「美学がため息を漏らす」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(二十八)
我が庭には、どういうわけか枝垂れの樹木が似合いません。
家の構造も含めて全体的に直線的な印象が強いためなのでしょうか、なぜか馴染まないのです。
それでも、糸枝垂れの桜が春風に揺れて咲き乱れる蠱惑的な風情に憧れるあまり、ろくすっぽ考えもせずに取り入れてみました。予算と根付きの関係から、いつも通り若木一本を植えたのです。
翌年にはもう花を咲かせてくれ、当然ながらさほどの見応えはありませんでしたが、五月の風になびく細い枝を彩る桜色ときたら、ただもうそれが視界に入るだけで明るい未来を象徴しているかのように感じられたものです。
ところが大きくなるにつれて浮いた感じがどんどん強まってゆき、全体の雰囲気を破壊しかねない危険性が増し、とうとう知人宅に移植せざるを得なくなりました。
あれから何年経ったでしょうか。その家の前を通るたびに大木へ向けて存在感を増してゆく糸枝垂れ桜が、なんとも未練がましい、一抹の後悔の念を伴って迫ってくるのです。
とはいえ、冷静になって考えてみますと、やはり私の庭の雰囲気をぶち壊しにしてしまう一本であったことは否むに否めない事実です。
全体の構成に重きを置かない庭は、小説と同様、締まりのない、つまり、見るに忍びない代物と化します。
要するに、結果がどうであれ、美的な材料であればなんでもかんでも詰めこむという、世間一般の基準に合わせるべきではないことになるのでしょうか。
因みに、ひとえに珍しさと、苗木であるから邪魔にならないという理由から、性懲りもなく、桜ならぬ枝垂れのエゴノキを植えてしまったことがあります。そして、案の定と言いましょうか、さほど成長しないうちから邪魔者であると判明し、困り果てた末に、今度は人目につきにくい死角のような空間にそれを移し、強い剪定によって目立たないような扱いにしました。
ところが、なんとも皮肉なことに、楚々とした白い花の効果によるものなのか、妙にしっくりした雰囲気を醸しているのです。そこで、このままそっとしておくことに決めました。
今それは、ひっそり閑とした場所で満開です。
ごく普通のエゴノキが言いました。
「美を見極める基準なんてものは最初からないんだよ」
ひと回り大きな花をつける園芸種のエゴノキが言いました。
「美の核心が守勢に立たされるのは常ですよ」