Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

チャーチル・ファクター

2018.12.10 23:34

       皆さんは、子供の頃、小中学校で先生から「尊敬する人は誰ですか?」と聞かれたことがあると思います。そして、他人を思いやったり、社会や人類の進歩に貢献したり、自分の信念を貫く人物に共感して自分もああなりたい、とか思ったのではないでしょうか?     

  でも、大人になってわかるのは、自分の信念だけで行動しても、他人や家族に迷惑かけたり、こっちの人のためにやったことが、あっちの人の迷惑になったり、、結局は利害調整に終始してしまったり、、で、自分の中では、なんとなく最近、「尊敬」っていう言葉が死語になりつつあったんですが、久々に「尊敬」できる人物に巡り合えた感じです。ウィンストン・チャーチルです。(本書は、政治家チャーチルをチャーチルたらしめる要素、つまり本書タイトルにもなっている「チャーチル・ファクター」について書かれています。著者は元ロンドン市長、ボリス・ジョンソン氏。)

  1940年5月28日、イギリス議会では、一つの問いが提出されました。それは、「(イタリア大使館からの打診で)イタリアを仲介者としてイギリスがドイツとの調停を求めるべきか?」というものでした。要するに「イギリスはドイツと戦うべきか?それともドイツとの宥和政策を取るべきか?」ということなのです。

   当時の欧州は、ナチスドイツの支配が広がりつつある状況で、イギリスの置かれている立場は圧倒的に不利なものでした。オーストリアはすでにドイツの占領下にあり、チェコスロバキアはすでに存在せず、ポーランドは粉砕され、ノルウェー、デンマークもドイツに占領され、さらにオランダ、ベルギー王国、フランスも降伏した状況で、孤立無援の状況でした。さらに、この時、フランス北部海岸ダンケルクでも、イギリス軍が孤立無援。いつくるかわからない救援を待っている状態で、いつドイツ軍から攻撃されてもおかしくない状況だったのです。(確か昨年、当時の状況を描いた映画「ダンケルク」が公開されました。)

  そんな状況にあった当時のイギリス議会にあっては、「ドイツとの宥和やむなし。」という声が多かったのです。確かに当時のイギリスでは、現在我々が知り得ている人種差別政策などを含めたナチスドイツの政治体質の残忍性を知りえなかった人々が大勢いたかもしれません。

  しかし、その当時にあってもヒトラーの言動から、ナチスヒトラー政権の恐怖政治の萌芽を予感していた人はいたのです。(実際にナチスは1930年代にすでに特定の人種の迫害活動を始めていた。)チャーチルはその一人でした。彼は直観的にヒトラーの残忍性を理解していたのです。そして、議会において対独宥和政策を一蹴し、断固戦う姿勢を示し、「海岸で、丘で、上陸地でドイツ軍を迎え撃て!」と演説したのです。

  彼は、この対独交渉の拒絶によって、イギリスでも多くの戦死者が出ることを覚悟しましたが、「降伏はさらに悪い結果をもたらすだろう。」と考えたのです。当時のナチスは、主敵となりつつあったイギリスを屈服させるために、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)を計画していて、イギリスがドイツの(一種の)同盟国になって、ナチスドイツの政策拡大に加担する不名誉を負うか(宥和政策)? または、ナチスと戦うことで人戦死者がでるか(交渉拒絶)? いずれの結果によってもイギリスがまったく傷を負わない、という選択肢はなかったのですが、歴史はその時のチャーチルの判断が正しかったことを証明しています。

     本書でも指摘されていることですが、もし、仮にチャーチルが対独宥和政策や、それに準ずる「取引」に応じていた場合、もしくは、イギリスがドイツに抵抗していなかった場合、「アメリカは欧州の戦争には決して参加しなかっただろう」。そして、「欧州大陸は解放されず、ゲシュタポが支配するナチス版EUにより、ゲットーがつくられ、ユダヤ人、ジプシー、同性愛者、精神及び身体障害者は殺害され、(ナチスは)想像を絶するような非人道的な人体実験を繰り広げていただろう。。。そして、イギリスは 地獄のような(ナチス版EUの)暗い従属国家となっていただろう。。」

  そんな歴史的な大英断をなしえた政治家チャーチルですが、子供の頃は名門貴族家出身でありながら厳格な父親の下で育ったせいか、吃音症があり、学校での成績も良くなかったのです。 また、背も普通のイギリス人に比べ高かったわけではないので、(一説によると約170cm)劣等感にさいなまれていたのです。

  また、議員在籍当時は、たびたび差別発言を行なったり、所属政党を変えたり一般の常識人から見てその枠から外れた行動をすることが少なくなかったですし、「歴史的失敗」といわれる失政もいくつかあったのも事実です。

  一方で、多読家のチャーチルは、自宅のチャートウェル邸に6万冊の蔵書を保管する図書館を持ち、生涯で31冊もの本を書きました。20代で戦地に赴き原稿料を稼ぎ始め、徐々に文才を発揮し、後年ノーベル文学賞を受賞しました。その文才から、自らの演説原稿の推敲も行い、それが稀に見る演説家としての才能の開花にもつながっていきました。ちなみに、「サミット」「鉄のカーテン」「中東」という今では政治用語として使われる言葉を生みだしたのもチャーチルです。

     チャーチルはまた、第一次世界大戦で凄惨極まりない塹壕戦による兵士の徒死を反省し、「いかなる障害物、溝、胸壁、塹壕も乗り越える能力を持った新しい種類の乗り物」を提案し、それは何度かの紆余曲折を経て、技術的ブレークスルーである兵器、「戦車」の開発へつながるのです。

  また、(イギリスは少数の貴族が国の富の大部分を所有していた国ですが、)自分が属する貴族社会という「一握りの人間世界」が「かくも多くを、、かくも多数の犠牲に得ていた」と実感し、労働者の立場改善にも尽力したのです。(ちなみに世界四大会計事務所、プライスウォーターハウスクーパースが2013年に行った「世界の企業経営者が最も尊敬するリーダーランキング」において、チャーチルが第1位に選出されています。)