーと呼びたいですね。
鎌田 僕はイデオロギーというよりも生死の哲学だと思うんです。イデオロギーというとゴリゴリの主義主張という感じですが、僕はマハーヴィーラとジャイナ教には実存哲学を感じます。生死の境にどういう態度で関わろうとしているか、生命の跳躍、生死の跳躍のようなものをジャイナ教に感じるのです。
僕はイエスにも非常に心惹かれるものがあるのですが、それはマハーヴィーラに惹かれるのと似ている。つまり極端なんですよ。実際にできないことを実践しようとしている。数は多くないかもしれないけど追随者がいて、例えば殉教であるとか、本当に過激なところへ行き着くわけですね。そこまで強烈なものを生み出すほどの哲学と情念、パトスがあるわけですよ。そういう跳躍を信仰にしても行為にしても生み出す力というのは、宗教の持っているピュアともいえると同時に恐ろしいともいえる部分だと思うんですね。
玄侑 そういうものは仏教の大きな流れでも補完されていて、時折出るんですね。例えば日蓮宗の不受不施派とか、真言宗の即身仏もそうでしょう。
鎌田 土中入定とか補陀洛渡海もそうですね。
玄侑 あるいは木食行とか、あれも不殺生の一つの極端な形だろうと思います。私は人間の持っている不自由への欲求、苦痛への欲求というものが出てくるのかと思うんですね。例えば鎌倉時代に真言律宗がかなり力を得るんです。なぜかというと平安時代には葬式というのは坊さんがやるものではなかったわけですよ。しかしお坊さんに頼むということが非常に多くなってくるわけですね。そうなってきたときに、いわゆるケガレの考え方というのがお坊さんにそれを引き受けるのを躊躇させた最大のものだったらしいんです。ケガレが移るから坊さんといえども葬式なんかしないほうがいいという考え方があった。しかし人が死んでいる現場をどうするのか、放置するのかといったときに、俺たちにはケガレは移らないよと乗り出していったのが真言律宗だったわけです。なぜか。それは最大限自らを律して沐浴斎戒しているからケガレもわれわれには移らないんだと。
鎌田 それってほとんど仏教的ではないですね。
玄侑 そういう一つの極端な流れが現場を引き受けるということも生んだわけです。その次に禅宗が俺たちもやるよと。だからお葬式を引き受ける過程で、まずその口火をきったのは真言律宗と禅宗だったわけです。
鎌田 しかし真言律宗が葬式を引き受けたときの、俺たちにケガレは移らないということは一つの要素だったのでしょうけれども、それでもやらねばならないという他の要素は何だったのですか。
玄侑 それはやはり慈悲でしょうね。
鎌田 そうするとそれは本来の仏教ですね。ケガレが移らないというのは仏教を超えた民俗宗教的なものかもしれませんけど、そうまでして引き受けてやりましょうということが慈悲から出たものだというのなら、仏教が本来持っていた指向性をこの日本でどのようにして展開していくかというとき、そういう民衆の要求に応えていく運動が起こったということですね。
玄侑 現場というものがそこに生まれたわけですね。そうなったときにコンセプトでは済まなくなってくる。
鎌田 つまり臨床的になるわけですね。確かに仏教というのはきわめて臨床的な道だと思いますが、ジャイナ教は臨床的とは思いませんね。ある種原理的というか、それをイデオロギーというならそうでしょうが、原理をつきつめている。僕はイエスの教えの中にも原理性を感じます。汝の敵を愛せよとか、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せとか。
玄侑 ただ、イエスの場合は福音書によってイメージがかなり変りますから、ものすごくヒステリックなところが出てきたり、イメージを纏めきれないところがあるんですが、ジャイナ教なんか、例えばインドで「鳥の病院」というのをやっていますよね。
鎌田 どういうものですか、それは。
玄侑 怪我してきた鳥を拾ってきてそこに持ってくるわけですよ。ジャイナ教徒のお医者さんが中心となって、ケースワーカーみたいな人がたくさんいて、鳥の治療をしている。鳥は治療してもらっていることなんてわかりませんから、もう賑やかで大変なんです(笑い)。
鎌田 いいじゃないですか。僕、そういうの、好きだなあ(笑い)。
玄侑 原理的ですけど臨床的でもあるんですよ(笑い)。
鎌田 そこまでやるかというところがやはりすごいと思いますし、確かに広がらないかもしれませんが、この実践はインパクトがあります。
玄侑 誰もが持っているどこかの部分を代弁していますよね。それが歴史の流れの中で突出して出てくることがあるんだと思います。
鎌田 ただ日常生活というか、多くの人達が生きていくための糧になったり、受け容れられるような大衆的な力になったりするには弱いと思うんですね。イエスの教えもパウロが媒介することによって広まったわけですが、もしパウロがいなかったら、いわゆるキリスト教が成立したかどうかもわからない。そういう意味においては、次なる組織なり信仰共同体をつくる形成者の問題になると思うんですが、仏教の場合はお釈迦さん自身がサンガをつくったわけですね。
玄侑 ただお釈迦様はものを書いていないし、教団意識というのも薄いと思うんですね。要するにサンガという形をとっていますが、お釈迦様は亡くなるときに、小小戒は廃しても良いとおっしゃった。そして今後のあり方についても「自燈明法燈明」、自らをよりどころとせよ、でしょう。おそらく摩訶迦葉が主宰して第一回の仏典結集を催さなければ、仏教が教団として続くことはなかったでしょうね。
鎌田 そうすると、いわゆる新約聖書の福音書を編纂するような人達が現われたことによってキリスト教が成立したように、仏教もまた経典や律の作成ができなかったら教団としては存在しなかったということですね。
玄侑 そう思いますね。そこがやはりお釈迦様やイエス・キリストのすごさですね。