青森ねぶた
http://takenami-nebuken.com/gallery/2012.html 【JRねぶた実行プロジェクト】より
東北の雄 阿弖流為あてるい
「東北の雄 阿弖流為」原画
平安時代初期。黄金を求める大和朝廷の度重なる蝦夷侵攻に、人間の誇りをかけて戦い続けた蝦夷の首領 阿弖流為。 戦いの度に朝廷軍を大敗させてきたが、廷暦二一年(802年)、 北上してきた征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城(岩手県)を造営し始めると、 これと戦うことなく、同志の母礼と共に一族を率いて投降した。 人心の懐柔や、仏教文化の伝播に努めた田村麻呂との間に堅い絆があり、阿弖流為は身を捨てて平和を選択したのである。 上京後、田村麻呂の懸命の助命嘆願もむなしく、ふたりは斬刑に処せられた。 誇りをかけて守り続けた東北の雄 阿弖流為。北方の守護神毘沙門天の御加護を得、鬼神をしたがえ奮戦するその勇姿に、東日本の復興と、この国の安寧を切に祈るものである。
マルハニチロ侫武多会「金剛力士破邪」
「金剛力士破邪」原画
金剛力士とは、古代インドのバラモン教の神々が、密教に取り入れられ、仏法の守護神である護法善神となった天部の諸尊(他に帝釈天・毘沙門天など)の一つで、一般に仁王の名で親しまれている。開口の阿形像と口を結んだ吽形像の二体を一対として、寺院の表門の左右に安置することが多い。阿吽は仏教の真言の一つで、阿は口を開いての最初の音、吽は最後であることから、宇宙の始まりと終わりを表わす言葉とされている。上半身裸形で、筋骨隆々とし、憤怒の相で外敵を威嚇する。邪鬼を懲らしめ、あらゆる災いを振り払う阿形金剛力士。大きく口を開き、復興の始まりを叫ぶその英姿に、東日本の再生と、この国の安寧を切に祈るものである。
青森菱友会「羅漢」
「羅漢」原画
羅漢とは阿羅漢の略称で、一切の煩悩を断ち、修行を完成させた佛弟子の最高の聖者のことである。昨年、幕末の絵師・狩野一信 筆、東京 芝・増上寺秘蔵の五百羅漢図百幅が初公開され大きな話題となった。また、本県弘前市、太平山長勝寺蒼龍窟には津軽藩縁の五百羅漢像が安置されている。巨大地震、台風や大洪水など天変地異による大災害に喘ぎ、苦しむ時、禽獣と共に神通力を振るい人々の難儀を救う羅漢達。一たび念ずれば、鉢からは泉のように水が湧き出し、また手にした香炉の煙は赤々とした灯火となって世を照らす。羅漢の神通力に、東日本の復興と、この国の安寧を切に祈るものである。
https://aterui8.jp/history/info/aterui_info187.html 【情報176 青森ねぶたに阿弖流為】より
青森のねぶた祭りに「阿弖流為」のねぶたが登場した。千葉作龍作の「北の炎・阿弖流為」で、サンロード青森の製作。何年か前には「悪路王」のねぶたがあったと思うが、アテルイは初めての出陣。平成16年8月2日の『読売新聞』一面の「編集手帳」がそのことを取り上げている。全文を紹介する。
青森市出身の版画家棟方志功が「世界一の火祭り」と評した青森ねぶた祭が今日から始まる。歴史や神話を題材にした人形型の大灯ろうに明かりをともし、市内を練り歩く。
◆太鼓や笛の勇壮な囃子に合わせ、何万人ものハネト(踊り手)がラッセラーと叫んで飛びはねる。浴衣とたすきのハネト衣装で踊っていた作家の中上健次さんに感想を聞いたのは二十年近く前のねぶた祭の夜だった。
◆「自由で単純で開放的で。これは縄文の祭りに違いない」。出身地の和歌山県新宮市の御燈祭に通い合うところがあるとも語っていた。今年は、その縄文文化を継承した東北の原住民である蝦夷の一首長、阿弖流為を描いたねぶたが登場する。
◆胆沢地方(現在の岩手県水沢市)を本拠地とした阿弖流為は、大和朝廷の北進に激しく抵抗したが、八0二年、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏、処刑される。水沢市出身の衆院議員の小沢一郎さんは演説で時折この故事に触れ、「被支配者から見れば歴史は一変する」と説く。
◆阿弖流為は今も東北人の誇りなのだろう。ねぶたは、田村麻呂が蝦夷征伐の際に用いた戦術だったという説がある。今回は、この敵将にちなんだねぶたも運行される。東北人は懐が深い。
◆千二百年の時を超えて両雄相まみえ、漆黒の空を焦がす。縄文の鼓動が響いてきそうだ。
https://www.aogyorui.co.jp/exhibition/%E5%B9%B3%E6%88%90%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4-%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E7%A0%B4%E9%82%AA/
【金剛力士破邪(こんごうりきしはじゃ)】より
金剛力士(こんごうりきし)とは、古代インドのバラモン教の神々が、密教に取り入れられ、仏法の守護神である護法善神となった天部の諸尊(他に帝釈天(たいしゃくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)など)の一つで、一般に仁王(におう)の名で親しまれている。
開口の阿形像(あぎょうぞう)と口を結んだ吽形像(うんぎょうぞう)の二体を一対として、寺院の表門の左右に安置することが多い。
阿吽(あうん)は仏教の真言の一つで、阿(あ)は口を開いての最初の音、吽(うん)は最後であることから、宇宙の始まりと終わりを表わす言葉とされている。
上半身裸形で、筋骨隆々とし、憤怒の相で外敵を威嚇する。邪気を懲らしめ、あらゆる災いを振り払う阿形金剛力士。大きく口を開らき、復興の始まりを叫ぶその英姿に、東日本の再生と、この国の安寧を切に祈るものである。
https://www.fben.jp/bookcolumn/2014/03/post_3903.php 【阿弖流為(あてるい)
日本史(平安時代)】より
著者 樋口 知志 、 出版 ミネルヴァ書房
ときは平安時代。桓武天皇の治世、東北地方で国家統一に「反逆」した人々がいた。その首領の名は、「あてるい」(阿弖流為)。私は『火怨』(かえん。高橋克彦、講談社。1997年刊。上下2巻)を読んで、すっかりアテルイびいきになってしまったのでした。その後、『蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い』(久慈力、批評社)という本も読みました。そこでは、アテルイは横暴な大和朝廷の軍隊に雄々しく戦い続ける英雄として、その姿が生き生きと描かれているのです。
ところが、この本では、実はアテルイの真実の姿は平和を愛する男だったというのです。ええーっ、そうなの・・・と思いました。何ごとも、一面的に見てはいけないということです。
アテルイは、国家との戦争のない平和な時期に生まれ、育ち、結婚し、子どもをもった年代まで大きな戦乱のない時代に生きていた。
アテルイは、胆沢(いざわ)平野に根をはる農耕民系の蝦夷族長だった。アテルイは決して戦闘を専業とする人ではなかった。
桓武天皇は、征夷と造都を二大事業とした。奈良時代に皇統の本流をなしていた天武嫡系の血統とは無関係の自分が天皇になったことから、それは天命が自分に降下したものと解し、自らを新王朝の創始者に擬し、前例に執着せず、独自の政治路線を邁進していった。桓武天皇の意識の裏側には、自分の出自が傍流で、しかも生母が朝鮮半島出身の卑母(高野新笠)の所生子であるという強いコンプレックスがあった。
アテルイは、自らの率いる軍隊とともに10年以上にわたって大和朝廷の軍隊と粘り強く戦い続けた。しかし、延歴21年(802年)、アルテイは500余人の軍兵とともに坂上田村麻呂に投降した。そして、平安京に連行されていった。坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく、アテルイは桓武天皇の命令で処刑された。ところが、アテルイが処刑されたあと、東北地方では反乱は起きなかった。それは、アテルイが上京する前に、もしも故郷に生きて帰ることができなくても、決して反乱を起こさないように、あらかじめ蝦夷社会の人々に対して言葉を尽くして説得していたから。
アテルイは、それまでの忍耐強い努力の積み重ねによって、ようやく手に入れた和平のための好条件が、決して水泡に帰すことのないようにひたすら願っていた。
このようなアテルイの強い意思を深く察した蝦夷社会の人々は、その約束を守り、アテルイの刑死という悲しい現実に直面しても、決して未来への希望を捨てることなく、辛抱強く耐えたのだろう。
アテルイたちは、このようにして、死して蝦夷社会の人々にますます畏敬され、誇りとして、かけがえのない存在となった。
なるほど、この本で展開されているアテルイに対する新鮮なとらえ方には、大いに共鳴できるものがありました。