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ZIPANG-9 TOKIO 2020青もみじの美しい世界文化遺産 総本山醍醐寺では今夏「涼」をテーマに~滝の音や木漏れ日のきれいな、夏の暑さを忘れられるプランを実施!~

2024.05.31 16:05


令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


山内の「無量寿苑」は夏でも涼しいクールスポット。霊宝館の門内


山内の「無量寿苑(むりょうじゅえん)」は夏でも涼しいクールスポット。霊宝館の門内「フレンチカフェ スゥ ル スリジェ」の朝食と涼しい早朝ガイド付き拝観がついた初めての実施となるプランや、三宝院憲深林苑では初のホタル観賞会、幻想的な雰囲気の「醍醐寺万灯会」などをご提供いたします。



■プラン概要

【醍醐寺おすすめのクールスポット「無量寿苑」】

約8,700平方メートルの苑内には、350本のモミジを筆頭にイチョウやドウダンツツジなど秋に色づく樹木があり、新緑の時期は地面を這う苔庭と相まって美しい空間を演出しています。

今夏「涼」をテーマに『無量寿苑』をクールスポットとして、ベンチやドリンクコーナーを設置。

~滝の音や木漏れ日のきれいな夏~暑さを忘れられるひとときをお過ごしください。


開催期間:2024年6月1日(土)~9月30日(月)


無量寿苑


無量寿苑


無量寿苑


無量寿苑


弁天堂


【「フレンチカフェ スゥ ル スリジェ」の朝食と案内付き三宝院早朝拝観プラン】

開門前の三宝院をガイドの案内付きで拝観していただきます。


フレンチカフェ スゥ ル スリジェ外観


フレンチカフェ スゥ ル スリジェ内観(ゆったりできる奥側の席)


フレンチカフェ スゥ ル スリジェ内観(明るい陽射しと庭の見える窓側の席)


境内のフレンチカフェ スゥ ル スリジェの朝食(イメージ)


朝食は「フレンチカフェ スゥ ル スリジェ」でご用意しております。

開催日時:2024年6月~9月の土日及び祇園祭の時期に開催(ホームページに掲載)

     8:00 朝食(フレンチカフェ スゥ ル スリジェ)

     8:30 三宝院早朝拝観

料金  :お一人4,000円


【醍醐寺 ホタル観賞会】

醍醐寺三宝院にあるお庭「憲深林苑」でホタルを放流します。

憲深林苑では和束町提供のお茶接待やハープの演奏もございます。

開催日時:2024年6月22日(土) 19:00頃~20:00(受付 18:30~19:30)

     ※日没よる19時頃にホタルを放流します。

参加費 :小学生以下無料 

     中・高校生 100円、大人 300円

申込  :不要(当日受付のみ)


【醍醐寺万灯会】

各家のご先祖と精霊(しょうりょう)を供養し、命の尊さに心を寄せるため、毎年8月5日に醍醐寺で営まれるのが「醍醐寺万灯会」です。


多くの置き灯篭や提灯が参道を照らす中で、法要やご供養が行われます。
国宝の金堂や五重塔も灯りによって浮かび上がり、境内は幻想的な雰囲気に包まれます。


開催日時:2024年8月5日(月) 18:00~20:30

     18:00~ 法要 金堂にて

     19:00~ 施餓鬼塔婆供養 金堂前にて

拝観料 :無料

※ご供養をお申込みの方にはおそうめんの接待がございます。


三宝院の庭園を眺める


純浄観から見る三宝院の庭園
幾年月どれだけの人がこの庭を眺めたことであろうか…日本の歴史と共に歩む庭よ・・・


■醍醐寺拝観概要

拝観料      :2ヶ所共通券…三宝院庭園・伽藍

          大人1,000円(中学・高校生700円)

          団体20名以上 大人800円(中学高校生600円)

三宝院御殿特別拝観:大人・中高生500円

霊宝館庭園・仏像棟:無料(※2024年6月29日(土)~7月13日(土)休館)

<期間中の法要・行事>

2024年6月15日(土) 弘法大師降誕会

2024年6月22日(土) ホタル観賞会

2024年8月5日(月)  万灯会法要

2024年9月中旬   秋季彼岸会法要


■世界文化遺産 総本山醍醐寺について

今年で開創1150年を迎える醍醐寺は、平安時代より花の醍醐と言われた桜の名所です。
慶長3年(1598)の春、豊臣秀吉は花見に際して畿内から境内に700本の桜を植え、三宝院の庭園を設計し盛大な宴を開きました。息子・秀頼や正室・北政所(きたのまんどころ)、側室の淀、三の丸など女房衆1300人余りが参加したといわれています。この故事にならって、毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」が開催され、終日境内は賑わいます。


「合おひ乃松毛としふり佐くら咲 花を深雪能山農のと気佐」 可い


三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。その建造物の大半が重要文化財に指定されており、中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。

国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。

(画像をクリックすると拡大できます。)


【寺院概要】

名称 : 総本山醍醐寺
所在地: 〒601-1325 京都市伏見区醍醐東大路町22
電話  : 075-571-0002


【アクセス】

・地下鉄東西線「醍醐駅」下車 2番出口より徒歩10分
・京阪バス22/22A系統「醍醐寺前」、301系統「醍醐寺」下車すぐ



総本山醍醐寺

歴史・縁起


総本山醍醐寺 五重塔周辺


総本山醍醐寺200万坪におよぶ広大な境内地にそびえる国宝五重塔は、静かに1,100年以上の時の流れを語り伝えています。


京都御所の東南、東山を越えると山科盆地がひろがり、この地は古くから大和・宇治・近江を経て遠く北陸に到る幹線道路があり、平安京の東南近郊の一地区として注目されて来た場所です。醍醐寺は、この盆地の東側、笠取の山頂にかけての広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称しています。


平安時代の初期、聖宝理源大師は、自刻の准胝・如意輪両観世音菩薩を開眼供養し、醍醐寺開創の第一歩を上醍醐に標し、以来、醍醐天皇、穏子皇后の帰依のもと、上醍醐に薬師堂を建立、薬師三尊を奉安、鎮護国家のために五大堂を建て、五大明王を奉られました。


醍醐寺縁起は醍醐寺開創について、『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。


谷間をご覧になると、一人の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人にこの地に寺院建立をしたいと声をかけられました。
老人は、「ここは、諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」とおっしゃられ、姿を消されました。』と伝えています。この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。


さらに下醍醐に釈迦堂を建立し、山上・山下にわたる壮大な寺院計画がなされました。醍醐天皇の願いは、朱雀天皇・村上天皇に受け継がれ法華三昧堂・五重大塔が建立され一山の尊容が整いました。


平安時代末には、白河上皇・源氏の帰依と共に多くの堂宇が建立され広大なる一山の整備がなされ、鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教芸術を生み出しました。


南北朝には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊座主、足利義満将軍率いる室町幕府において黒衣の宰相と言われ重んじられた満済准后、桃山時代の義演准后は、秀吉の帰依のもと「醍醐の花見」をもって一山を中興、江戸時代の高演座主は、修験道(山伏)3千名を伴い二度にわたる大峯山入峰をなし、修験道興隆を計る等々、歴代磧徳を迎え寺は護られて来ました。


しかし、近代、明治の廃仏毀釈、昭和の農地解放の悲風は容赦なく山内を吹き荒れ、寺領は返還し寺の護持基盤が大きく揺れるなか、歴代相承の什宝は、あたかも浄水を一滴ももらさず器から器へと移すがごとく伝承されました。


今日、一山は永世護持のため全山「史跡」に指定され、さらに平成6年12月には「世界文化遺産」に登録されました。まさに世界的な「木の文化」「紙の文化」の宝庫と認識するとき、着々と伝承される法流血脈のもと祈り続けられる信仰の尊さを思わずにはいられません。


現在、醍醐寺は、総床面積1千坪の霊宝館に於いて、国宝6棟、重文10棟を含む92棟の建造物及び信仰対象の諸尊像を除く一切の文化財を管理保管しています。


                                  総本山醍醐寺



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

総本山醍醐寺

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


国宝・唐門と桜


■世界文化遺産 醍醐寺について

今年で開創1150年を迎える醍醐寺は、平安時代より花の醍醐と言われた桜の名所です。

慶長3年(1598)の春、豊臣秀吉は花見に際して畿内から境内に700本の桜を植え、三宝院の庭園を設計し盛大な宴を開きました。息子・秀頼や正室・北政所(きたのまんどころ)、側室の淀、三の丸など女房衆1,300人余りが参加したといわれています。この故事にならって、毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」が開催され、終日境内は賑わいます。


三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。その建造物の大半が重要文化財に指定されており、中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。


国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-8 TOKIO 2020太閤 豊臣秀吉が日本史上最も豪華な花見を催した京都・総本山醍醐寺は、4月15日(月)まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として特別法要と様々な特別拝観開催!
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/52343387/



文化財及び宝物

善徳寺 虫干法会 Mushiboshi Ceremony 7.22〜28


善徳寺 虫干法会 茶道具


毎年7月下旬に開催される「虫干法会(むしぼしほうえ)」では宗祖・親鸞聖人直筆の「唯信鈔断簡」をはじめ、什宝物・法宝物・古文書など、約1万点の寺宝の中から約500点を1週間にわたって一般公開している。また、善徳寺は「民藝運動」の創始者・柳宗悦が62日間滞在した「民藝の聖地」でもあり、棟方志功や浜田庄司、河井寛次郎など民藝作家の作品も多数保有している。柳が滞在した「お広敷の間」でそれらを展示公開している。


展示のほか、蓮如上人の一生を解説する絵解き、善徳寺特製の名物・さばずしを味わうこともできる。


城端別院 善徳寺

歴史

城端別院は真宗大谷派の寺院で寺号を善德寺、山号を廓龍山と号す。
蓮如上人が吉崎に於いて精力的な布教をされていた頃、本願寺第五代綽如上人の孫である蓮真は蓮如上人の願いにより現在の石川県と富山県の県境にある砂子坂に文明年間(1470年頃)に一寺を建立し、蓮如上人を開基、自身を第2世とした。


その後、布教活動とともに寺所を移転し、第5世祐勝の時代に現在の城端町に移転してきた。

第6世空勝は本願寺と織田信長との石山合戦に参戦し、あくまで本願寺を死守しようとする教如上人(東派1代目)に協力し尽力を尽くした。この事が後の東西分派で善德寺が東派になる事や、江戸時代に於いて越中東方の最有力寺院としての地位や役割を果たす事になった。


また江戸時代には加賀藩前田家の庇護のもと、越中の触頭役(頭寺)を勤め隆盛し、時には加賀藩主の子を住職として迎えることもあった。

以来、聞法の場として地域の方々に慕われ支えられて今日に至っている。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-8 TOKIO 2020 ~日本の誇る~見るべき文化財 及び宝物【城端別院 善徳寺】
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/52359811



鶴林寺(かくりんじ)


希望者による火渡りの様子


時代

平安時代後期 、天永3(1112)年

構造及び形式等

桁行三間、梁間三間、正面一間通り庇付、一重、宝形造、庇葺きおろし、檜皮葺

所有者及び所在地

鶴林寺/加古川町北在家424番地

指定年月日

明治34(1901)年3月27日 国指定

解説

本尊:釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 四天王

兵庫県下最古の建築で、聖徳太子ご創建の聖霊院(しょうりょういん)の後身として太子堂とよばれているが、本来は西方にある常行堂と対をなす天台宗最古の法華堂である。

桧皮葺き(ひわだぶき)の美しい屋根に宝珠がのせてあり、内部は正面に礼堂があり奥が3間4面の内陣になっている。

天井は小組格天井(こぐみごうてんじょう)とよばれるぜいたくな天井である。

須弥壇(しゅみだん)後方の板壁には、表に九品来迎図(くぼんらいごうず)、裏面には涅槃図(ねはんず)、天井小壁には飛天図、その他長押し上の小壁、四天柱などからも創建当時の壁画が、昭和51年に赤外線写真によって発見された。しかし今なおススにおおわれ肉眼では見ることができない。(鶴林寺太子堂説明板より)


兵庫県加古川市は、大阪や神戸への交通アクセスがよく、ベッドタウンとしても発展してきました。一方で数多くの古墳や古刹が残されており、聖徳太子ゆかりの地として、歴史深いまちとしても知られています。


なかでも589年、聖徳太子が16歳のとき、仏教を広めるための道場として建立されたと言われる『鶴林寺(かくりんじ)』には、平安・室町時代の国宝・重要文化財の建築物や仏像、工芸品が数多く残されています。


深い歴史を誇る鶴林寺の最大行事である、『聖徳太子会式(通称「お太子さん」)』が、聖徳太子の御命日法要(中日)を中心とした3日間にわたり開催されます。本年は、3月19日に春彼岸法要、20日は聖徳太子報恩法要があり、21日は大般若経転読法要の後、14時から大護摩が焚かれ、火渡りが行われました。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


~法要後には珍しい「火渡り」も体験~

ZIPANG-7 TOKIO 2020 聖徳太子ゆかりの寺院 鶴林寺 最大の行事 聖徳太子会式(通称「お太子さん」)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/42374671/



大分県豊後高田市『富貴寺大堂』と山形県白鷹町『深山観音堂』の
建築にみる東西文化の違いとは!


山形に腰を下ろして25年になりますが、 この間、当初から折に触れては列島東西文化の違いに遭遇する羽目となりました。


当初は軽いカルチャーショック程度でしたが、段々とその故事来歴を知るにつけ、縄文、
弥生に遡る日本人ルーツ論に及ぶ話となり、基底に横たわる複雑怪奇な複合要因に興味津津となって今日に至ります。


             大分県豊後高田市『富貴寺大堂』


            山形県白鷹町『深山観音堂(観音寺)』



さて、本サイトを拝見し、先ず目に飛び込んできたのは何と言っても、
国宝である「富貴寺大堂」の屋根の形でした。美しい〜‼ 完璧ですね〜 そして、
すぐさま連想したのは山形県白鷹町にある奥まった地区にひっそりと佇む深山観音堂
(観音寺)のこと。


それはやはり国の重要文化財で、同じ方形造り(ほうぎょうづくり)のお堂でしたから。


宗教とは当然のことながら、その宗教が説く最高理念=神又は仏への信仰、そして神、仏と人とを結びつける媒体が神像、仏像、そしてそれを祀り保護する装置が神殿又は仏殿だと思います。


ここでいう、信仰とは不可視の対象としてソフト、また、後者の媒体や装置は目に見える対象としてハードの部分と考え、それらがそれぞれの地域に長く根付いてこそ、この二つの融合体は住民に受容された完成形の証ではないかと思うのです。


もう少し細かく言えば、宗教とはその宗派の主祭神、根本理念、教条、導師、信者、祭祀殿堂が揃わねば成り立ちません。しかし、深い信仰心に裏付けられた本物の信者にとっては、信仰心こそが求道の真髄なので、これをソフト面として捉えれば他の何をも必要としない訳です。


しかし、 他方、ハード面としての宗教施設の役割は、その主祭神仏を祀る祭殿であり、布教活動の本拠地であることです。同時に不可視の主祭神仏像に対して、信者が祈りを捧げる為の場です。


それには可視化された対象としての神像、仏像を造り、それを取り巻く背景としての装置や装飾効果で聖なる空間を演出しなければなりません。特に初心入門者にとっては不可欠な場所になります。


信者は一時的に、日常から切り離され、異次元の世界で神仏に、直接対峙できる場所だとも言えるでしょう。


信仰期間の長短に拘わらず、導師によって教えを学び、或いは信仰心を高める自己修練の場であり、同じ信仰心を持つ仲間同士の交流の場、そして信者の心の拠り処となる場とも言えるでしょう。


さて、素人の観た東西の宗教建築にみる 印象の話に戻ります。つまり、ハード面としての宗教建築とは、その宗教が目指す理念をシンボライズした究極の可視的表現でありましょう。


では、他国で生まれた宗教の根本理念を自国へ受け入れる時、発祥地の様式をそっくり真似たら如何なものか?と思いますが、なかなかそうはなっていませんね〜。何故でしょうか? その建築的表現は、それを招請した国々の風土環境、歴史文化、財政面、技術面等による諸事情が優先するからでしょうか? では、先程の東西の方形造りの御堂について特長を見てみましょう。


先ずは、西の横綱国宝 豊後高田市の 富貴寺大堂の瓦葺屋根 言うなれば、 近づき難い荘厳の美。 天空に向かう緩やかな外向き曲線の反り対するは東の横綱国宝 山形県白鷹町の 深山観音堂(観音寺)屋根の造り 言うなれば、 近づきたくなる慈恩の美 重厚な茅葺きの温もり、やや内向カーブの屋根傾斜 


 さて、東西比較の元になっているのはやはり、地理的な風土環境とその地域に育まれた人々の奉ずる神仏の在り方が主要因になっている点にありましょう。


そのように考えますと、西日本と東日本での気候風土は大いに異なりますが、数字上の歴史経過は公平に旧石器、新石器時代から縄文、弥生、古墳時代・・・と踏んで今日に至るのですが、古代東北地方に住んだ縄文人の信仰対象は木火土金水、森羅万象全てに神が宿ると考え、所謂アニミズムとされる多神教でした。それこそが日本の八百万神信仰の原点となっています。


しかし、人々の生活様式でみると、大きな転換期は縄文ー弥生時代に始まります。先ずは隣国の中国や韓国、台湾等の国々から最短距離の九州地方に輸入文化が到来しました。


つまり、真っ先に稲作文化を受け入れた九州地方が入口となり、またたく間に温暖な西日本全体に広がり、弥生文化の主勢力圏として発展しました。


その背景には必ず人の命を守る一番の存在が信仰の対象になります。自ずとそれに伴って、神々の存在や信仰形態も影響を受け、縄文の万物に神々が宿るアニミズムは、稲作に関係する神を最高神として神格の序列化も始まったのではないでしようか?


とすれば、西日本から始まる神々の格付けは寺社建築にも及びます。重厚壮大な規模と財力、手の混んだ装飾技術等がそれを表すものです。それは、神格が上がるほど天高く仰ぎ見る尊い存在になるのです。人々はその御神殿の威厳に畏れかしこみ敬う対象と感じるようになります。


つまり、西日本の寺社建築はそうした仰ぎ見る神仏の宿られる御殿ですから、それが屋根の反りのラインに表れています。


それに対して落葉広葉樹林帯に属する東日本は、縄文時代の特徴である自然の恵みが豊かで狩猟採集の生活様式が適していた為か、稲作の受入れは200年位遅かったようです。


すなわち、万物に神々が宿るとするアニミズム的信仰形態が、いまなお、遺伝子として働いているように思えるのです。


現代でも春には山菜採り、秋にはきのこ刈りに夢中になる人々を見ていると実に微笑ましく、いつの間にか縄文の世界に引き込まれるようです。


野仏や祠(ほこら)等が圧倒的に多い東北地方は、そうした自然の恵みに対して、それぞれの神様に出逢うのです。水の湧きいづる土地では水神様を、厳寒の土地では囲炉裏や竈の神様、狩りや木樵を守り、山菜獲りなどお山の恵みには山神様……そして皆、平等にお偉いのです。


と言うように身近に神仏が影のように付き添って下さる有り難い存在で、道端の野仏には寒くなれば、手編みの帽子や肩掛けを被せたり、お願い事を至近距離で唱えるなど、その心理的距離は広島出身の私がびっくりするほど近いのです。


結果、白鷹町の深山観音堂のふっくら屋根は暖かそうで、優しく見えるのは茅葺き素材だけのせいではないと思います。


それ故に此処に挙げたその一例となる同じ方形型御堂の画像を見て、つい無手勝流義で東西比較をしてみたくなった私でした。

                              日原もとこ [補足資料]


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「豊後高田市『富貴寺大堂』と山形県白鷹町『深山観音堂』の建築にみる東西文化の違いとは! 【寄稿文】まんだら塾長 日原もとこ」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3097791



※現在、2300件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/