Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

いろはうたう

戦場に架かる橋

2024.06.06 10:00

 かつて人類の通信は、もっぱら魔法で生み出された青い鳥により行われた。だが次第に送り届けられるメッセージの量が増え、質もまた悪化したことにより、青い鳥は慢性的なストレスと強い精神的負荷により、ことごとく死に絶えた。

 そこで代替通信手段として、大きな橋が地上の至る所に架けられた。伝書鳩に頼れないのなら、頼るべきは人類の二本足である。最後にものを言うのはフィジカルなのだ。ふんぞり返った上司も、会社を離れればただのおっさんである。俺は経験上それをよく知っている。だからこそ俺は、友人からの「会いたい」というメッセージを読むなり、ジャケットを羽織って家を出た。すでに日は落ちかけていたが、急ぎ足で橋を目指した。


 長雨が止んだ空には、水彩絵の具を溶かしたような夕焼けの名残りがあった。肌寒い風が吹いている。橋の欄干から水面を見下ろすと、ゆるりと流れる黒い水が、鮮やかなオレンジ色をした橋の鉄骨の隙間に見え隠れしている。あたりは概ね静かだ。水の流れる音と、風が鉄骨の隙間を通りすぎる音以外にはなにも聞こえない。どこか遠くで電車が走っているのだろう、ごおん、という重たい音がかすかに響いていた。橋の欄干に一羽のカラスが止まり、川の水面にくちばしを向けながら、かあかあ、と鳴いていた。やけに人間じみた声で鳴くものだなと思っていると、やがてカラスは飛び上がり、夕焼け空に紛れて見えなくなった。


 何羽かのカラスが鳴き交わしながら空を横切るのを眺めながら、俺は友人の訪れを待つ。橋に行くように、と書かれたメモには要件が書かれていなかったが、友が俺に何の用があるのかは予想がついた。夕日が完全に沈むと、まるで散歩でもするかのような足取りで橋の上を行きつ戻りつしていた人間たちもぱらぱらと帰っていった。街灯に明かりは灯っていない。淡い闇の中で欄干の鉄骨が鈍い光を孕んでいた。オレンジ色の空の余韻はとうに消え去って、空は濃い藍色へと変わっている。


「いい夜だ」

 俺はひとりごちた。

「そう思わないか?」

 欄干から身を乗り出すようにして水面を見下ろす。目を凝らすと、沈んだ鉄骨の陰の暗がりに動くものがある。俺はジャケットのポケットから小さな魔法瓶を取り出した。中にはカラスミが入っている。それを一口分つまみ出し、川へ向かって放り込んだ。カラスミは暗い水面をゆっくりと沈んでいく。それを眺めながら、ジャケットのポケットから煙草とライターを取り出したところで、

「いい夜だ」

と背後から声が聞こえた。振り返ると、橋の入り口のところに男が立っていた。


 男は黒い帽子を目深に被っていた。顔がよく見えない。俺は男に尋ねた。

「すまない、ちょうど今、手元が暗くなったんだ」

 だが男は何も答えなかった。俺は肩を竦め、煙草に火を点けた。ゆっくりと煙を吸い込み、溜め息と一緒に吐き出す。橋の鉄骨の隙間からは黒い水が微かな音を立てながら延々と川下へ流れ続けている。繁華街のざわめきはもう聞こえない。自動車の音も絶えていた。耳が痛くなるほどの静寂だ。


「それで、何があったんだ」

 欄干に寄りかかりながら尋ねる。男は沈黙している。友人であるから多少待たされるのは構わないけれども、話をするのにいちいちこのような場所へ呼び出されねばならないことに俺は少しの煩わしさを覚えた。橋の近くには小さな公園があり、その周りには食べ物を安く食べられるチェーン店が並んでいる。喫煙席だってあった。まったくもって気にくわない。友人がわざわざ人を呼びつけたのだから、コーヒーの一杯でもおごってくれたって罰は当たらないだろう。


 俺はもう一度煙草を吸い、それからまだ長いそれを携帯灰皿で揉み消した。魔法瓶のカラスミは流されて底の方に沈んでしまった。今頃ちょうど魚の口へ吸い込まれていくところかもしれない。鉄骨の暗がりの中で、ぎょろりと魚の目玉が光ったような気がした。

「この辺りにも化物が混ざり始めてる」と友人は言った。「俺は立場上そうもいかないが、お前は上司を殴って退職したような馬鹿だ。今もどうせ無職だろ。さっさとこんな街を離れた方がいい」友人はにじり口でも探すように、視線を水面の上に彷徨わせながら言った。

「そんなの噂話だろ。化物なんて大方、どっかの馬鹿の陰謀論さ」

「その、どっかの馬鹿、が化物自身なんだよ。人語を操るが精神構造は人類と異なる生き物だ。理屈も道理もあったもんじゃない。勝手に増えて、勝手に意気投合して、勝手に殴りかかってきて、勝手に自滅して、喧しく号泣してる奴らだ。お前も駅前なんかで見たことあるだろ」


「見ない」と俺は答えた。俺の目にはそういう存在は映らない。

「俺も見なかったことにしてる。でも噂話だけじゃないんだ、最近じゃ政府の人間も夜な夜な襲われてるし、インフルエンサーも何人か消えてるって話まである」

「俺の職場の知り合いも二人ほど失踪したよ。一人は男で、もう一人は女だった。どっちも消えたきり連絡が途絶えてる。退職代行って便利だよな。ははっ」

「お前の勤めていたブラック企業のことは労基にでも相談しろ、俺の管轄外だ。今は俺の管轄内の話をしてる」

 友人の口調は強く、闇を見据える眼光も鋭かった。


「仮にそれが本当のことだとしても、お前が気にするようなことか?」と俺。これでも腕っぷしには自信がある。

「あいつらは理屈じゃないんだよ。そしてお前は理屈の側の人間だ。今だって大方、殴ればいいとでも思ってるんだろうが、殴ってもどうにかなるのは、理屈で動いている生き物だけだ。化物には通用しない」

 友人が苛立たしげに、爪先で何度も地面を蹴った。橋脚を叩く硬い音が静かに響く。苛立っているのは明らかだ。俺は友人の話を訝しみつつも、煙草を一本くわえて火をつけた。深く煙を吸い込む。鼻筋に重い痺れを感じる。川岸に備え付けられた何本かの街灯が間遠に瞬きながら不安定についたり消えたりしているのを眺めた後で、ふと川面へ目をやった。視界の端で何かが蠢いている。顔を向けた瞬間に、水面から鉄骨へ何かが飛び移った。


「何かいる」俺は指差して言った。「今、何かいたぞ。見ろよ」

 だが友人は俺の言葉を無視して続けた。

「とにかく逃げた方がいい。あいつらのやり口はわかってるだろ? なにかと難癖つけて殴り掛かってくる」

 友人の白目は黄色く濁っていて、なんだか妙にぎらぎらと濡れていた。俺はとりあえず頷いた。

 友人は俺が頷くのを確認すると、橋の入り口の方へ向かって歩き始めた。


 俺は欄干に寄りかかったまま、その背中をぼんやり眺めていた。それから手に持っていた煙草を思い出した。体を起こし、友人の背中に向かって声をかける。

「なあ」と自分でも意外なほど大きな声が出て、友人は振り返った。

「なんだよ」とでも言いたげな顔をしている。俺はその顔をしばし、まじまじと見つめて、それから言った。

「お前、誰だ?」

「ははっ……」友人は笑うと「その調子だ。もう会わないと思うが元気でな」

 そう言うと彼は夜の闇に溶けていった。