③ 東北の蝦夷(えみし)と被差別部落
https://news-hunter.org/?p=12064 【蝦夷(えみし)はアイヌか和人か|東北の蝦夷と被差別部落(その5)】より
古代の東北に住み、畿内の朝廷勢力と「38年戦争」を繰り広げた蝦夷(えみし)とはどういう人たちだったのか。
7世紀半ば、斉明天皇の時代に遣唐使が男女2人の蝦夷を連れて海を渡り、唐の皇帝に謁見したことが日中双方の文献に記されている。わざわざ蝦夷を連れていったのは「わが国にも朝廷に貢ぎ物をする異民族がいる」ということを示すためだったと考えられる。同行した蝦夷は、人の頭に載せたひょうたんを弓矢で次々に射抜いて皇帝を驚かせたという。
蝦夷は日本語とは異なる言葉を話していた。畿内勢力はそれを「夷語(いご)」と呼び、蝦夷との交渉には通訳を必要とした。史書はその通訳のことを「訳語(おさ)」と記している。彼らが「辺境の日本人」だったとしたら、通訳を必要とするはずがない(方言の使い手に官職名を付けたりしない)。
一方で、言語学者の金田一京助やアイヌ語地名研究者の山田秀三は、東北にはアイヌ語を語源とする地名がたくさん残っていることを実証的に明らかにした。東北に残るアイヌ語源と考えられる地名の分布(図1)は、8世紀時点での大和政権の東北進出状況(図2)と強い相関関係を示している。
こうしたことを考えれば、古代東北の蝦夷は「アイヌ系の人たちだった」と考えるのが自然であり、私も「蝦夷=アイヌ説」を前提にして書いてきた。
ところが、「蝦夷はアイヌ系の人たちではなく、われわれの祖先と同じ日本人である」と唱える研究者が少なくない。「蝦夷とは朝廷の支配が及ばない辺境で暮らし、服属しなかった人たちである」というもので、「蝦夷=辺民説」と呼ばれる。「蝦夷=日本人説」あるいは「蝦夷=和人説」と言い換えてもいい。
彼らがその論拠とするのは「戦後、東北各地の発掘調査で得られた考古学の知見」である。たとえば、岩手県水沢市の常盤遺跡から籾(もみ)の痕が付いた弥生土器が発見された。青森県南津軽郡の垂柳(たれやなぎ)遺跡からは弥生時代の水田跡も見つかった。いずれも当時、水田稲作が行われていたことを示している。蝦夷は狩猟採集の生活をしていたはずで、アイヌ系と考えると説明がつかない、というわけだ。
古墳の存在も「蝦夷=日本人説」を後押しした。岩手県の胆沢(いさわ)町(水沢市などと共に奥州市に統合)に角塚(つのづか)古墳という前方後円墳がある(下の写真)。前方後円墳としては日本最北にあり、国の史跡になっている。
この古墳の存在は古くから知られており、幕末から明治にかけての探検家、松浦武四郎の図録『撥雲(はつうん)余興』第2集にも出てくるが、戦後の数次の発掘調査によってその詳細が明らかになった。
全長45メートル、後円部の直径28メートル、高さ4メートル余りの小ぶりの古墳だが、大和朝廷の支配地域で盛んに造られた前方後円墳であることは間違いない。出土した埴輪などから5世紀後半の築造であることも判明した。
岩手県の胆沢と言えば、奈良時代の後期から平安時代の初めにかけて朝廷側と戦った蝦夷の指導者、アテルイ(阿弖流為)の根拠地である。そこに300年も前に前方後円墳が造られていた。蝦夷=アイヌ説では説明しがたいことである。
こうした考古学上の発掘成果も踏まえて、岩手大学の教授、樋口知志は著書『阿弖流為』(2013年)で、古代東北の蝦夷について「現在ではほぼ学界の共有財産となる標準的な見解が成立しており、(中略)概ね彼らは私たち現代日本人の祖先のうちの一群であったことが明らかである」と記している。
歯切れのいい、思い切った表現だが、私に言わせれば「とんでもない決めつけ」であり、「牽強付会の極み」である。
東北北部から弥生時代に水田稲作が行われていたことを示す遺跡が見つかることは、蝦夷=アイヌ説に立っても説明できないことではない。「蝦夷はすべて狩猟採集の生活をしていた」という前提自体が間違っている可能性があるからである。
日本人との接触が多かった蝦夷の中には、早い段階で水田稲作の技法を学び、それを採り入れた集団があってもおかしくはない。「蝦夷にも様々な集団があり、早くから稲作をしていた集団もあれば、もっぱら狩猟採集をしていた集団もあった」と考えれば、矛盾はしない。
角塚古墳にしても、5世紀ごろには胆沢の蝦夷集団は大和政権と良好な関係にあり、大和側の了解を得て前方後円墳を造った可能性がある。この古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土しており、被葬者は蝦夷の族長と考えられるからだ。
そもそも、考古学の成果を言うなら、東北の北部からは北海道で発見されたのと同型の古い土器も見つかっている。北海道のアイヌ系の人たちと文化的につながっていたことを示す証拠がたくさんある。「蝦夷=アイヌ説」は今なお、有力な説と言っていい。
だからこそ、2012年版の『日本史事典』(朝倉書店)は、「蝦夷と隼人」について次のように記しているのだ。
「蝦夷は『同じ日本人』の辺民への政治的設定とされてきたが、アイヌ民族の祖型と共通する文化をもつ独自の社会と見る説が近年再興し、日本民族形成史に問題を提起(している)」
古代東北の蝦夷については江戸時代から明治、大正、昭和とアイヌ説が強く唱えられ、戦後、日本人説を唱える研究者が増えた。だが、最近になって再びアイヌ説が盛り返している――というのが古代史学界の現状だろう。要するに、いまだに決着がつかない、ホットな問題なのである。
一連の論争を見ていて気づくのは、蝦夷=日本人説を唱える研究者たちは①遣唐使が蝦夷を随伴して渡航したとの記録②蝦夷との交渉に通訳を必要とした事実③東北北部に多数残るアイヌ語源と思われる地名の数々、といった蝦夷=アイヌ説の論拠についてほとんど言及しないことだ。
彼らは「考古学の発掘調査で得られた知見」を並べ立て、蝦夷=アイヌ説では説明しがたい問題を突きつけることに終始している。
そうした反省もあってか、蝦夷=日本人説を唱えてきた研究者からは「邪馬台国論争は畿内説か九州説のどちらかが正しければ、一方は誤りとなるが、古代蝦夷の問題は二者択一の論理では解決がつかない問題ではないか」といった見解も出てきた。
福島大学名誉教授の工藤雅樹は、2000年9月の講演で「東北地方北部の縄文人の子孫は北海道でアイヌ民族を形成することになる人々と途中まではほぼ同じ道をたどったものの、最終的にはアイヌ民族となる道を阻まれて日本民族の一員となった」と語った。
確かに、どちらの説に立っても、それぞれ説明が難しい問題がある。研究者の間では「蝦夷がエゾと呼ばれるようになり、アイヌ民族というものが成立したのは平安時代の末期から」というのが定説になっている。それを前提にすれば、奈良時代や平安初期の時代を生きた東北の蝦夷(えみし)を「アイヌ系」と呼ぶのはためらわれるのかもしれない。
だが、ある集団はある時点からいきなり「民族」になるわけではない。それは連続したプロセスであり、言語や風俗、習慣、規範などが変化しながら形成されていくものだろう。
そういう観点から「古代東北の蝦夷とはどういう人たちだったのか」と考えれば、やはり「アイヌ系の人たち」と見るのが自然で、蝦夷=日本人説は受け入れがたい。
古代の東北については「蝦夷はアイヌ系か日本人か」「38年戦争とは何だったのか」という論争にエネルギーを注ぎ過ぎて、その前後の探求がおろそかになっている、という指摘もある。実はこのことこそ、より重要な問題なのかもしれない。
蝦夷と呼ばれた人たちはもともと、東日本全体に広がっていた可能性がある。彼らは畿内の勢力によって関東から北へ、さらに東北北部へと追いやられたのではないか。その挙げ句に長く苦しい戦争を強いられ、敗れていったと考えられる。
だとするなら、この過程で朝廷側に投降・帰順した蝦夷は「数世紀にわたって」西日本や関東などに次々に移住させられた可能性がある。では、俘囚(ふしゅう)と呼ばれたその人たちはどうなったのか。
東北大学名誉教授の高橋富雄(2013年没)は、「それからのエゾ」についても「しっかりした見通しを立てておく必要がある」とし、「この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる」と指摘している。
移住させられた俘囚の運命、差別にさらされた彼らのその後の歩みをも視野に入れて研究し、論じていかなければならない、と後に続く人たちに呼びかけた。
残念なことに、私が知る限り、そうした長い射程で古代東北の蝦夷の問題を捉(とら)え、被差別部落の歴史まで視野に入れて探求し続けた人はほとんどいない。
在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)は長い射程でこうした問題を探求した人で、被差別部落の実態とルーツについては膨大な踏査記録を基に貴重な著作を残した。
ただ、山哉は「東北の蝦夷はアイヌではなく、別の先住民族のコロボックルである」といった突飛な説を唱えた。著書『蝦夷とアイヌ』では「その民族性が如何に殺伐性のものであるかを、深く注意する必要がある」「元来、劣等種であり獣性の脱せざる彼等」など、アイヌについて偏見に満ちた記述をしており、高橋が求めたような研究の基礎にするわけにはいかない。
「うずもれた歴史を掘り起こし、日本史の暗部を照らし出す作業」はこれからの課題、と言うしかない。
◇ ◇
岩手県胆沢町の角塚古墳のところで「蕨手刀」について触れた。この古刀の存在そのものは江戸時代から知られており、記録にも残っている。
刀の柄(つか)の頭の部分が早蕨(さわらび)のように丸まっていることから、探検家で博物学者でもあった松浦武四郎が明治初期に名付けたとされる。
この刀が注目されるのは、出土・発見された場所が図3のように東北と北海道に集中しているからである。発見後に紛失したものも含めれば、これまでに300を超す蕨手刀が知られており、その8割が東北と北海道で見つかっている。このため、古くから「蝦夷の刀」と考えられてきた。
作られたのは7世紀から9世紀と推定され、その後、姿を消す。東北の蝦夷が畿内の朝廷勢力と戦った時代と重なることも「蝦夷の刀」との見方を強める。
蕨手刀は片手で持つ刀で、柄が上に反っているのも特徴の一つだ。広島大学名誉教授の下向井龍彦は、この反りが「疾駆する馬上での激しい斬り合いに耐える」ことを可能にし、「蝦夷の騎馬戦士の強さの秘密はこの蕨手刀にあった」と唱える。
蕨手刀はしばしば、古墳から副葬品として発見される。私が住む山形県の場合、南陽市だけでこの時期の小さな円墳が100以上あり、蕨手刀が副葬品としていくつも出土している。いずれも「被葬者は蝦夷の有力者」と見るのが自然だろう。
問題は、この蕨手刀が群馬県や長野県でもかなり見つかり、西日本でもわずかながら発見されていることだ。山口県萩市の沖合にある見島からも出土した。
これらをどう考えるか。歴史学者の喜田貞吉や下向井は「移住させられた俘囚が持ち込んだもの」と推測するが、異論もある。
『蕨手刀の考古学』の著者、黒済(くろずみ)和彦は、古いタイプの蕨手刀が上野(こうずけ)と信濃で見つかっていることから「上信地方が蕨手刀の発祥の地であり、そこから東北に伝わった」と見る。西日本で発見された蕨手刀についても「俘囚による持ち込み説」を否定している。
「蝦夷=アイヌ説」と「蝦夷=日本人説」の対立にも似て、蕨手刀をめぐっても「蝦夷の刀鍛冶が作り、蝦夷が使った」という説と「日本人が作り、東北に持ち込んだ」という説に分かれ、鋭く対立している。
私はもちろん、ここでも蝦夷説を採る。日本人説には「時間軸を長く取り、物事を大きな流れの中で捉える」という姿勢が感じられないからだ。
たとえば、蕨手刀の古いタイプが上野や信濃で最初に作られたのだとしても、それは刀鍛冶が日本人だったことを意味するとは限らない。この地方に残っていた蝦夷の刀鍛冶が作った可能性もあり、彼らが東北に移って作刀技術を伝えたとも考えられる。
また、西日本に送られた俘囚にしても、全員が移住後に隷属的な身分に貶(おとし)められたわけではない。史書をひも解けば、大宰府の管内で防人(さきもり)として重用された蝦夷もいたことが分かる。
山口県の見島は、朝鮮半島から来襲する海賊に備えて大和朝廷が防備を固めた島の一つである。その島に防人として赴任した俘囚たちがいて、その族長が亡くなって葬られ、棺に蕨手刀を添えた、ということも十分に考えられることなのだ。
歴史の大きなうねりの中で物事を捉える。朝廷の立場からだけでなく、蝦夷の側からも十分に光を当てる。そういう作業を地道に積み重ねていけば、古代東北の蝦夷たちがたどった道も少しずつ見えてくるのではないか。
https://news-hunter.org/?p=12499 【安倍晋三氏のルーツは朝廷と戦った東北の豪族|東北の蝦夷と被差別部落(その6)】より
2022/5/27社会前九年の役, 奥六郡, 安倍一族, 安倍晋三, 昭恵夫人
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安倍晋三首相(当時)の昭恵夫人が知人の招きで山形県の長井市を訪れたのは、2017年の夏だった。長井市内で開かれたイベントに参加した後、昭恵さんは最上川の支流・野川の奥にある三淵(みふち)渓谷まで足を延ばした。
高さ50メートルほどの断崖が続く渓谷にはかつて三淵神社があったが、その場所は長井ダムの完成によって水没し、神社はさらに奥の山腹に移された。昭恵さんは地元の人たちが用意してくれたボートに乗って渓谷へと進み、神社の方角に向かって手を合わせたという。
「この時期はよくコシジロ(アブの一種)が出ます。お付きの人たちはキャーキャー騒いであちこち刺されていましたが、昭恵さんは泰然としていました」。一行を案内したNPO最上川リバーツーリズムネットワークの佐藤五郎・代表理事は振り返る。
ボートの手配まで依頼して昭恵さんがこの地を訪れ、手を合わせたのはなぜなのか。それは、この渓谷にまつわる不思議な物語を知ったからである。
◇ ◇
物語は1,000年ほど昔にさかのぼる。舞台は古代の東北である。陸奥(むつ)と出羽で暮らしていた蝦夷(えみし)は畿内の朝廷勢力との「38年戦争」に敗れ、いったんはその支配下に組み込まれたが、11世紀の半ばには再び勢力を盛り返していた。
この時期、「奥六郡」と呼ばれた岩手県の中部から南部にかけての地域を実質的に支配していたのは安倍一族だった(図参照)。
奥六郡は砂金と馬の産地であり、アザラシの毛皮や鷲の羽、絹の供給地でもあった。それらの品々は朝廷への貢租として納められ、都の人たちに珍重されてきたが、安倍一族は貢納をやめ、その支配を衣川の南へ広げようとした。
朝廷にとっては許しがたいことである。永承6年(1051年)、「前九年の役」と呼ばれる戦争が始まる。陸奥守、藤原登任(なりとう)は出羽の軍勢も動員して、鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で安倍一族との合戦に臨んだ。
結果は安倍一族の圧勝、朝廷側の惨敗だった。藤原登任は多数の死傷者を出して敗走し、更迭された。
代わって陸奥守に就任したのが、武勇のほまれ高い源頼義である。頼義は「安倍一族追討」の命を帯びて着任したが、その前後に後冷泉天皇は祖母、上東門院(藤原彰子)の病気快癒を願って恩赦を発布した。朝廷軍と戦った安倍一族の棟梁、安倍頼時(よりとき)や息子の貞任(さだとう)らの罪がすべて許されることになったのである。
安倍一族は源頼義を盛大にもてなし、恭順の意を示した。陸奥にしばしの平和が訪れた。だが、それも長くは続かなかった。
天喜4年(1056年)、源頼義の家臣と安倍貞任との間に争いが起きた。阿久利河事件と呼ばれる。頼義の家臣の妹との結婚を貞任が申し入れたのに対し、その家臣が「安倍のような賎しい一族に妹はやれぬ」と断ったことに貞任が怒り、夜討ちをかけたとされる事件で、これをきっかけに再び戦さが始まる。風雪の中、朝廷軍と安倍一族は激突し、またもや貞任率いる安倍一族が圧勝した。
前九年の役を記録した『陸奥話記』は「官軍大いに敗れ、死する者数百人なり」「将軍の従兵、散走し、残るところわずかに六騎」と伝える。源頼義は命からがら逃げ延びた。
戦争の様相が一変するのは、出羽を支配する清原一族が朝廷側に加わってからである。源頼義に懇請され、清原武則(たけのり)は1万の軍勢を率いて参戦した。朝廷・清原連合軍は城柵に立てこもる安倍一族を次々に打ち破り、壊滅に追い込む。安倍貞任は瀕死の状態で捕らえられて息絶え、息子や家臣もことごとく処刑された。
奥六郡を支配した安倍一族とは、どのような人たちだったのか。『陸奥話記』には、父祖安倍忠頼は「東夷の酋長なり」とある。「俘囚安倍貞任」と記す史書もある。
素直に読めば、古代東北の蝦夷で朝廷に服属した一族となる。だが、岩手大学の高橋崇教授は著書『蝦夷の末裔』に「地方官として陸奥に赴任し、土着化した勢力」や「移民としてやってきて豪族になった一族」である可能性も否定できない、と記した。
都で暮らす人々にとって陸奥や出羽は「地の果て」であり、住民そのものを「蝦夷」や「俘囚」と称して蔑む風潮があったからである。史書をいくら読み込んでも一族の出自を明らかにすることはできない、という。
朝廷に立ち向かうほどの力を誇った安倍一族は滅びた。ただ、ごく少数ながら生き延びた者もいた。貞任の弟の宗任(むねとう)は投降して許され、源頼義が陸奥守から四国の伊予守に転じると、伊予(愛媛県)に配流された。宗任はその後、さらに太宰府管内に流されて没した。この宗任こそ、安倍家の先祖である。
安倍晋三氏の父、晋太郎氏(元外相)は、盛岡タイムス社が発行した『安倍一族』(1989年発行)に「我が祖は『宗任』」と題して、次のような文章を寄せた。
「筑前大島(福岡県宗像郡大島村)に没した安倍宗任の後裔である松浦水軍が、壇ノ浦の合戦に平家方として参戦、敗れ散じたわが父祖が長門の国、先大津後畑(さきおおつうしろばた)の日本海に面した部落に潜み、再度転居の後、現在の地(山口県大津郡油谷町蔵小田)に住むことになったのは明治に入る前後のこと」
「先頃、宗任配流の地大島の住居跡に建立された安生院において、御縁の皆さんによって八百八十年の追善供養が行われましたが、八百八十年という歳月は気の遠くなるような長さにも思われますが、宇宙の大きいサイクルからみれば、ほんのしばらくの時間なのかもしれない」
「奥州文化の代表である金色堂も、毛越寺も、敗れた一族の華として今を息づいていることを思うとき、宗任より四十一代末裔の一人として自分の志した道を今一度省みながら華咲かしてゆく精進をつづけられたらと、願うことしきりです」
苦難の道を歩んだ宗任や父祖への慈愛に満ちた文章である。安倍家の系図を晋三、晋太郎、寛(かん)とたどっていくと、高祖父は英任と名付けられていることが分かる(系図参照)。宗任の「任」の名を引き継いだのは、それを誇りとしていたからだろう。
さて、昭恵夫人の三淵渓谷訪問である。長井市には、前九年の役について次のような物語が伝わっている。
安倍貞任の息女に「卯(う)の花姫」という美しい姫がいた。宗任の姪にあたる。源頼義が陸奥守として着任し、安倍一族が盛大にもてなした際、姫は頼義の長男、義家と相思相愛の仲になった。義家からは「北の方(正妻)として都にお迎えする」との文も届いたものの、戦さによってその仲は引き裂かれた。
安倍一族が敗れた後、姫と一行は出羽に逃れ、朝日連峰の山道を通って長井の庄にたどり着いた。野川の奥にある山に館を構え、僧兵の助力も得て源氏の追手と何度か戦ったものの力尽き、三淵渓谷の断崖から身を投げて自害した。付き従った女性たちも渓谷に身を投じ、兵もみな討ち死にした――。
戦記の『陸奥話記』にも『今昔物語集』にも、卯の花姫のことは出てこない。だが、三淵渓谷の奥には、この物語の通り「安部ケ館(あべがたて)山」という山があり、国土地理院の地図にも記されている。(*注:「安部ケ館山」のアベは「安倍」ではなく「安部」)
長井市を訪問するにあたって、昭恵さんはこうした物語があることを知り、三淵渓谷を訪ねることにしたのだという。手紙で問い合わせると、「私は全てはご縁と思っており、私がやるべきことは神様が与えて下さると信じて流されるままに生きております」と返事があった。
卯の花姫の物語は人々の口から口へと伝えられたものと見られ、江戸時代の医師で文人の長沼牛翁(ぎゅうおう)(1761~1834年)が見聞録『牛涎(うしのよだれ)』に書き留めている。
牛翁は長井の呉服商の長男だったが、家業を弟に譲り、全国を漫遊した人物である。江戸で医術を学ぶなど、その旅は帰郷まで足かけ29年に及んだ。見聞録『牛涎』は全60巻の大著で4巻が欠落、56巻が地元に残る。卯の花姫の物語は第15巻に収録されている。
物語はしばしば、伝説と渾然一体となる。
最期を悟った卯の花姫は「龍神となってこの地の人々を守らん」と言い残して断崖に身を投じたとされ、人々は三淵渓谷に祠(ほこら)を建てて祀(まつ)った。そして、姫は毎年、龍神となって野川を下り、化粧直しをしたうえで長井の庄の神社に入るのだという。
長井市では5月の下旬、各神社から龍神を思わせる「黒獅子」が出て市街地を練り歩く。コロナ禍で中止や規模の縮小を余儀なくされてきたが、この夏は3年ぶりに黒獅子舞が披露され、街は沸き立った。
龍神の話はともかく、卯の花姫が長井の庄にたどり着き、三淵渓谷で自害したという話は、単なる伝説とは思えないところがある。姫は侍女の一人に「生き延びてわが亡き後の菩提を弔うておくれ」と申しつけ、侍女はそれを守り、その末裔が連綿と姫の霊を祀ってきた、という伝承もある。
実際、渓谷の入り口にあたる長井市平山には代々、青木半三郎を名乗り、「八朔(はっさく)の祀り」を営んできた家族がいる。八朔は旧暦の8月1日のことで、卯の花姫が自害した日とされる(今年は8月27日)。
現在の当主、青木芳弘さん(62)によれば、一家は大昔には山奥の「桂谷(かつらや)」という集落で暮らし、150年ほど前までは今より奥の川岸に2軒だけで住んでいた。八朔の日には羽織、袴姿で「木流しの職人」たちが20人ほど集まり、川岸で円陣を組んで龍神を出迎えていたという。
青木家と渋谷家が毎年交代で酒宴の席を設けてもてなし、遠来の客には泊まってもらう習わしだったが、それも先々代で途絶え、渋谷家も離れていった。その後は青木家の敷地内に建てた小さな祠に家族だけでお供えをし、手を合わせているという。
青木家には「ご神体」とされる品々が伝わる。金属製の古い鏡とベッコウの櫛、笄(こうがい)である。その由来も意味も今となっては判然としないが、いずれも伐採した木を川に流すことを生業とする職人たちとは無縁の品々だ。「卯の花姫の形見」と考える方が合点がいく。
青木家のことは昭恵さんには初耳だったようだが、安倍宗任については、手紙への返事で次のように記している。
「安倍宗任の話は安倍家に嫁に来た30年以上前から聞いてはいましたが、主人が2度目の総理になってからとても近く感じるようになり、宗像市大島にある安倍宗任のお墓に私は何度もお参りすることになります」
「一度はこの日しか行かれないということで、たまたま行った日が宗任の亡くなった日であったこともあり、1,000年の時を経てご先祖様は何を主人に伝えたいのだろうかと思ったりしていました」
現職首相の妻でありながら反原発、大麻解禁を唱え、「家庭内野党」と称した人は、長い歴史の流れに身をゆだねて生きる人でもあった。
古代の東北で源氏が率いる朝廷の軍勢と戦い、一敗地にまみれた一族の末裔が生き延びて力を蓄え、安倍寛、安倍晋太郎、安倍晋三という3人の政治家を世に送り出し、ついには憲政史上最長の政権を担うに至った。
歴史のダイナミズム、人と人との巡り会いの不思議さを感じさせる物語である。
【訂正】「鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県鳴子町鬼首)」とあるのは「鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)」の誤りでした。訂正します(本文は訂正済み)。