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Okinawa 沖縄 #2 Day 265 (06/07/24) 旧北谷間切 北谷町 (06) 伊平 (伊礼•平安山)

2024.07.07 00:52

北谷町 字伊平 (イヘイ、いへい)

字伊平 伊礼 (イリー/イリア、いれい)

字伊平 平安山 (ハンザン、へんざん)



5月7日に北谷町桑江を訪れてから2ヶ月が経ってしまった。膝の痛みが取れず、一時期は歩行にも支障が出るほどだった。医者にも行ってレントゲンを撮ると、膝の軟骨が少し擦り減っているのだが、特に問題はなく湿布薬で様子見となっていた。その後も一向に改善されず、膝も腫れる時もあり、とうとうヒアルロン酸の注入をすることになった。先週と数日前の二回にわたって注射で注入し、痛みも治まっている。という事で沖縄の集落巡りを2ヶ月ぶりに再開する事にした。膝の方はなんとかなりそうだが、もう一つの不安は熱中症だ。昨年は何回か熱中症の症状が出て、一度は失神もしている。今年は昨年よりも気温は数度高いように思える。梅雨明け以降33-34度の日が続いている。例年は30度前後だったのに今年は暑そうだ。熱中症対策として、ファン付き上着を購入し、保冷剤と併用する事にした。どれだけ効果があるかは分からないが少しはましだろう。現地への行きはなるべく気温が上がり切っていない早朝として、今日は七時に出発。


旧北谷間切 北谷町 字伊平 (イヘイ、いへい)

現在の北谷町の字による行政区の字伊平は、1942年 (昭和17年) に字伊礼 (イリ―) と字平安山 (ハンザン) が合併してできた字で、二つの旧字のそれぞれの名称の一字を組み合わせて伊平と名付けられた。今日はこの 字伊礼 (イリ―) と字平安山 (ハンザン) の史跡を巡る。

琉球王国時代には伊礼は平安山の一部だったが、琉球王国末期に伊礼が平安山から分離独立している。当時は広大な地域にまたがった字だった。

字伊礼と字平安山には多くの屋取集落があり、これらの屋取集落は次第に人口が増加し、本村を凌ぐほどになり、4~5倍にも達していた。1925年 (大正14年) に字伊礼から御殿地屋取、喜友名組屋取、勝連組屋取、上勢頭屋取が分離独立して字上勢頭 (ウィシードゥ) となり、字伊礼は本村と小さな上間兼久屋取のみとなっている。同時期に字平安山からも下勢頭屋取が分離独立し、字浜川の一部と字野里と合わせて字下勢頭となり、字平安山も本村のみとなっていた。1942年 (昭和17年) に字伊礼と字平安山が合併し字伊平となり、更に、1980年 (昭和55年) に字伊平の海岸沿いの地域が独立分離して美浜三丁目となり、現在に至っている。

旧北谷村の特徴は士族の割合が多いことやその背景については桑江集落の訪問記で述べたが、その中でも平安山と伊礼はずば抜けて多く、平安山はその人口の90%、伊礼は84%が帰農士族に占められていた。

沖縄戦では1945年 (昭和20年) 5月1日に米軍が上陸し、真っ先に占領され、戦後、伊平全域の土地は接収されている。 1982年 (昭和57年) に蔵森 (クランモー) が一部返還され、2003年 (平成15年) には、旧字伊礼集落があった土地が返還されている。今後、嘉手納基地となっている地域も返還予定ではあるが、基地の辺野古移転にはまだまだ問題や課題があり、いつ返還されるかはわからない。

伊礼と平安山の民家の分布の変遷を見ると、明治時代までは宿道だった現在の国道58号線に小さな集落があった。1883年 (明治13年) の字伊平の人口は271人 (58戸)、1903年 (明治36年) には349人 (159戸) だった。戦後、長期間にわたって米軍基地として接収が続いており、1982年 (昭和57年) に蔵森が一部返還されて9世帯が戻っている。その後30世帯迄に増え、2003年 (平成15年) には、旧字伊礼集落があった土地が返還されている。返還後から人口は増え始め、2023年末には 1,140人 (566戸) にまで増加している。

字伊平は長期間にわたって米軍基地として接収されていた事や、一部返還後は狭い土地を土地整理事業で殆どの史跡は姿を消滅してしまい、合祀所で祭祀史跡を形式保存している。


旧北谷間切 北谷町 伊礼 (イリー/イリア、いれい)

江戸時代から明治時代の字伊礼は北谷町域西側、東シナ海に面し、南側に字桑江に隣接している。字伊礼は南は奈留川 (ナルカー) で桑後と境をなし、北は徳川 (トゥクガー) が平安山との境で、その間の平旦な耕地の中に集落が形成されていた。戦前の伊礼本村は小さな村で、伊礼小 (イリーグヮ) とも呼ばれていた。集落に沿って県道 (現在の国道58号線) が走り、更に西の海岸沿い (現在の美浜三丁目) には軽便鉄道が走っていた。伊礼 (イリー)、平安山 (ハンザン)、浜川 (ハマガー) の三集落は隣接していたので、この三集落は伊平浜 (イハバマ) と呼ばれ、運動会などは三村共同で行なっていたそうだ。

伊礼の村立ては伊礼の宗家とされる屋号 前桝 (メーマシ) は現在の北谷町役場の西 (キャンプ桑江内) の斜面山手に居住していたが、耕作地としては不適だったので第二尚氏王朝初期の1440~50年頃に転住して伊礼部落を形成したと考えられている。北谷町役場の裏側には宮増原ヌ殿 (ミヤマシバラヌトゥン) がある。桑江集落訪問時に見学した。ここが村立てをした前桝 (メーマシ) の拝所だった。多分、宮増 (ミヤマシ) は前桝 (メーマシ) が転訛したのだろう。

字伊礼の南の奈留川下流に沿って上間兼久屋取集落 (イーマガニクヤードゥィ) 又は、伊礼小ヌ前 (イリーグヮヌメー) と呼ばれた居住人部落があり、本村の伊礼に属していた。

戦前は伊礼本村には21軒 (内 瓦屋は2軒)、南側の上間兼久屋取集落 (イーマガニクヤードゥィ) には18軒 (内 瓦屋は3軒) の民家があった。

伊礼の主業は農業で、芋、サトウキビ、米などを作っていた。共同砂糖屋 (サーターヤー) は、伊礼、上間兼久にそれぞれ1か所ずつあった。それ以外にもマチヤ (雑貨店)、ユーフルヤー (銭湯) 、客馬車、荷馬車、人力車、役場吏員、石工、大工、竹細工、帽子クマー、三味線作り、豆腐屋などを営む人達たちもいた。また、県道に沿っては数軒の飲食店 (サカナヤー) があり、売春婦の巣窟をなしていたという。


伊礼集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャー (クシックィー・クスックィー、旧暦2月2~3日): 豊年祭。クランモーで豚を潰してごちそうを作り、30歳以下のワカカタと、30歳以上のトシカタに分かれて輪番のニングワチャーヤードゥで宴会をした。1日目は宴会、2日目は宴会の後に、ニングワチャーヤードゥからサーターヤーまで「唐船ドーイ」を伴奏に道ジュネーをした。
  • ニングワチウマチー (旧暦2月): 平安山 (ハンザン) ヌロが来て拝んでいた。集落の人たちにはあまり関係がなかった。
  • エイサー (旧盆、旧暦7月7~15日): 1939 ~ 40年 (昭和14~15年) 頃までは男性のみでエイサーを催していた。
  • シーサーモーイ (十五夜 旧暦8月15日): 悪疫払いと五穀豊穣を祈り、蔵森 (クランモー) で獅子舞が行なわれていた。獅子舞の後は、他集落の青年たちと沖縄相撲をしていた。獅子舞は、戦争で中断していたが、伊礼と砂辺では復活している。

伊礼集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: 伊礼之殿 (イリーヌトゥン)、宮増原ヌ殿 (在 桑江)
  • 拝所: キラマジー、土帝君、祖霊神、火ヌ神
  • 井泉: 蔵森南ヌ井 (クランモーフェーヌカー)、後ヌ井 (クシヌカー)、上間兼久 (イーマガニクヌカー)、蔵森ヌ井 (クランモーヌカー) 

伊礼集落は戦後、キャンプ桑江として接収され、旧字伊礼の住人の大部分が謝苅に居住していた。1982年 (昭和57年) に蔵森が一部返還され、2003年 (平成15年) には、旧字伊礼集落があった土地が返還されているが、旧字伊礼の土地の半分以上はまだ返還されていない。



蔵森 (クランモー)

伊礼集落の鎮守の森の蔵森 (クランモー) は5~6mの丘で松などの木が鬱蒼としていたという。フナウクイをする場所だった。ヤマトゥなどへ旅立つ人を那覇まで見送りに行けない人は、桑江駅で見送ったあと、女性達が、この蔵森 (クランモーヌムイ) で太鼓をたたき、ダンジュカーリーを歌って見送った。那覇を出港して、読谷の残波までの30分~1時間ぐらいの間、船が見えていたそうだ。フナウクイの後は、その旅立った人の家へ行って宴会を行なっていた。また、蔵森は若者が集うアシビナーでもあり、そこにはマーイサー (真石、力石) が 2つあり、重さは100斤 (60kg)と50~60斤 (30~36kg) だった。マーイサーは戦争でなくなってしまった。

戦後、この地は軍用地となり、整地されて軍施設が建てられたが、蔵森 (クランモー) と獅子屋は米軍によって保存された事で消滅から免れた。米軍キャンプ桑江内の字伊礼の聖地だった蔵森は住民の粘り強く、また強行姿勢で米軍との交渉し、ようやく1981年 (昭和57年) に蔵森だけだったが返還された。戦前には、蔵森の丘陵部の琉球石灰岩には自然洞穴があり、内部に人骨を納め、集落の合葬墓 として利用されていた。平場には獅子舞に使用された獅子頭が保管していた赤瓦屋や、井戸も在 り、戦前にはここで集落の行事が行われていた。蔵森の由来は明確ではないのだが 「暗い場所」ということからか、「倉 (高床倉庫)」があったからなどと推測されている。 戦前は毎年8月15日にはこの広場で獅子舞が行われていた。1982年 (昭和58年) に、以前の姿に戻す為に、復元工事が行われ、墓、井戸、各種石碑が在った場所に復元され、墓には骨壺が再び戻されている。また、旧集落内にあった井戸や拝所も合祀所を造り祀っていた。1983年 (昭和59年) には、獅子 (シーサー) 頭は無くなっていたが、獅子屋と戦前のものよりも大きな獅子頭も復元された。(下の写真と縄張り図は伊礼郷友会館敷地に移転する前のもの。)

上記の様に、伊礼住民がいかにこの蔵森を大切にしていたことが判るのだが、2006年 (平成18年) に国道拡幅計画が挙がり、この蔵森がその対象となり、拝所の移転が必要となった。2013年 (平成25年) に蔵森の拝所を新設された伊礼郷友会館敷地へ移転している。元々の蔵森は影も形もなくなって国道沿いに商業施設となっている。国道は確かに拡張されているのだが、拡張部分は追加の道路が建設されているのだが、使われていない。何の為に拡張工事が必要だったのだろうか?伊礼住民が強行に粘り強く交渉して返還を勝ち取った蔵森を潰す必要があったのだろうか?


字伊礼郷友会

遺跡公園の東に戦後に組織された字伊礼郷友会がある。この敷地内の入り口隣には蔵森にあった拝所が移設されている。


伊礼之殿 (イリーヌトゥン)

かつて伊礼集落北側にあった伊礼之殿 (イリーヌトゥン) が字伊礼郷友会の敷地に移設されている。ここに移設される前には1982年 (昭和58年) に返還された蔵森 (クランモー) に移設合祀されていた。(写真右下)  琉球王国時代には伊礼之殿では四ウマチー(2月/3月の麦ウマチー、5月/6月の稲ウマチー)の際に、花米九合完、五水 (御酒) 四合を伊礼大屋子が供え、神酒二完を伊礼の村人が供え、平安山ノロが祭祀をおこなっていた。現在でも2月15日、3月15日、5月15日、6月15日の四ウマチーと8月15日の豊穣感謝祭で拝まれている。


井泉 (カー) の合祀所

戦前までは伊礼集落内のほとんどの家に井戸があったが、これらとは別に共同井戸が存在していた。戦後は伊礼全体が米軍基地に接収されたが、1982年 (昭和58年) に蔵森が返還された際の発掘調査で見つかった蔵森南ヌ井 (クランモーフェーヌカー) に、旧伊礼集落にあった三つの井泉を合祀していた。 (写真右上) この四つの井泉の合祀所は国道58号線拡張の際に字伊礼郷友会の敷地に移設され、伊礼殿 (トゥン) の隣に置かれ、2月のニングヮチャー(豊作祈願)、9月9日の菊酒(秋の健康祈願)などの拝みが行なわれている。合祀された三つの井泉は

  • 上間兼久 (イーマガニクヌカー) - 上間兼久屋取の産井 (ウブガー) だった
  • 蔵森ヌ井 (クランモーヌガー) - 蔵森ヌ産井 (クランモーヌウブガー) とも呼ばれ、伊礼 (イリー) の産井 (ウブガー) だった。グングワチウマチ 一と十五夜のときなどに拝まれていた。
  • 後ヌ井 (クシヌカー) - 新垣ヌ井 (アラカチヌカー) とも呼ばれた伊礼の共同井戸だった。


土帝君、祖霊神 (字伊礼祖霊之墓)、火ヌ神

井泉の合祀所の隣にもコンクリート造りの祠が置かれている。ウコールを祀った祠も建立されている。ここには土帝君、祖霊神、火ヌ神が合祀されている。 (写真上)  

火ヌ神は琉球国由来記には平安山巫火神として記載されている。祖霊神と書かれた香炉は蔵森 (クランモー) の北側の自然岩の岩穴を利用した墓だった。蔵森にあった墓の右側に、「字伊禮祖霊之墓」 と刻まれた石碑が立てられていた。戦前、墓の中には頭蓋骨などの人骨が5~6体程散在していたが、戦後、米軍による土地接収で散々する人骨を謝苅に設けた仮墓に安置していたが、蔵森が返還された後、1983年 (昭和59年) に元岩穴が整備され遺骨を戻し安置していた。 (写真下) 


獅子屋 (シーシーヤー) 

戦前の蔵森 (クランモー) の平場には獅子舞に使用された獅子頭が保管されていた赤瓦屋の獅子屋 (シーシーヤー) があった。幸い、米軍によって保存された事で消滅から免れた。1981年 (昭和57年) に蔵森が返還され、獅子頭は無くなっていたが、獅子屋と戦前のものよりも大きな獅子も復元されていた。国道58号線拡張の際に取り壊されているのだが、その後どうなったのかは気になる。

戦前には琉球王国時代、18世紀に病魔退散、五穀豊穣、家内安全を祈願してを願い始まった獅子舞いが8月15夜の豊穣感謝祭で演じられており、1984年 (昭和60年) に蔵森で獅子舞いが復活している。北谷町では、北谷、砂辺、伊礼に獅子舞が伝わっていたが、現在完全なかたちで継承されているのはこの伊礼だけになっている。伊礼の獅子舞は、獅子のほかに、二頭の猿が登場し、獅子をからかい、猿にからかわれた獅子が、怒って猿をおいかけ回したり 木の上に逃げた猿にむかって跳びついたりというもので、他の地域の獅子舞とは異なっているのが特徴だ。現在では伊礼郷友会館敷地で獅子舞が行われている。


伊礼原 (イリーバル) 遺跡

旧伊礼集落の北東一帯では縄文時代前期から晩期に及ぶ集落跡の伊礼原遺跡が発見されている。米軍基地返還に伴う区画整理事業に先立つ試掘確認調査で、石器、土器や貝製品、骨製品など、木製品などが出土している。

また、日本の糸魚川が原産地と考えられる翡翠玉等が発掘され、縄文時代に日本本土と交流があったと考えられる。

跡地は遺跡公園・博物館の整備が計画されている。当初は博物館開館は2019年とされていたが、2023年3月に更に2024年に延期された。

遺跡公園内は工事中。計画図通りに進んでいるようだ。博物館は建物が完成しているので、開館は今年中になるのでは無いだろうか? 開館後には訪れてみたい。公園の国道側にはビーチロックが展示されている。 (写真右下) 海岸の砂がカルシウムの化学反応でセメントのように固まった岩で、主に波打ちに形成され、沖縄では板干瀬 (いたびし) と呼ばれている。約4000年前から2500年前の縄文時代にこの場所のすぐ側にあり、道路からここに置かれているビーチロックあたりに波打ち際があり、伊礼原遺跡の日前には海が広がってた事がわかる。


字地川 (ウーチヌカー)

遺跡公園内北にある森への入口に湧水井戸の字地川 (ウーチヌカー) がある。縄文時代からこの地に住んでいた人達に使われていたという。縄文時代には、この付近まで海が迫っていた事が、発掘調査で分かっている。琉球王国時代から明治時代、グングヮチウマチー (旧暦5月15日) に平安山巫女 (ハンザンヌル) が来て祭祀を行っていた。また、豚を潰して供えて雨乞いも行われていた。


徳川 (トゥクガー)

遺跡公園の北東側に川が流れている。徳川 (トゥクガー) でこの川を超えると旧平安山 (ハンザン) の村だった。川の上流は米軍基地となっており、川を登ってはいけなかった。下流は浜川漁港に流れ込んでいる。


キラマジー (ケラマジー)

宮城区の埋立地、県営美浜団地の北東側、戦前の伊礼本字の西側、ケービンミチを越えた海寄りに当たる場所には、キラマジー (ケラマジー) の拝所がある。元々はかつての海岸線にあった岩を祀っていたが、埋立地造成の際に、10mぐらい南側のこの場所に移されている。伊礼邑の拝所で他集落の人たちが拝みに来ることはなかったが、戦前は村で2月に祈願を行い、陰暦3月3日、キラマジーの手前でゲーン (すすき) を結わえ輪を作り、輪をくぐってから、キラマジーを拝んでいたそうだ。1993年にコンクリート造の祠に建て替えられている。



北谷町 字伊平 平安山 (ハンザン、へんざん)

徳川 (トゥガー) を境に、伊礼 (イリー) の北側が平安山 (ハンザン、へんざん) でケンドーの東側に位置していた。北西側は字浜川 (ハマガー) に隣接している。

平安山御願 (ハンザンウガン) と呼ばれた御嶽があった平安山集落の北の赤道原の高地で、平安山集落の村立てが始まったと考えられている。この地域は水に不便で飲料水も麓に降りて汲んでおり、水田等の耕作地も遠くて不便であつたことから、按司時代以降に飲料水にも近く水稲耕作にも便利な低地の戦前の平安山集落へ移住してきたと考えられている。

明治大正時代には字平安山は居住人部落として平安山之上屋取集落の一部、下勢頭屋取集落の一部 及び上勢頭屋取集落の大部分を含んでいたが、これらの居住人部落の戸数は平安山本村の4~5倍に達していた。その人口が増えた事で、1925年 (大正14年) に下勢頭屋取集落と上勢頭屋取集落はそれぞれが字下勢頭及び字上勢頭が行政字として分離独立している。平安山本村は平安山之上部落の一部 (字平安山に属していた部分) は従前の通り字平安山として存続している。

平安山本村は戦前には戸数41軒の集落だった。主業は農業で、芋やサトウキビなどを作り、沖縄県から表彰されたこともあるほどの農業優良集落だった。各家には井戸があった。集落の東端には村共同の砂糖屋 (サー ターヤー) が置かれて集落の人たちが使用していた。その他、個人所有の砂糖屋 (サーターヤー) が二つあった。嘉手納に製糖工場ができてからは、砂糖屋 (サーターヤー) を利用することは少なくなり、製糖工場へ直接出荷するようになった。 


平安山集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャー (クシユクワーシー・クスックイ 旧暦2月2~3日): 1日目にはシマクサラシも行なわれ、豚を1頭潰しギキチャー (ゲッキツ) の枝にその血を塗り悪鬼払いをした。拝所を男性だけで拝んだあと、ワカカタ (青年組) とトゥスイカタ (年寄り組) に分かれて、それぞれのヤードゥでごちそうを食べた。2日目には、ワカカタがトゥスイカタにごちそうを持って行っていた。
  • 綱引き (旧暦6月24日): メーベーとクシベーに分かれ綱引きを行なっていた。
  • エイサー (旧暦7月): 1936~37年 (昭和11~12年) 年頃まで行なわれていた。
  • 白露の御願 (旧暦9月): 平安山御願と字地川で祈願が行なわれていた。各家から大豆を集めて豆腐を作り、その豆腐にカラスグワー (魚の塩付け) をのせて供えて豊作を祈願した。


この平安山集落の屋号祝女殿内 (ヌンドゥルチ) は代々、平安山ノロを輩出し、1944年 (昭和19年) 迄は平安山、浜川、桑江、伊礼、砂辺の五集落の祭祀を管轄していた。2月・3月・5月・6 月のウマチーのときだけ、平安山、浜川、砂辺、桑江、伊礼の順で各集落の殿 (トゥン) をまわっていた。四ウマチーの祭祀は昭和19年 (1944年) まで行なわれていた。戦後、平安山の土地が米軍に接収された事で、屋号祝女殿内 (ヌンドゥルチ) は現在の栄口団地内に移り、敷地内に神屋が建てられている。


平安山集落の拝所

  • 御嶽: 平安山御願 (ハンザンウガン、オヤギヤクイ君ガ嶽)
  • 殿: 平安山之殿 (ハンザンヌトゥン) 
  • 拝所: 祝女殿内 (ヌンドゥルチ) 拝所
  • 井泉: 字地川 (ウーチヌカー)、トーマヌカー (消滅?)


戦後米軍に接収された平安山集落域は、現在の国体道路の南側、キャンプ桑江内となっていた。2003年 (平成15年) に、平安山集落があった地域は返還されてはいるが、まだかつての字平安山だった地域の大部分は返還されていない。



平安山の合祀所

戦前の平安山集落には幾つかの拝所があったが、戦後、米国軍にキャンプ桑江として接収され帰還が叶わなかった。そこで、集落内にあった拝所の白露之神、殿之神、宇地川之神を浜川集落の南側のアマジチメーと呼ばれた浜辺の墓地群の地に移設し合祀していた。ここには平安山の拝所だけでなく、同じく村が米軍基地に接収されていた浜川 (ハマガー) と喜友名小屋取 (チュンナーグワーヤードゥイ) の合祀所も置かれている。平安山集落があった場所が返還された後も、この合祀所はそのまま置かれている。


  • 宇地川之神 (ウーチヌカー) - 祠内左端には宇地川之神 (ウーチヌカー) が祀られている。宇地川 (ウーチヌカー) は、先程訪れた伊礼集落の丘陵麓の遺跡公園内に現存している。戦後、1981年に返還されるまではキャンプ桑江敷地内になって立ち入り禁止で御願も自由には出来なかったので、ここに合祀されていたのだろう。この井泉は縄文時代以降、平安山の祖先たちが使用したと伝えられている。昔は雨乞い祈願が行われていた。先ず、男たちがウーチヌカーにおいて豚を一頭潰し、潰した豚の骨片や肉を霊石に供え、平安山ノロを中心に祈願を行い、祈願を終えたノロが雨乞いのウムイ (神唄) を唱えながら、字地川の水を村人にかけながら、水の神に雨乞いを行ったという。
  • 平安山御願 (ハンザンウガン) - 祠の中の向かって右に平安山御願 (ハンザンウガン) が置かれている。元々は現在の普天間飛行場敷地内 (行政区では字浜川になる)、かつての平安山の上屋取の南側、 グンクンニー (写真下) の北東側に御願岩 (ウガンヌシー 写真中) の小山があり、この岩 (シー) は平安山御願 (ハンジャウガン) とも呼ばれ、琉球國由来記のオヤギヤクイ君が嶽 (神名イシノ御イベ) と考えられている。戦前までは、ここで白露の拝みが行われていた。戦後、この地域は米軍嘉手納飛行場として接収されたため、浜川に合祀所を設け、拝まれている。二十四節期の第15にあたる八月節 (旧暦7月後半から8月前半頃) の白露 (はくろ) に集落の有志がシル豆腐を供えて白露の拝みを行なっていた。この平安山御願の神を白露之神と呼んでいたので、拝所には白露之神時された石碑が祀られている。2月、3月、5月、6月の麦と稲の豊作祈願と収穫祭の四ウマチーでは平安山ノロが祭祀を行っていた。
  • 殿之神 - 平安山御願の隣に殿 (トゥン) の香炉と石碑が置かれている。戦前までは平安山集落の北側にあった。琉球国由来記には平安山巫火神と記載され、琉球国日記には 「平安山之殿 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛・シロマシ一器平安山地頭、神酒二半宛芋。平安山村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也」 と書かれている。この殿では旧暦2月2日から4日の3日間、腰憩め (クスッキー) が行われ、初日には豚の骨片を吊るした左縄を張り悪疫の集落侵入を防ぐ 「シマクサラサー、シマクサラシ」 が男性を中心に行われ、集落では 「アカフーゲーシ」 とも呼ばれていた。戦後は次第に行われなくなっている。又、四ウマチーでは平安山ノロが白装束に身を包み、頭にはヤマカンダー (山葛) と白ハチマキをしめて祭祀を行っていた。現在ではノロの継承も途絶え、ノロ殿内の家人らによる拝み行われている。




今日は朝早く出発したので、まだまだ時間は残っている。とにかく暑いので、近くのショッピングモールで体を冷やして休憩。その後、北隣の字浜川 (ハマガー) ヘ移動して史跡巡りを続ける。




参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
  • 旧字伊礼郷友会誌 (2004 北谷町旧字伊礼郷友会)
  • 蔵森 沖縄西海岸道路北谷拡幅建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 [北谷町文化財調査報告書 第39集] (2016 北谷町教育委員会)
  • 旧字伊礼郷友会誌 (2004 北谷町旧字伊礼郷友会)
  • 伊礼原遺跡 北谷町文化財調査報告書25 (2006 北谷町教育委員会)