飛鳥・藤原を世界遺産に
https://www.pref.nara.jp/63493.htm 【飛鳥・藤原を世界遺産に】より
八角墳の創出
古墳時代(3〜6世紀)を通して続いた前方後円墳の造営は、7世紀に入り、方墳造営へ移行しました。飛鳥地域では石舞台古墳(明日香村)や菖蒲池(しょうぶいけ)古墳(橿原市)が知られており、これらはまだ横穴式石室や家形石棺など古墳時代の形式をとどめていました。
その後、乙巳(いっし)の変(645年)にはじまる一連の政治改革「大化の改新」では、薄葬令(はくそうれい)により、墳墓や墓室規模が規制されました。さらに、天皇を頂点とする中央集権体制の確立に向けて、最上位の墳墓として新たに日本独自の八角墳が生み出されました。八角形の墳丘を凝灰岩の貼石で化粧した墳墓です。飛鳥では、牽牛子塚(けんごしづか)古墳、天武・持統天皇陵古墳、中尾山(なかおやま)古墳があります。
牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳の発掘調査八角形の墳形が明らかになりました
火葬の導入と古墳の終焉
古墳時代からの葬送儀礼にも大きな変化が見られます。仏教とともに伝わった火葬の導入です。それまでの身体を納める棺から、火葬骨を納める骨蔵器(こつぞうき)(骨壺)を石室へ納めるようになりました。歴史上、初めて火葬された天皇は持統天皇とされており、鎌倉時代の状況を記した『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』には、天武・持統天皇陵古墳の石室の中に、棺と金属製の壺が併置されていたとされます。また、中尾山古墳は骨蔵器だけを納めることを前提とした小さい石室となっています。
この中尾山古墳が八角墳の最後の造営となりました。平城京へ遷都後の天皇陵は、唐に倣(なら)い、山を墳丘に見立てる山陵形式となり、古墳時代から続いた墳墓の造営が終了しました。
石舞台古墳の石室内部(石室奥から入口へ)
中尾山古墳の発掘調査
八角形の墳形と特異な墳丘構造が明らかになりました(写真提供:明日香村教育委員会)
※両方とも発掘調査終了後、現在は埋め戻されています
中尾山古墳
明日香村
中尾山古墳は明日香村平田にある墳墓です。壁画古墳として著名な高松塚古墳の北側に位置します。令和2年の発掘調査では、小型の石室を備えた八角墳であることを確認しています。最上位に位置づけられる八角墳と、火葬で単独埋葬されているという条件から、文武天皇の陵である可能性が指摘されています。墳丘は一段目、二段目が基壇状の石積み、三段目を土盛りとする特異な形であり、火葬と合わせて仏教的要素が濃いものとみられます。
古墳時代より続いてきた墳墓の最終段階の姿です。
『西国三十三所名所図会』(1853年発行)
中尾山古墳の石室
(写真提供:明日香村教育委員会)
「飛鳥・藤原」の紹介動画
https://www.youtube.com/watch?v=dEs_fbBoc9U
https://www.mindan.org/old/front/newsDetail1100.html 【常識を覆す日本最大級の石室 渡来の東漢氏 真実の姿は】より
真弓鑵子塚古墳の横穴式石室 奈良明日香村の真弓鑵子塚
奈良県明日香村にある真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳(6世紀中頃)の横穴式石室が、床面積が18畳分もあり、日本最大級だったことがこのほど確認された。これまでは、同じ明日香村にある蘇我馬子の墓とされる石舞台(7世紀前半)が最大級とされていた。真弓鑵子塚古墳は、渡来系の有力氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)の墓域にある。日本古代史に新たな謎の出現だ。
百済系の有力集団
蘇我馬子を凌ぐ権力者か
東漢氏とは、秦氏と並ぶ古代の渡来系有力豪族だ。始祖伝承によると、応神大王の治世(『日本書紀』では応神20年条・実際の年代では5世紀後半)に、後漢の霊帝(れいてい)の曾孫とされる阿知使主(あちのおみ)が、息子の都加使主(つかのおみ)とともに、党類17県・7姓の漢人(あやひと)を率いて、朝鮮半島の帯方から渡来したとされている。
この伝承では、渡来時期はある程度史実と考えられるとしても、秦氏が秦始皇帝の末裔と自称しているのと同様、始祖が後漢皇帝とは史実として認めがたい。実際には伽耶諸国のひとつ安羅(あら、安邪=あや)から渡来した人々が、擬制的に同族集団をつくりあげたと指摘する学者が多い。
ただし、漢氏を名乗る氏族は、西漢氏(かわちのあやうじ)や志賀の漢人、百済渡来の「今来才伎(いまきのてひと)」などを含め、秦氏が新羅系(新羅に併合された伽耶諸国を含む)としてまとまっているように、百済系氏族としてのまとまりがあり、実際は百済(百済に統合された伽耶諸国を含む)からの渡来氏族集団の可能性が高い。
日本古代史に新たな謎呼ぶ
真弓鑵子塚古墳の石室の広さは、古代史に新たな大きな謎を投じた。この時代、墓の規模はその人物の権力の大きさにほぼ比例する。明日香村周辺では、石舞台の石室は付近のどの天皇陵よりも広く、6世紀後半から7世紀前半にかけて、蘇我馬子は天皇をも凌ぐ事実上最大の権力者であったことを示すものでもある。
ところが、ほぼ同時代(6世紀中頃)の東漢氏の古墳・石室が蘇我馬子のそれより広いということは、これまでの常識ではまず考えられない。
日本書紀によると、592年に崇峻天皇が殺害された。殺害を命じたのは蘇我馬子で、実際に犯行に及んだのが東漢氏の倭漢直駒(やまとのあやのあたいこま)とされている。石舞台を凌ぐ国内最大の石室を建造した氏族の一員が、ほぼ1世代後には石舞台(古墳)に葬られた人物の『使い走り』の役割を担っているのである。
蘇我馬子による崇峻天皇殺害の命は、蘇我氏の権勢を示すと同時に「悪役」の印象を強く与え、馬子の孫・入鹿の殺害(大化の改新)を正当なものと印象づける伏線になっている。今回の発掘で、「崇峻天皇殺害」の真相や東漢氏の真実の姿が、今までの常識とはかなり違っているのではないかという疑念を新たに生じさせる。
子孫の史氏は訓読の発明者
東漢氏からは、古代政権を支えた多彩な官僚氏族を輩出したが、最も有名なのは『蝦夷征伐』の田村麻呂がいる坂上氏である。ほかには、公文書の執筆を担ってきた史(ふみと、文・書=ふみ、とも言う)氏も重要だ。一昨年に亡くなった漢字研究の世界的権威・白川静氏は、「本当の訓読を発明したのは、『史(ふみと)』として文章のことをやっていた、百済人だと思う」と述べている。
これまでの古代史研究ではあまり重視されていなかった印象がある東漢氏だが、発掘を契機にもっと注目されてもいいだろう。今までの常識を覆すような、大きな謎を秘めているかもしれない。
フリー・ジャーナリスト 吉成 繁幸
(2008.2.20 民団新聞)
https://jhistory.work/kenkyu04-sushun.html 【論文「崇峻天皇の暗殺の否定と能除大師」】より
『聖徳太子の復活』で崇峻天皇の暗殺を否定し、聖徳太子に後ろめたいことは無いと論述しましたが、それを展開して論文にし、関連する能除大師にも研究対象を広げました。
合理的推論により、崇峻天皇の暗殺を否定すると共に能除大師に関する真実を発見したと考えています。
内容一部引用
はじめに
崇峻天皇の治世は足かけ六年程と短く、日本書紀による在位各年の記述も詳しいものではないが、崇峻天皇暗殺という重大事件が記載されている。蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺したとされるこの事件は、逆臣にして非道な蘇我氏を象徴するとされる。しかし、6世紀末に突如起こったこの事件には疑問点が多い。その前の妃と子女に関する記事も、他の史料と付き合わせると疑問点が生じる。従来、この疑問点は突き詰めて考えられることはなく、見過ごされてきたが、論理的に推論を加えて突き詰めると重大な結論が生じることを発見した。この論文はその発見をご報告すると共に、付随して導かれる羽黒山修験道開祖能除大師に関する知見をご報告したい。
この論文は日本歴史学会に投稿し、不採用となったものです。
講評は、
「全体として、自身に都合の良い憶説をつなげており、史料についても、都度自身の説に引き付けて解釈するばかりで、適切な研究史整理・史料解釈がなされているとは言い難い。 能除大師はじめ出羽三山関連の伝承・縁起などについても、ホームページや一般書の記述によるばかりで、学術的な考察の前提が整えられていない。また、信仰の山々の在り方についても、適切に理解しているようには見受けられない。」というものでした。
私は、日本書紀について合理的根拠に基づく客観的解釈を行ったと考えており、不当だと考えています。また、ホームページや一般書の記述による知識を前提として、その上にメタ思考を加えて考察する研究方法も有り得ると考えています。
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