【ユネスコ無形文化遺産登録記念!】なまはげ館に行ったときの話
11月29日、なまはげをはじめとした日本の来訪神行事が、ユネスコ無形文化遺産への登録が決まった。
僕は東京から、このニュースを心から喜んだ。単に日本の伝統文化がユネスコから「お墨付き」を得たこと、そしてこれによってますます観光産業としてこの行事が再発見されていくことへの期待もあったけれども、なまはげは今の時代だからこそ評価されるべき行事だという思いがあった。
男鹿半島のなまはげ館に行ったのは2年前(2016年)の9月だった。
僕は高橋克彦さんの小説の影響もあり、8世紀まで異民族として在った東北の人々、文化、それを育んだ東北の自然に興味があり、東北へはよく一人旅をしている。
そんな中で、男鹿半島のなまはげ館へ行くのは必然だった。
秋田駅から男鹿半島へは車で大体1時間くらいで行ける。
この道中もみどころが多くて実際には3時間くらいかかったのだがその話は別の機会にするとして、寒風山で一度日本海に突き出る男鹿半島を眺めたあと、僕は真山のなまはげ館へと向かった。
真山は、男鹿三山と言われる男鹿半島の山岳信仰の対象となる山の一つで、真山神社が鎮座している。
なまはげ館は資料館である「なまはげ館」と、古民家を移設した「男鹿真山伝承館」の2つからなる。
僕はなまはげ館でその歴史や、予想以上にバリエーションにあふれていたお面を一通り見たあと、伝承館へと向かった。
「おばんです。」
伝承館の老人が言った。
「ここは、いつも来ても大みそかの夜なんです。」
静かな古民家の中に響く優しい声。建物は雨戸が閉められて外からの光は入らない。
蛍光灯の灯りに照らされたその部屋は、季節柄寒くはないが年越しを静かに待つ家庭を思わせる雰囲気だった。
そんな時、
ドンドンドン・・・
ビシッ!!
玄関で物音がすると、勢いよく扉を開け、ナマハゲが登場した。
オーオーオーオーオー!!!
掛け声とともに玄関で7回足踏み。
こじんまりとした古民家の静寂を切り裂く異形の者たちは、なかなかの迫力だ。
「悪い子はいねがー!」
腹から声を出し、ナマハゲは部屋を徘徊する。
よくTVで見るのはこのシーンだ。
当時30歳児だった僕は流石に泣きじゃくることはなかったけれども、男鹿半島の子供たちは大体この化け物たちの登場に圧倒され、泣き叫ぶ。このことから、恐らくなまはげを知っているほとんどの人たちは、なまはげを「子供たちを泣かせる祭り」であると認識していると思う。
でも、僕が出会ったなまはげはここからがTVのイメージと違っていた。
「さあさあなまはげさん、お掛けになってください。」
お父さん(さっきの老人)がなまはげに座布団を用意し、座るよう促した上で酒をふるまった。すると、なまはげは大人しくそれに従い酒をすすった。そして、
「おめえのとこの子供はちゃんと勉強しているのか!」
「ちゃんと子供のこと見てるのか?」
「家ではいい子にしているのか!?」
と、お父さんに質問攻めをするのである。それに対してお父さんは頭を下げながら、質問に答えるのだ。
もちろん、この時は架空の設定の上での質問と回答ではあったんだけれども。
実は僕は実体験として、この場面は見覚えがった。
高校の時、僕はあることで親に先生や同級生の親に頭を下げさせることがった。
その時の親の背中は今でも忘れていないし、僕の為に頭を下げてくれる親に、誕生日プレゼントやお年玉とはレベルの違う愛情や絆を感じたのだ。
親が子供のために頭を下げるというのは、親子の愛情が無ければ成り立たないし、親が子供について理解していなければなしえない。謝る相手へ誠意も伝わらない。
この出来事があってから、僕は今後は絶対親に頭を下げさせないと自分に誓ったし、二度と同じことをしないと心に決めた。
子供は親の謝る背中を見て成長する。
なまはげの文化はまさにそれだと思った。親が子供を異形の者から守り、頭を下げ、子どもがきちんと生活していることを伝える。親の愛情と子供への理解がなければ成り立たない文化なのだ。
「おめえはちゃんと仕事してるのかー!!」
問答の中で、なまはげが僕に直接聞いてきたことがあった。
「ええ、その方はちゃんとしていらっしゃいます。」
ありがとうお父さん!!・・・今日はじめて会ったけど。
Wikipediaには内藤俊史氏の「こどもの内在的正義の観念としつけ態度との関係---農村地域におけるケーススタディ」という論文を引用するかたちでこのなまはげについて、「親は幼児に対し予めなまはげによる強い恐怖体験を記憶させ、そのあと幼児に対し望ましくないとみなされる行為を行った場合、その恐怖体験が再現される可能性を言語的手段によって理解させる」と書かれているけれど、僕はこれは少し違うと思う。
恐怖体験で子供に覚えさせるというよりは、親との信頼を深め、子供と親の距離を縮めることで教育に寄与するものだと思う。そして、それだけでなく、子どもについての問答をなまはげから求められる親の成長の場でもあると思うのだ。
なまはげをはじめとした来訪神は、自然・社会・世の中の摂理を我々に伝えに来るなにか、摂理の化身、みたいなものだと思う。(パーントゥはちょっと違う気もするけれど。笑)
神様がたくさんいた昔の日本。きっと当時の人々には見守ってくれる存在、世の中の摂理を教えてくれる存在がたくさんいたのでしょう。
「個の時代」の解釈がゆがみ、「自由と自分勝手の混同」「他人への無関心」が進み、親や大人が子供たちを注意しなくなりつつある現代だからこそ、私たちは異形のものたちが伝える摂理をキャッチできるなまはげの文化を後世に残していくべきではないだろうか。